EP.4 - 12
「じゃーな、きーす。なにかあったらよべよー?」
「ジャーナー!」
コアンは相変わらずキースには理解不能な言葉で喋る。
なので、コアンと一緒に居る事が多く会話も出来ている様子のエルミーに通訳を頼むことでいつもは解決していたのだが、頼みの綱の彼女がコアンを真似た言葉を残して去って行ってしまった為、何を言われたのかも解らずキースは暫く呆然としていた。
数時間前はユーシィと共に死の淵に居たキース。傷口の縫合をした医師の指示によりベッドで安静にしてはいるが、彼の体は既に全快に近い状態となっていた。
不思議な事もあるものだと、彼はまだ雪が残る肌寒い季節だというのに妙に暖かな朝日が差し込む窓を眺めながら物思いに耽る。
最早彼は、大抵の事には驚かなくなっていた。
狐の耳と尻尾が付いた少女が現れてからというもの、異様な出来事が身の回りで起こり過ぎて感覚が麻痺してしまったのだ。
キースはコアンとの出会いを回想する。
二年程前から人の目を盗んでは聖堂に侵入し、食料を食い漁っていた少女。
キースは当初、どこぞの孤児が腹を空かせ、食料を求めて此処を訪れたのだろうと思い放置していた。
人を護るという月の神の思想を体現するのが教会の、そして神父である彼の役目である為、邪険に扱う事は許されない。そんな事をすれば忽ち異端者の烙印を押され、本人だけでなく一族全員が路頭に迷うことになる。
強大な権威を持つ神父という職業は世襲制で、他の一族にその地位が移る事は通常、無い。
だが一族に異端者が現れれば公会議で糾弾され、地位を剥奪されて教会を追われる。折角一族が守ってきた地位を他の者たちに明け渡す破目になる。
キースは一族がそんな事態に陥らぬよう、敬虔なる信徒を装わねばならなかった。
彼は神という存在を信じていなかった。
神に祈るという行為を馬鹿馬鹿しく思っていた。
なので、コアンの姿を見た村の住人達が彼女を神の使いではないかと口々に語り始めた時、彼は心の中で呆れていた。こうやってふざけた噂話が突如湧き、それが広まり新たな神が人間によって創られ、やがて人間自身を縛っていくのだ、実に馬鹿らしい、と。
大方、盗み食いは祟り神の化身とされている狐の仕業だと思わせる為、耳と尻尾の飾りを付けて我々を騙そうとしているのだろうと彼は考え、そんな事をせずとも餌くらい、いくらでもくれてやるのにと子供の無駄な悪知恵を嘲笑した。
しかし、試しに眠りこけているコアンにこっそり近付き耳を引っ張ってみたが、取れなかった。
狐の耳と尻尾を持つ人間の出現。
キースの周りで起きた、最初の異様な出来事である。
一年ほど前のある日、キースは外出先から聖堂に戻るとコアンの存在に気付いた。
神への供物という名目で祭壇に置かれていた食料が食い荒らされていて、更に祭壇の陰に隠れ眠りこけているコアンの尻尾が見えていたのだ。
このような事は日常茶飯事なので、いつもの様に放置して食い散らかされた供物を片付けようとしたその時、突然聞いた事の無い異様な音が鳴り響き、少し間を置いてコアンが祭壇の陰から飛び出し逃げ去ろうとした。
キースは焦った。
彼女が逃げ去るところを村の住民に目撃され、教会に救いを求めてきた孤児を追い払ったなどという噂が流れてしまえば、神父の地位を狙う他の一族の格好の餌食だ。
慌てて呼び止めようとしたが、目の前で転んでくれたお陰で難なく捕まえる事が出来、安堵した。
ギャーギャーと意味不明な異国の言葉らしきもので喚き散らすコアンを、パンを与え敵意の無い事を示して落ち着かせると、みすぼらしい格好であったので真っ当な服を与えた。
後は何処へなりとも行けば良い、来たければまた来れば良いと放置をしていたのだが、コアンは一向に何処かへ行く素振りを見せず、小さな書物を眺めながら聖堂の長椅子に居座った。
彼女の持つ書物は彼女自身同様、異様であった。
絵本の様であったがページが存在せず、石版の様なものかと思い材質を把握する為に指で触れてみると、存在しないと思われたページが、捲れた。
捲れたというよりは描かれた絵そのものが変化したという感じであったが、確かにそれは書物としての機能を果たしているように見えた。
更に、その書物は不可思議な音を発し、淡い光を帯びていた。
あまりにも不可思議な光景を目の当たりにし、この狐娘は本当に神の使いなのではないかという考えがキースの脳裏にチラつき始めた。
だが神という存在をこれまで全く信じていなかったキースには、それを素直に受け入れる事が出来なかった。
なのでキースは、この狐娘を飼ってやろうと思い立った。
孤児として引き取るか、或いは愛玩動物として餌付けして、普段の生活の様子から神の使いか只の子供かを見極めようと思ったのだ。
神の使いと認めるまでは只の子供と扱う事に決め、住民を集めて子供や愛玩動物にそうするように名前をつけさせ、キースとコアンの生活は始まった。
村の子供達は新しい遊び仲間が出来たと喜んで、自分たちで付けたコアンという名前で彼女を呼んだが、一部の大人達はコアンを神の使いであると既に考えていて、恐れ多いとして『狐巫女』と呼んだ。
狐巫女のコアンは、見た目通り性格は子供の様であったが、やはり見た目通り異様な存在であった。
傷の治りが妙に早かったり、翌日から数日後までの天気をピタリと当てる事が出来たり、聴覚が異常なまでに優れていたりと、人間とは思えない特殊な能力を持っているようだった。
そして彼女の持つ『絵本』もまた、異様な能力を持っていた。
歌を歌い、音楽を奏で、景色を鮮明に描き、過去の記憶を呼び起こした。
住民達の、そういった不思議な現象を起こすコアンへの信仰心は日に日に高まっていき、遂にはキース自身も彼女を神の使いとして見ても良いかと思う様になった。
神の使いとは即ち『巫女』である。
神父は飽くまで思想の体現者であり、強大な権威を有するが人間として扱われる。
しかし巫女は神に近しい存在として扱われ、神父は巫女を娶ることでその地位を揺ぎ無いものとしてきた。
要は神の名を利用して権力を誇示しているのだ。
なんとも罰当たりな行いである。神を敬い、神に仕える素振りを見せながらその実、女性に神に近しい者と騙らせ傍に置き私欲の為に利用している。神父は巫女を娶るべしという、大昔の人間が自分達に都合の良い様に作ったそのくだらない風習を、キースは嫌悪していた。
巫女であるエスティ、そしてマークェイ姉妹の生い立ちをキースは把握していて、それらには神の使いとしての要素など微塵も無かった。何が神の使いだ、何が巫女だと、その存在を馬鹿にすらしていた。
だがコアンは神の使いらしさを持っていた。幼過ぎてとても夫婦としての生活をする気にはなれないが、形式上妻としておいて、神父としての体裁を取り繕うのも悪くないとキースは考えた。
キースは以前、人の身でありながら神の使いを名乗る愚かな似非巫女どもは、神父の権威にあやかろうと他人の命を奪い取ってまでその妻の座を得ようとする。という話を酒に酔った祖父から聞いた。
お前も似非信徒、似非神父だろうと、心の中で悪態をついたキースだが、俄かに悲しみを湛えた祖父の目に気付き、或いは彼の『本当の巫女』は醜い争いの中で命を落としてしまったのかもしれないと考えた。
キースが娶る巫女候補は、当初エスティ一人であった。
少々勝気な面はあるが悪い女性ではないと思ったが、やはりくだらない風習に倣う事に抵抗のあったキースは何かしら理由をつけてエスティを拒んだ。
やがて新しい巫女候補が現れた、マークェイ三姉妹である。
あまりにもくだらな過ぎて、キースは思わず乾いた笑いをこぼした。
同じ家庭に三人も神の使いが生まれたのだ、親はなんの変哲も無い人間であったのに。
巫女なんて、女性であれば誰でもなれるのだなと、キースはその時理解した。
馬鹿馬鹿し過ぎて巫女達を放って置いたキースのもとに、ある日マークェイ姉妹の長女と三女が失踪したという報が届いた。
キースの脳裏に祖父の話が蘇り、慌てふためいた彼はあろうことか公の場で
巫女候補を全て娶る。
と、宣言してしまった。
神父と巫女は一夫一妻でなければならないという決まりがあり、愛人を作ることも当然禁じられていた。後継者を選ぶ上での揉め事を未然に防ぐ為である。
重大な戒律違反を口にしてしまったキースを、一族は辺境の地へと送った。上手くやっておくから頭を冷やして来いという言葉を添えて。
騒動を起こし一族の者たちに手間をかけさせたのは少々心苦しかったが、キースにとってこの状況は寧ろ有り難かった。
くだらない風習の所為で起こる醜い争いから遠ざかり、長閑な田舎で、飽くまで仕事として神父の役割を果たし、信徒としてでなく一人の平凡な人間として生きたいと、キースは強く望んだのだった。
回想に耽っていたキースは、微かなユーシィの悲鳴を聞き、我に返った。
マークェイ姉妹の長女と三女、そしてエスティを死に追いやり、今現在ユーシィが苦しんでいるのは、一体誰の所為なのだろうかと、キースはふと考えた。
彼女らを巫女に仕立て上げたのは、彼女らの両親だ。
そして神父の妻の座を勝ち取る為、実力行使に出たのはエスティだ。
だがそもそも、自分がさっさとエスティを妻に迎えていれば、誰も死なずに済んだのではないだろうか。
キースには、神の存在を否定することに酔い痴れている感じすらあった愚かな自分こそが、この惨劇を引き起こした最も罪深き人間であるとしか思えなかった。
「シェイマヌージー、ネロクシーイクレイティエリ。イーゾルージー、ネロクソーゴーシュエリ」
キースは、これまで只の一度も心を込めて口にした事が無く寧ろ馬鹿にすらしながら典礼で披露してきた祈りの言葉を、コアンが置いて行った不思議な絵本に向けて皆の平穏とユーシィの無事を一心に願い、唱え始めた。