第百六十七話
第百六十七話
眠るサイトウは、腹部の激痛で目を覚ました。
痛みを堪えて目を開けると、目の前には胸を覆う胴衣に短いスカートのラケージが腕を組みこちらを見下ろしている。
「おはよう、昨夜はよく眠れた? お腹は空いてないようね」
ラケージは黒髪の下にある赤い唇を、皮肉に歪ませる。長いまつ毛を持つ視線の先には、食い散らかされた食材があった。昨夜食糧庫に忍び込み、サイトウが食べたものだ。
「ああ、十分食べさせてもらったよ」
サイトウは起き上がり身構えた。
「なら、食べた分はしっかりと楽しませてもらうわ」
ラケージが笑みを見せる。
「そうはいくか!」
サイトウはその顔に向けて右手で殴りかかった。
拳が顔に当たる寸前、ラケージの左手が伸びてサイトウの拳を掴む。
攻撃を阻まれたが、サイトウはそのまま右手に力を込めて押す。闘気を込めて全力で押したが、片手で受け止めるラケージは涼しい顔をしていた。
「それで全力?」
ラケージが嘲笑を見せた後、手に力を込める。殴りかかった手が徐々に押し返されていく。サイトウは赤い闘気を全身から放出して抗う。だがラケージの力は強い。まるで巨人を相手にしているようだった。強大な力に屈して膝をつく。
「その程度?」
ラケージが拳を掴む指に力を込める。するとサイトウの指の骨が軋み、音を立ててへし折れた。
「あら、脆い」
悲鳴をあげるサイトウを見て、鈴の音のようにラケージが笑って手を離す。サイトウは握り潰された右の拳を左手で抱えうずくまった。しかし倒れはしなかった。
ここ数日で、痛みには慣れてきた、回復魔法にも。
手を抱えたサイトウは左手で回復魔法を発動し、即座に砕けた拳を癒す。二秒で骨折を治療して、立ち上がると同時に殴り返した。
「あら」
ラケージは目を丸めながら、後ろに下がってサイトウの攻撃を回避する。
「少しは上手くなったじゃない」
「お前ら凡人とは違うんだよ!」
「さすが勇者」
からかうようなラケージの言葉に、サイトウは目を見開く。
「お前、俺のこと知ってたのか」
「まさか、知らないわよ。私はここに一年近くいるから。でも、サイトウって名前からして勇者でしょ? みんな気づいているわよ?」
ラケージに指摘され、サイトウは顔を顰めた。
「でもこんなところに閉じ込められているとはいえ、腐っても勇者ね。覚えが早い。私がそこまでになるには、何年もかかったのに」
「当然だ! 俺は勇者だぞ」
唇を尖らせるラケージにサイトウは笑みを見せる。
「なら手加減は少なめでいいわよね」
ラケージが笑って告げた次の瞬間だった。何発もの拳が放たれ、サイトウの体に突き刺さった。
痛みにはだいぶ慣れてきたサイトウだったが、全身を襲う衝撃と痛みに耐えきれずその場に倒れた。
だが痛み以上の驚きが、何発殴られたのか、その拳を見ることができなかったことについてだった。
ラケージの拳があまりにも早すぎた。力以上に、早さが圧倒的に違っていた。
「私の拳が見えなかった? そういう時は目に闘気を集めるのよ。そうすれば速く動くものも見えるようになるし、暗闇でも夜目が効くようになるわよ」
痛みに動けないサイトウに、ラケージが説教じみた言葉を垂れる。
「ほら、早く立ち上がってよ。ユ・ウ・シャ・サ・マ」
ラケージが嘲の声で喋るが、サイトウには聞いている余裕がなかった。痛みに耐えながら、とにかく回復魔法を行使して傷を治療していく。
ラケージが使っていた、痛みを消す麻酔魔法を真似して使うこともできた。だがサイトウはあの魔法を使用しないことを決めた。
麻酔魔法は痛みをすぐに取ることができる。だが麻薬に近い成分であるため、使用後は感覚が鈍る。ただでさえラケージの拳が見えないのに、麻薬で感覚が鈍れば一方的に痛ぶられるだけだった。
せめてあのすまし顔に一発ぶち込み、鼻の一つでもへし折らなければ気が済まなかった。
麻酔を使わずに傷の治療を終えたサイトウは、なんとか立ち上がった。しかし足はふらついていた。傷は治っても体力を消耗している。
震える足を気力で支えると、ラケージが前で笑っていた。
「あら、あなた麻酔は使わない派なの? 私と一緒ね。私も傷を治すときは使わないの。ほら、傷が治る時ってなんとも言えない気持ち良さがあるよね」
ラケージが興奮気味に話すが、そんなわけあるかとサイトウは内心吐き捨てた。
急速に傷を治療すると、傷口を抉るような痛みが走る。骨折を治すときは骨が体内で移動して、骨が折れた時と同じかそれ以上の激痛となる。それが気持ちいいと感じるなど、ラケージぐらいだろう。
「それじゃ、いくわよ」
ラケージが緩く拳を構える。サイトウも身構え、攻撃に備える。
じっとラケージの目を見据えながら、その体の全身を注視する。ラケージの重心が僅かに動き、腰と肩が動く。次の瞬間ラケージの左拳が消失する。
見えた!
サイトウは右腕を跳ね上げ、ラケージの左拳を阻む。
「へへっ、どうだ」
サイトウは会心の笑みを浮かべた。
「へぇ、やるじゃない」
攻撃を防がれたラケージが、またも目を丸くする。
サイトウの目には、赤い闘気が集められていた。闘気で視力を強化したことで、ラケージの攻撃を見切ったのだ。
「これぐらい、楽勝なんだよ!」
「まぁ、基礎の基礎だしね。今まで知らなかった方が問題なんだけど」
勝ち誇るサイトウに、ラケージが鼻で笑う。
「うるせぇ! これでもくらえ!」
サイトウがラケージを殴り返す。拳は防がれることなく、ラケージの顔に命中した。
憎い女の顔を殴ったことに、サイトウの腹の底から、快感がせり上がってきた。しかし喜びはまさに束の間、殴りつけたはずのラケージの顔には傷一つ付いていなかった。殴りつけた顔には、闘気で覆われている。ラケージが闘気で防御したのだ。
「ちょっと、何やってるのよ、もっとちゃんとやってよ!」
ラケージが眉間に皺を走らせてサイトウを睨む。
「目に集めた闘気を攻撃にも使わないと、ただの手打ちになるでしょ!」
咎めるような視線をサイトウに向けながら、ラケージが緩く構える。攻撃が来るとサイトウは身構えたが。だが次の瞬間、サイトウの体は真後ろに吹き飛ばされ、壁に激突した。
先ほどまでの攻撃とはまるで違う、速く、そして重い一撃だった。まるで恐竜に蹴られたかのような感触だった。
体がバラバラになるような衝撃が全身に駆け抜け、床に倒れてなお、身動きひとつできなかった。回復魔法を発動する余力すらなく、ただ痛みを享受するしかなかった。
痛みに耐えながら、サイトウはラケージがこれまで全く本気でなかったことに気づいた。
攻撃された瞬間、サイトウは闘気を目に集めていた。油断もしていなかった。しかし攻撃はまるで見えなかった。先ほどサイトウが防いだ一撃は、ラケージにとってはほんのお遊びでしかなかったのだ。
「ほら、治して! 早く! そんなんじゃぁ私が楽しめないでしょ! はいはい、急いで立つ! 全く、男っていつもそう! 自分だけ楽しむんだから!」
倒れるサイトウに、ラケージが急かすように手を叩く。だがサイトウに見当外れの非難を聞いている余裕はなかった。ようやく動くようになった手をなんとか動かし、回復魔法を発動させた。
体が動くようになって、何とか立ち上がる。ラケージを見ると、女はサイトウに飽きて椅子に座り、朝食がわりに林檎を齧っていた。
「やっと? 寝てるのかと思った」
目を細めて睨みつけるラケージに、サイトウは返事をせずに殴りつけた。ラケージは防ぎもせずに拳を受ける。
今度はラケージの闘気の防御を突き破り、確かな手応えがあった。
ラケージの白磁の顔が赤く腫れ、鼻からは一筋の血が流れ出る。だがラケージにこたえた様子はない。
「さっきよりはマシだけど、全然ダメ。ただ拳に闘気を集めればいいってものじゃないの。それだと身体能力の強化ができないでしょ。まずは踏み込む足! そこに闘気を集めるの。そして足首や太もも、腰に背中、肩の順番で体を走らせるように闘気を移動させて、体の筋力を強化する。そして最後に拳に集めて放つ! こうよ!」
ラケージが手本と言わんばかりに拳を放つ。
再度巨人に殴られたような衝撃が走り、壁にめり込むほどの勢いで吹き飛ばされる。
衝撃と痛みで動けないサイトウを、ラケージが見下ろす。
「ほら、すぐに立つ。甘えない!」
叱りつけるラケージに、サイトウは歯を噛み締めて傷を治療し、立ち上がった。
サイトウを奮い立たせたものはただひとつ、怒りだった。
「お前のその鼻をへし折ってやる」
「ええ、お願いするわ。私鼻を折られるのが好きなの」
「変態が!」
笑うラケージに対し、サイトウは闘気を振り絞った。
来週更新できるかは謎
あまり期待しないでね




