EP.4 - 16
コアンの所有物である不思議な絵本が淡い光を発していて、夜の闇に飲み込まれそうなユーシィを照らしている。まるで夜空に浮かぶ月の様に。
絵本に映る『記憶』を眺めながら、また夜の世界に来ることが出来たのだなと、彼女はしみじみ思った。
昨晩、賊に囲まれ死を覚悟した。
日中、襲い来る苦痛に喘ぎながら死を覚悟した。
だが、彼女は結局生き延びた。
足の痺れが引かず上手く動かせないが、数時間前まで満身創痍だった筈の体に痛みは無い。
代わりに食欲が妙に湧いてきて、何なら普段よりも調子が良いのではと思える程であった。
夕食前にユーシィの経過を診た医師は、何故だか解らないが順調に回復に向かっているようだという、何ともモヤモヤする診断結果を残して去っていった。
不思議な事もあるものだと、ユーシィは絵本の中で楽しそうに夕食を取っている自分達を眺めながら回想に耽る。
マークェイ家とミノーグ家は共に商家で、敵対関係にあった。
とある時期、マークェイ家は契約していた大型農園が飢饉の影響で収穫量を激減させたり、淡水魚の需要が低下したことで利益率が落ち、養殖業者との価格交渉が難航していたりと、何かと不運続きであった。
同時期のミノーグ家は香辛料の独自輸入ルートを確保し大躍進の真っ最中で、勢いに乗った同家がマークェイ家の独占契約している畜産農家の買収を始めたところから敵対が始まった。
マークェイ家はあれこれ手を尽くしたが、勢いの衰えないミノーグ家には太刀打ち出来ず廃業を考えねばならないところまで追い詰められ、起死回生の案として強大な権威を持つ教会に縁の者を送り込む作戦に乗り出した。
早速ユーシィ達三姉妹は商家のコネによって巫女に仕立て上げられ、代々神父の一族であるクレイス家のもとへ送られたが、既にミノーグ家が先手を打っており、神父の妻の座を賭けてここでも両家が敵対する事となった。
女性としての魅力ならばミノーグ家の巫女エスティよりも姉に分があると見たユーシィは、さっさと姉とクレイス家の一人息子キースをくっつけて決着を付けてしまおうと策を練った。
その作戦を行動に移そうと思っていた矢先、ミノーグ家が雇ったであろう賊に姉と妹が攫われ行方不明となり、やがて姉の亡骸だけがマークェイ家に送りつけられた。
身内が殺されたという事実を突きつけられた時は流石に床に伏し泣きじゃくったが、こういう事になるであろうという話は姉妹ともども散々聞かされていたので、心構えが出来ていた分、動揺は最小限で済んだ。
巫女達による神父の争奪戦は日常茶飯事で、王族や貴族等はその結果を賭け事のネタにして楽しんでいるという噂もある。
故に巫女が不審死しても騒がれたりしない、いつもの事かで済まされてしまう。
神父の嫁が決まるまで醜い争いは続く。
つまり誰かが殺されても残りの者が神父と関係を持てればそれで勝ちなのだ。
姉妹のうちの誰か一人でなく三人とも巫女に仕立て上げられたのは、それを考慮してのことだった。
まるで駒扱いだが、ユーシィは全く気にしていなかった。
没落した商家の行く末は、それはそれは悲惨なものであると聞かされていて、死に物狂いで家を守らねば若い女である自分はどこぞの人買いに売られ、辛く苦しい人生を歩まなければならなくなるのではという不安を抱え、それならば駒として死んだ方がマシだとすら考えていた。
しかし相手を殺すというところまでは踏ん切りがついておらずにいたのだが、姉の亡骸を目の当たりにして以降、自分もやらねばならないと覚悟を決め、ユーシィは短刀を携帯するようになった。
そして昨日、ユーシィはその短刀で見事にエスティを討ち取り勝利した。
コアンの絵本に映る様子は、まるで自分の勝利を祝う祝賀会のようだなとユーシィは思った。
その様子を暫く眺めていると、コアンが自分の口に骨付き肉を押し付けているのが見えた。
時折ふてぶてしい態度を取るコアンは、少し妹のリニーと被るところがあると、ユーシィは以前から感じていた。
生意気でいつも喧嘩腰だったリニーは、そんな態度にも関わらずやたらと姉二人の世話を焼きたがった。
下に見られるのが嫌だったのだろう。姉二人と対等の立場でありたいと思い、頻繁に喧嘩を吹っかけてきたリニーに対してムキになった事もあったが、それでも可愛い妹だとユーシィは思っていた。
ユーシィの頬を涙が伝う。
生意気で愛らしいコアンの元気な姿は在りし日のリニーを想起させた。
妹の身に起きた理不尽な過去の出来事と、これから自らの手で起こさねばならない理不尽な未来の出来事を想うと、ユーシィは溢れ出る悲嘆の涙を抑える事が出来なかった。
ユーシィとコアンの出会いは半年前、クレイス家お抱えの学者達に連れられてこの村にやってきた時だ。
当時、ユーシィとエスティの神父争奪戦は膠着状態であった。
トロフィーであるキースが失踪したとの報がクレイス家から対立する両家に伝えられ、どう動くべきかと互いに出方を窺っていたからだ。
そんな彼の居場所が懇意にしていた学者達から秘密裏に伝えられ喜んでいたのも束の間、そこで見つけた子供を妻にするなどと言っていると教えられたときは、然しものユーシィも血の気が引いて倒れそうになった。
その事をユーシィがキースに問い詰めると、彼は飼っているだけだとはぐらかした。
それはそれで問題だろう、何を言っているのだこの男はと思い、つい呆れ声を上げてしまったユーシィだが、その後のキースの説明を聞き、この狐の耳と尻尾を持った子供はなんら障害にならないと確信し、様子を見ることにした。
キースはこの狐娘を巫女にするつもりだとユーシィに伝えた。
彼がその理由を語る事は無かったが、巫女にするつもりだという事が解っただけでユーシィには十分であった。
――――巫女になったら殺せばいい。
単なる子供を殺したとあっては世間が黙っていないだろう。
しかし巫女となれば話は別だ。現に妹のリニーが失踪した時、世間は気に留める素振りすら見せなかったのだから。
ミノーグ家を出し抜く事に成功し、新たに現れた敵は頭の回らなそうな子供だ。
勝ったなと、この時ユーシィは思った。
しかし、コアンが巫女になるのを待ちながら一緒に生活している間に、ユーシィの心にコアンに対する情が湧いてしまった。
どうにも妹の影がチラつき、その手で殺める事が困難になってしまったのだ。
コアンが正式に巫女となった後、二人きりになって人知れず殺すことの出来る機会はいくらでもあったが、結局ユーシィにはそれが出来なかった。
何処かでコアンが勝手に死んでくれればと良いのにと考えた事もあったが、気が付けば無事を祈り、彼女の身に良からぬ事が起こればいいなどと考えた自分を責め、泣いたりもした。
そうこうしている内にミノーグ家に居場所が知られてしまった。
教会でキースと過ごしている間、ユーシィは何もしていなかったわけではない。
ある意味正攻法である、キースに好意を持って貰うための行動を日々続けていた。
そして、やたら余所余所しかったキースから名前で呼んで貰うところまで漕ぎ着けたのだが、エスティが現れた事でキースは軟化させつつあった態度を再び硬化させ、ユーシィを失意のどん底に叩き落した。
そこで起こったのが、コアンとエルミーの誘拐事件である。
ユーシィはすぐにエスティの仕業だと確信した。
そして、ミノーグ家の巫女が巫女でない無関係の子供に手を出したという事態に、彼女は笑いが止まらなかった。
上手くすれば神父の妻の座につくだけでなく、ミノーグ家を潰す事が出来るかもしれないと考えたからだ。
一応、森で遭難しただけという可能性も考えつつも、白々しく子供二人の捜索に参加したエスティの後をこっそりと追い、証人として教会の査問会議の場に立ってもらう為、ユーシィは二人の無事を祈りつつ救出作戦を開始した。