第百六十五話
更新する予定じゃなかったけど、書けたからしてみた
第百六十五話
体中の痛みにサイトウが目を覚ますと、そこは暗い室内だった。
起きあがろうとしたが、体が痛く、動くことができなかった。ここはどこだと目を凝らしたが、部屋は薄暗くてよく見えなかった。
隣の部屋には小さな灯っており、光がここにまで届いていた。しかし周囲を見渡せるほどの光量ではなかった。
ここがどこなのか、視界からは判断がつかなかった。だがサイトウは、自分が横たわる床の感触には覚えがあった。板張りの床の感触は、三日間囚われ続けたラケージの部屋だ。
「……また、ここに戻ってきたのか」
繰り返された拷問が、サイトウの脳裏によぎった。
体中を苛む苦痛と屈辱。そして底すら見えないラケージの悪意と邪悪な発想の数々。
恐怖と絶望がサイトウの脳と体を支配した。
サイトウは自分が武具を身につけていることに気づいた。腰には剣があり、体も鎧に覆われている。装備は気を失った時のまま残されている。
サイトウは剣を抜き、刃を見た。小さな灯りに照らされて、刀身が微かに光る。
ラケージが与える苦痛や屈辱は際限がない。ダンカン達の言葉が正しければ、三回耐え抜いたものはいないのだ。どうせ死ぬのならば、苦痛は少ないほうがいい。
サイトウの瞳が刃の鋒に吸い込まれる。
これで自分の喉を突けば、全ては一瞬で終わる……
サイトウは息を呑み、剣を持つ手に力を込めた。だが……
「馬鹿馬鹿しい!」
剣から視線を外し、サイトウは自分に向けていた刃を外へと向けた。
「自殺なんて、弱い奴のすることだ! 自分で死ぬなんて馬鹿だ」
サイトウは吐き捨てた。
自らだけを尊いとする自己愛。世界は自分のためにあると信じて疑わない、呆れるほどの自己中心的考えが、サイトウを踏みとどまらせた。
「まだ、仕返ししなきゃいけない奴がいるだろうが!」
サイトウは自分に言い聞かせる。
自分を馬鹿にしたマダラメを殺し、拷問したシルヴァーナとメグワイヤに報復し、痛めつけてくれたラケージにも復讐する。
それだけではない。四英雄にカイトとかいう冒険者。ロードロックの連中に教会の馬鹿ども。自分を笑った者に仕返しをしなければ気が済まなかった。
それまで死ぬことはできない。死ぬぐらいなら殺す。サイトウは剣を手にしたまま周囲を見回した。
薄暗い部屋の中で目を凝らすと、灯りがついている部屋は寝室だとわかった。耳をすませば寝室からは寝息が聞こえてくる。
サイトウは剣を手に、寝室に静かに踏み入る。
寝室には大きな寝台があり、サイドテーブルにはランプが灯り、小さな光源となっていた。
寝台の中にはシーツにくるまる女が一人。無造作に髪を投げ出すのはラケージだった。
サイトウは息を顰めラケージを観察する。ラケージの寝息に変化はない。熟睡している。サイトウは素早く周囲の状況を確認した。
寝台の脇には椅子がひとつ。椅子の背にはラケージのコートがかけられており、椅子の上には太めのベルトが置かれていた。ベルトのホルダーや小物入れが付いており、ラケージの鞭や短剣が収められている。
椅子の足元には、ラケージが身につけていたであろう短い胴衣やスカート、さらに黒いブラやショーツまで転がっていた。
どうやらラケージは、裸で眠ることを信条としているらしい。
ラケージが武器を身につけておらず、完全に無防備な状況であることをサイトウが確認すると眠るラケージの体が動いた。サイトウは一瞬身を固めたが、ラケージはただ寝返りを打っただけだった。
眠るラケージが、左肩を上にして背中をサイトウに見せる。
サイトウは息を呑んだ。
シーツからはラケージの足や肩がのぞいている。
ラケージの手足は闇の中で白く浮かび上がり、艶かしい曲線を見せている。子供であっても欲情するような光景だが、サイトウは劣情を抱かなかった。
この女の肢体が放つ色香は、食虫植物が獲物を集める腐臭と同じだ。見とれていればその隙に捕らえられ、あとは玩具にされる。
サイトウは息を呑み、剣を逆手に構えて刃の切っ先をラケージに向ける。ラケージはサイトウに気付いている様子はない。先ほどと変わらず、同じリズムで寝息を立てている。乱れた髪の間からは、細く白い首が見えた。
今なら殺れる。
サイトウは闘気を練り、剣に纏わせる。剣に闘気が満ちた瞬間、力一杯振り下ろした。
刃の切っ先がラケージの首めがけて迫る。だが後少しで首に触れるというところで、刃がピタリと止まった。
サイトウが止めたのではない。サイトウは今も剣を持つ手に力を込めている。剣を阻んでいるのは二本の指だった。
臥したままのラケージがいつの間にか左手を伸ばし、人差し指と中指で剣の刀身を摘んでいた。
たった二本の指、それも女の細指である。だが指に込められた力は万力の如く、剣を掴んで離さない。
両手で剣を持つサイトウは、腕や背中、足腰に至るまで、全身の力を持って対抗するが、剣は微動だに動かない。
「も〜疲れてるんだからやめてよ」
ラケージが恨めしげに目を開けてサイトウを見る。
「お前、起きていたのか!」
「あれで気配を殺していたつもりなの? 笑わせないでよ。足音も大きいし、呼吸も殺せてない。何よりそんなに闘気を放ったら、熟睡してたって目が覚めるわよ」
起き上がったラケージがあくびをする。右手は口元を当てていたが、左手は剣を掴んだまま離さない。
サイトウは剣を持つ手に力を込めたが、びくりとも動かなかった。
「筋力を増したかったら、闘気を練って増やしなさいよ。基本でしょ、そんなこと」
咎めるような視線を受け、サイトウは闘気を練り体を覆う。しかし闘気で筋力を増しても、まだ剣は動かない。
「弱っわ。それで本気?」
ラケージが眉間に皺を寄せる。
「くっ、この」
サイトウは剣から手を離し、ラケージに殴りかかった。しかし次の瞬間、体に衝撃が走り壁まで吹き飛ばされていた。
壁に打ち使えられたサイトウは、呼吸すらできなくなり、床に落ちて痛みに喘ぐ。全身の痛みに耐えながら寝台のラケージを見ると、黒髪の女は立ってすらおらず、手の力だけでサイトウを吹き飛ばしていた。
床に崩れ落ち、動けないサイトウを尻目に、ラケージが椅子にかけたコートを探る。そして縄の束を取り出した。
「今は疲れてるから、明日にしてね」
ラケージがあくびをしながら、右手で縄を操り、軽くしならせる。
縄がサイトウの体にかかったかと思うと、まるで生きているように動いた。サイトウが驚いている間に縄は体に巻きつき、気がつけば縛り上げられていた。一体どうやって縄を動かしたのか見当もつかない。
「悔しかったら自力で縄を千切ってみなさい。お腹が空いたら、これでも食べててね」
ラケージはパンの塊をサイトウの前に放り投げると、自分はシーツにくるまりまた寝入ってしまった。
「くそっ」
サイトウは両腕に力を込め、縄を千切ろうとした。闘気で強化した筋力なら、ただの縄ぐらい簡単にちぎれるはずだった。しかし縄は鋼の如く固くびくともしない。縄をよく見ると、ラケージの闘気で強化されていた。
闘気を纏わせることで、武器や防具を強化できることは知っていた。だが手から離した物を、ここまで強化し続けられるとは知らなかった。
「ぐ、ぐぐぐっつ」
サイトウは闘気を練り力を込めるたが、縄が千切れる気配は一向に見えなかった。いくら物に闘気を込めることができたとしても、体から発する方が強いはず。それでも縄が切れないということは、自分とラケージが扱う闘気の量に、大きな隔たりがあることを示していた。
「なんで、俺は勇者だぞ……」
サイトウは唇を噛んだ。冒険者はさまざまだが、男と比べ筋力や体格に劣る女性は、総じて攻撃魔法や回復を行う後衛が多い。
回復魔法を得意とするラケージは、おそらく回復系を主体とする後衛だったはずだ。一方、サイトウは勇者である。回復に魔法もこなすが、最も優れた長所は闘気を扱った接近戦だ。
回復や魔法でラケージに負けるのならわかる。だが闘気においてもここまで差があるなんて信じられなかった。
サイトウは必死になって闘気を練って縄を千切ろうとしたが、できなかった。
「ぐぅ、切れない……」
力を緩めた瞬間、サイトウの視界が暗くなった。気がつけばうつ伏せに倒れていた。闘気を消費しすぎたことによる疲労だ。
ここ連日、シルヴァーナやラケージに拷問を加えられ、まともに眠ることもなかった。食事も取れていない。空腹と疲労が限界だった。
地べたに這いつくばるサイトウの目の前に、パンの塊が落ちていた。先ほどラケージが投げて寄越したものだ。
犬に餌でもやるように、投げて渡されたものだ。手も使えない状況では、這いつくばって食うしかない。
動物のように這って食うなど、サイトウの矜持が許さなかった。しかし今何か口に入れなければ、本当に空腹で死んでしまう。
サイトウは歯を噛み締めた。這いつくばり、投げてよこされたものを食うなどありえなかった。しかし、しかし……
噛み締めた歯を開き、サイトウは首を伸ばして床に落ちたパンにかじりついた。
恥も外聞もなく、犬のように食事にありつく。気がつけば目からは涙がこぼれていた。
久しぶりに食べたパンの味はとてつもなく美味く、そしてまずかった。
一生このパンの味を忘れない。
サイトウは泣きながらパンを貪った。