第百八十九話
第百八十九話
夜分にキルケのもとに訪れたクリスタニアは、暗殺者夜霧を伴っていた。
これにはさすがのキルケも不快であった。
「ああ、彼のことは気にしないでください。私の護衛です。まぁ、私も彼の護衛なのですが」
「……まぁ、お仲間ということでしたら」
キルケは不機嫌な態度を隠さずに頷いた。
クリスタニアの視線が動き、テーブルに置かれたグラスを見る。
「お酒をお召しでしたか」
「ええ、少し寝付けなかったもので」
教会では飲酒は認められている。もちろん過度な飲酒は不道徳とされているが、グラス一杯程度ならば十分許容範囲だった。
「いけませんでしたかな?」
「お楽しみのところ申し訳ありませんが、大事な話ですので」
キルケが不機嫌さを滲ませながら答えると、クリスタニアは宝玉がついた杖を軽くかざす。
杖から白い光が放たれ、キルケの体を包み込んだ。
「何を!」
キルケが驚いたのも一瞬のこと、光はすぐに収まり消え去った。
何をされたのか最初はわからなかった。だがすぐに酒でぼやけていた思考がはっきりとしてきた。体内のアルコールが分解されたのだ。
癒しの技を用いれば、体内に入り込んだ毒素を分解することも可能だ。アルコールを毒素として分解したのだろう。だがクリスタニアがしたのは、それだけではなかった。
キルケは恐る恐る自身の腰に触れた。
先程まで痛んでいた腰の痛みが、綺麗さっぱりと消えていた。ぼやけていた視界も、遠くの物や近くの物がはっきりと見える。他にも体の細かな不調が全て消え去り、活力がみなぎっていた。まるで十年。いや二十年若返った気さえする。
キルケは目を見開いてクリスタニアを見た。これまでキルケは何度か癒しの技を使う者に、体を見てもらい治療してもらった。だがこれほどまでの効果を、キルケは感じたことがなかった。
「あと、念のために」
クリスタニアはもう一度軽く杖を掲げた。するとまた杖から白い光が放たれ、キルケの視界を覆った。眩んだ視界が戻った時には、先ほどまでいた部屋は様変わりしていた。
床も壁も天井も、白く輝く光の壁で覆われていたのだ。
「これは一体?」
「結界です」
「結界ですと?」
「はい、空間を切り取っています、これで少しは安全でしょう」
簡単に言うクリスタニアの言葉が信じられなかった。確かに邪を祓い、魔を寄せ付けぬ結界という技は存在する。だがクリスタニアがして見せたものは、結界などとは呼べぬ、聖域といっても良いものだった。
キルケは唾を飲み込んだ。
クリスタニアは堕落した。そんなことを思っていたが、とんでもない誤りだ。
今までに教会が聖女と認定したものは何人もいた。だがクリスタニアはこれまでいた聖女とは別格だ。遥かなる高みにいる。
「クリスタニア様。あなたは一体……」
キルケは慎重に尋ねた。
これほどの技を納めた者が、堕落などしているはずがない。日々錬磨している者だけが到達できる境地だ。だがなんのために、そこまでの修練を自らに課しているのか。キルケにはそれが分からない。
「キルケ様。今日マダラメと会談されましたが。どう見られましたか?」
クリスタニアはキルケの質問に答えず、逆に問うてきた。
「それは……底知れぬ相手、ですな」
キルケは慎重に答えた。クリスタニアがマダラメをどう見ているのかは分からない。いったい何が聞きたいのか。
「はい、大変危険な相手です。類を見ないほどに」
クリスタニアはきっぱりと言い放った。しかしキルケとしては驚くほかない。今日会った限りでは危険のきの字もなかった。
「危険、ですか?」
「はい、あのマダラメとそのダンジョンは大変危険です。出来うるならば、即刻攻略するべきダンジョンです」
「ちょ、ちょっと待ってください。攻略ですか? てっきりあなた方はあのダンジョンに好意的なものだとばかり思っていましたが」
キルケは訳が分からなかった。
マダラメの会談に出席するよう、教会に要請したのはクリスタニアだ。中立化を推し進めマダラメに協力したと言っていい。にもかかわらず攻略するという。訳が分からなかった。
「いえ我々は、マダラメのダンジョンを攻略することで意見が一致しています」
クリスタニアは一瞬だけ振り返り、背後に控える夜霧に目を向けた。我々とはおそらく四英雄のことだろう。だが世界に名だたる四人の英雄が、警戒するほどの相手と思えない。
「それほどまでに危険な相手ですか?」
キルケが今回話した限りでは、マダラメに危険性はなかった。会談においてキルケはかなり強引な話の進め方をした。気の短い相手なら激怒していたことだろう。怒らせることもキルケの狙いの一つだったからだ。しかしマダラメはキルケの狙いを知ってか知らずか、怒ることなく話を進めた。大変理性的で、下手な相手より話の分かる相手だった。
「いいえ、あのダンジョンは危険です。私たちは一歩足を踏み入れた瞬間に気づきました。即刻攻略すべきだと」
クリスタニアは断言する。四英雄がそこまで警戒するほどなのか。
「ではなぜ攻略しないのです?」
「攻略できる保証がありません」
当代最高の聖女が、顔を陰らせた。
「私たち四人は、最初あのダンジョンに足を踏み入れた時、その危険性に気づきました。私たちの力ですら、対抗できるかどうかわからないと」
「貴方たち四人が束になってでも、届かないというのですか?」
キルケはとても信じられなかった。クリスタニアの実力はすでに先ほど証明されている。歴史をさかのぼっても、クリスタニアほどの使い手はいない。他の四英雄が同レベルであるとすれば、人類史上最強の四人と言っていいかもしれないのだ。
「それはわかりません。ですが私たちが失敗すれば、その時人類に対処するすべがありません。今はまだあのダンジョンは爪を隠し、牙を収めています。ですが私たちが挑めば、眠る竜を起こすことになるかもしれません」
クリスタニアの説明を聞き、キルケは喉を鳴らした。
四英雄がいなくなった後、目を覚ました竜を誰が止めるのか。キルケ自身にも答えがみつから無かった。
「私たち四人は盟を結び、あのダンジョンに対抗する力をこの地に集めています。シグルドは剣の館を築き、名だたる剣士や戦士を集結させています。アルタイルは魔導都市の魔法使いたちを、夜霧は暗殺ギルドの手練れたちを呼び寄せています」
クリスタニアの告白に、キルケは身震いする思いだった。知らぬ間にそのような同盟機構が作り上げられ、戦力が結集されつつあったのだ。
「キルケ様。お願いがあります。中立国案を後押しし、ここに教会を築いてください。そして教会の精鋭を配備していただきたいのです」
「……それほどまでですか」
「はい。さらに世界中の強国の軍隊も、ここに集めていただきたいのです」
続くクリスタニアの言葉に、キルケは落雷に打たれた気分だった。
「貴方は……このために?」
キルケは再度息を呑んだ。クリスタニアがマダラメの会談に協力したのは、中立国とすることで各国の戦力をこの地に集めることが狙いだったのだ。
今日の会談では様々な思惑や利益が交差していた。だがキルケたちの思惑の外では、四英雄の狙いも加わっていたのだ。
「もしそれが成ったのなら、貴方たちはどうするつもりなのですか?」
「準備が整い次第、挑むつもりです」
クリスタニアは揺るがぬ声で答えた。
あのダンジョンを討てるのは自分たちのみ、たとえ力及ばずとも、その使命に殉じる覚悟が出来ていると、その声が教えていた。
「わかりました、力を貸しましょう。あのダンジョンの上に教会を築き、持てる限りの戦力を集結させましょう。また世界各国に協力を促し、出来るだけ多くの戦力をこの地に集めるようにしてみましょう」
「ありがとうございます」
クリスタニアが深々と頭を下げる。
「しかし……挑むからには勝算はあるのですか?」
キルケは問わずにはいられなかった。
マダラメは抜け目のない男だ。四英雄が攻撃の準備をしているのならば、向こうも対策を講じているだろう。今回の会談で、キルケはマダラメの予想を超える一手を打てなかった。マダラメの想定は深く、相手の予想を超えることは簡単なことではない。よほど意外な手を打たねば、彼には届かないだろう。
「はい、最近。すこしだけ」
クリスタニアはそれだけ答えた。