EP.4 - 8
視界がぐるぐる回っている。
木の枝から垂れ下がった紐に吊るされた俺は、体をぶつけられた事で紐が結わえられているアクセサリー装着用リングを中心に横回転した。
それによって目一杯捩れた紐は在るべき状態に戻る為、俺を先程とは逆方向に回転させる。
回る視界にユーシィが映る。
彼女は右手に持った短刀を此方に向け、身構えている。
左手はと言うと、腹の辺りを押さえている様だった。
表情は良く見えないが、恐らく苦痛で歪んでいるだろう。
ユーシィをそんな状態にした犯人は、俺に体をぶつけてきたエスティだった。
短刀で脇腹を突かれたエスティは膝から崩れ落ち倒れてしまったものの、事切れてはいなかった。
完全に背後を取られ圧倒的不利な状況に追い込まれた彼女だったが、一旦脱力してユーシィを油断させ、隙を突いて隠し持っていた刃物で斬りつけつつ距離を取ったのだ。
手負いの二人は俺を挟んで睨み合っている。
エスティの武器は、リーチではユーシィの短刀に劣るが若干幅広のナイフである。
小振りな刃物を持った彼女達の対決は、剣戟映画に出てくる華麗な舞踏の様な闘いにはならないだろう。
凄惨な生傷の作り合いの末にどちらかの死を以て勝敗は決し、勝者も闘いで負った傷に因りいずれ死に至る。
訪れる結末は、結局のところ相討ちだ。
傷を負った二人の姿が既にそれを表している。
(今さら止めても遅いよな……)
二人の間にはただならぬ因縁があり、遂にそれは殺し合いという形で決着しようとしている。
事情を知らぬ俺などは絶対不可侵の、二人だけの世界が今まさに、終わろうとしているのだ。
しかし、ユーシィの傷の具合は解らないが、エスティは間違いなく致命傷だ。ここでユーシィが逃げの一手を採れば、相討ちを免れる事が出来るかもしれない。
だがきっと彼女はそれをしないだろう。
憤怒と苦痛で歪みきった表情が見えた。
もう一度エスティの体に刃を突き立てるのだという意志が強く感じられる。
今ここでスマホが何かしたところで消え去る事など有り得ない、凄まじい激情が彼女の全身を支配しているのだ。
(――――ッ!? エスティ……限界か)
エスティが両膝をついた。
ユーシィの短刀はエスティの脇腹を突き破り、内臓にまで至っていた筈だ。
まさかそんな状態で動けるのかと驚いたが、異世界人と言えど所詮は常識の範囲内の生き物だったようだ。
「…………シィィィィ!!」
(なっ!?)
前のめりになり倒れるかと思われたエスティだが、低い体勢から前方に飛び出し、俺の横を抜けてユーシィに向け突撃した。
己の死期を悟り、死ぬ前にせめてもう一太刀浴びせようと決意したのだろう。
助けを求めず死に向かい踏み出した彼女の顔もまた、憤怒と苦痛、そして狂気で歪んでいた。
エスティの捨て身の突撃をユーシィは、どう受けるのか。
彼女は少し腰を落とし、右手に持った短刀の切っ先をエスティに向けている。
腹部を押さえていた血みどろの左手は、今はだらりと垂れていた。
守る気は無い、刺突で迎え撃つつもりだ。
エスティは、とても深手を負った人間とは思えない勢いでユーシィとの間合いを詰めてゆく。
既に踏み荒らされて固められた地面の雪では彼女のその勢いを殺す事は出来なかった。
――――――俺の横を駆け抜けたエスティの背中でユーシィの姿が隠れ、決着の一撃がどの様であったかは分からなかった。
二人は暫く硬直していたが、やがてエスティの体がぐらりと揺れ、次いで左に勢い良く倒れ込んだ。
どうやらユーシィが左手で横に突き飛ばしたらしい。
(ユーシィ……やったか……)
武器の長さでは劣るものの、体の大きさを考えるとリーチではエスティに分があった。
しかし死が迫り捨て身の突撃に移行した彼女には余裕が無く、一方で迎え撃つ側となったユーシィは地に足をつけて武器を構え、相手の動きを見てそれに合わせる余裕が出来た。
ユーシィの一突きがエスティの何処を捉えたかは解らない。
しかし現状を見るに、エスティは恐らく、今度こそ絶命した。
だが――――――
(…………エグいな)
――――ユーシィは、絶命したであろうエスティの体に何度も刃を突き立てていた。
それが『念のため』などという理由で無い事は明白であった。
勝利を確信して尚、嗚咽を漏らしながら何度も、何度も刃を振り下ろす彼女の姿は、決して満たされぬ食欲に取り憑かれ死肉を貪る餓鬼の様であった。
やがて、魂が抜け血袋と化した目の前のモノに穴を空ける作業を止めたユーシィは、血塗られた短刀を胸に抱き、
「ヘキサン、リニー…………ネロクス、ロビッシュ……」
――――呟いた。
その言葉から、彼女の身に降りかかった不幸をどれだけ想像出来るだろうか。
俺は部外者だ。
ユーシィとは何の関係も無い、それどころか人の外、生物の外の存在であり、挙句の果てにはこの世界そのものからも部外者扱いされるような立場だ。
だから彼女の事情も解らず、この世界の、この時代の世情も知れず、ただただ今起こった出来事から想像し、中途半端な理解で満足するしかない。
そんな俺でも、これだけは確かな事だと理解できた。
――――彼女は、悲願であった復讐を成し遂げたのだ。
だが本当の願い、本当の望みは永遠に叶わないのだろう。
決して満たされる事の無いそれを抱えて、彼女はこれからの人生を歩んでいかねばならない。
(生きていればきっと、救いはあるから……)
骸となった仇を前に泣き続けるユーシィに気の利いた一言をかけてやる事も出来ない俺には、自己満足の祈りを込めて彼女の幸せを願う事しか出来なかった。
山場は過ぎ去ったかに思えた。
しかし、まるでその山場に追い回されているかの様に、新たな危機が性懲りも無く訪れた。
(もう良いだろ畜生! 何で次から次へと……)
俺は賊どもに囲まれていた。
正確には、囲まれているのはユーシィなのだが。
彼女は両手で短刀を持ち、突き出す構えを取っている。
賊どもはというと、武器は携帯しているようだが手に取ってはいない、素手で組み伏せるつもりらしい。
組み伏せて、どうするつもりなのだろうか。
時折、男の下品な含み笑いが聞こえて、動くことの出来ない俺の焦燥感を掻き立てた。
(もう勘弁してくれ……うんざりなんだ、もう……)
凄惨な殺人現場を見たばかりだった。
少女の壮絶な過去の断片に触れたばかりだった。
これ以上、気が滅入る様な現実を見せられては堪らない。
(人の不幸は蜜の味なんてほざいた馬鹿は何処のどいつだ、味なんかしやしねぇよ、クソッ!)
俺は『Find me』機能を使い、けたたましい音声を鳴らした。
すると、賊どもの視線が一気に俺に集まった。
(ユーシィ、逃げろ! 頼む逃げてくれ!)
俺の意図を察したかどうかは解らないが、ユーシィは駆け出した。
未知の音を聞かされた賊どもは呆気に取られ、ユーシィの逃走への対応が遅れた。
このまま賊の囲いを抜け、脱兎の如く逃げ去るかと思われたユーシィだが、すぐに足が縺れて転んでしまった。
(ああ……畜生、どうにもならねぇ……)
下卑た笑い声が上がる。
賊の一人が倒れたユーシィの腕を掴み、強引に立たせようとした、その時――――――
「――――ッ!?」
声にならない声――――――悲鳴にも、呻き声にも聞こえたそれは、ユーシィの腕を掴んだ男から発せられた。
数歩後ろによろめき、そのまま仰向けに倒れ首を押さえてもがく様を見るに、彼はユーシィに短刀で首を突かれたのだろう。
騙し討ちだ。
これはエスティがユーシィに仕掛けた技だ。
最初から逃げる気は無かった様だ。
急所を確実に狙う為に相手を油断させる策を既に講じていて、俺の動作を切欠に彼女はそれを行動に移したのだ。
追い込まれている立場の筈の彼女が、憎き仇の技すら真似て人を殺め、次の獲物に狙いを定めるかのように周囲に睨みを効かせている。
その手を死人の血で染め、深手を負って賊に取り囲まれ、身も心も拠り所を失った彼女は、望みを絶って修羅へと堕ちてしまった。
(闘って死ぬ気かよ……あんまりだ、そんなの……)
もう既にこの場で二人、人が死んだ。
そしてこれからまた一人、腹を空かせたあの世の胃袋へ自らの魂を放り込もうとしているのだ。
それにも関わらず、たかが道具の俺はどうせ生き永らえる。
≪I'm here.≫
俺の体が震える。
けたたましい音をたて、その存在を周囲に知らしめる。
(魂なら……俺から持っていけよ!)
まだ早い。
ユーシィが命を投げ出すには早すぎる。
彼女には、俺を拾ってくれた恩人であるコアンの為に毎日美味しい料理を作って貰わなければならないのだ、今死なれては困る。
≪I'm here.≫
彼女には叶えたい願いがまだ残っていて、俺はそれを知ってしまった。
ラブストーリーの続きが気になって仕方が無い、こんなところでエタられたのでは堪ったものではない、だから彼女にはどうしても生き延びて貰わねばならないのだ。
≪I'm here.≫
短い悲鳴が聞こえた、ユーシィの声だ。
賊の一人が彼女に向け何かを投げつけ、それが命中してしまったらしい。
――――投刃だ。
不意の攻撃で、ユーシィは短刀を取り落としてしまう。
それを見るや否や、賊どもは一斉に彼女に飛びかかった。
≪I'm here.≫
(ふざけんな! そっちより俺の方が珍しいだろうが! 俺を構えよクソッ!)
何でも良いから時間を稼ぎたかった。
何でも良いのに、何にも出来ない自分が歯がゆかった。
何度も感じた無力感に苛まれても、それでも音を鳴らし続けるしかなかった。
≪I'm here.≫
武器を失ったユーシィは成す術もなく押し倒され、彼女の体に男が覆い被さる。
武器を構え睨みを利かせていた修羅は何処かに消え、そこには泣き叫ぶか弱き乙女の姿があった。
ユーシィに覆い被さった男は一度体勢を立て直すと、彼女をうつ伏せに寝かせ頭を地面に押し付け、周りに目配せをする。
すると、いつの間にやら荒縄を握り締めていた男がニヤケ顔で近寄り、ユーシィの両手首を縛り始めた。
≪I'm here.≫
一瞬、賊どもの視線が此方に向く。
(そうだ、こっちだ! こっちに来い! 答えろ! I'm here――――――ッ!!)
一際、大きなユーシィの悲鳴が上がった。
それは只の悲鳴ではなかった。
何を言っても、何をしても、ついぞ動かす事の出来なかった山の名を、彼女は呼んだのだ。
悲鳴が森の闇へと溶けてゆく――――。
――――――――すると、獣の咆哮が闇の向こうから返ってきた。
≪I'm here.≫
後ろ手に縛られて地べたに這い蹲りながらも、ユーシィは再び彼の名を呼んだ。
――――するとまた、獣の咆哮の様なものが夜の闇を震わせた。
それは段々と此方に近付いていた。
悲痛な叫びに答えるかのように発せられた、獣の咆哮の様であったそれはやがて、
――――――『雄叫び』へと変わった。
いつの間にか賊どもは動きを止め、森の奥――――木々の合間の一点を見つめていた。
闇から迫り来る、異質なるやまびこに意識を、体を縛り上げられて皆、硬直していた。
(そう、そうだ……俺は……ユーシィは此処だッ!)
森を包み込む暗闇から一つの巨大な闇が分離し、この場に躍り出た。
本能で危険を察したか、ユーシィの周りに居た賊どもは飛びずさり、その闇から距離を取った。
闇はあっと言う間にユーシィを飲み込み、俺がぶら下がっている木の下へと滑るように移動した。
――――――闇の正体は、真っ黒な外套を纏った巨躯の聖職者、キースだった。
(良かった……間に合った、間に合ったよ、お嬢、エルミー!)
俺を此処へ仕掛けてコアン達と一緒に逃げた筈のユーシィは独りで引き返してきた。
恐らく逃げている最中にコアンからエスティの事を聞いたのだろう。
目的を察した訳では無いだろうが、負傷したエルミーに付き添わねばならないコアンは、ユーシィを追う事はせず集落を目指し、もしかすると彼女は道中でキースに出会ったのかもしれない。
或いは何かに導かれ奇跡的に此処に辿り着いたのかもしれないが、何にせよキースは間に合った。
(お嬢……もうひと頑張りなんだ、頼む……)
キース一人ではどう考えても手に余る人数だ、この状況を打破するには更なる応援が必要である。
それはもう、複数人の追っ手が居る事を知っているコアンに期待するしかない。
(キース、応援が来るまで何とか持ち――――あッ!?)
キースの背中に向けて賊の数人がナイフを投げ、それは彼の背を確実に捉えた。
(キース! …………キース?)
だが彼は全く動じず、賊の凶刃からユーシィを庇う様に――――徐に彼女を抱擁した。
山は、ついに動いた。
キースは自らの背中に刺さったナイフの全てを乱暴に抜き取ると、その内の一本でユーシィの両手首を縛る縄を切った。
そして、ゆっくりと賊の方に向き直りつつ立ち上がり、
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
――――――――吼えた。
やまびこは、有りの儘をそっくり返す。
なれば賊の殺意に返すそれも同様だ。
キースは地を蹴り猛然と走り出した。
彼が向かった先に居た男は、相手に向けた筈の殺意を自身で浴びて勢い良く吹き飛び、そのまま動かなくなった。
薄暗い場所での猛スピードの動作であった為に正確には把握できなかったが、恐らくは飛び蹴り、或いは飛び膝蹴りだろう。
キースは目の前で倒れている男を一瞥し、ひと呼吸すると、手に持っていたナイフを容赦なく男の胸辺りに突き立てた。
男の体が一度大きく跳ね上がり、やがて脱力する。
――――彼は、間違いなく絶命した。
(よ、容赦ねぇな……ていうか、強えぇぇぇ……)
嵐の如く、獣の咆哮と共に現れ憤怒の炎を纏い動き出した山は、
「…………ォォォォォォォオオオオオオオオオオオオ!!」
今一度、その殺意を夜の闇に轟かせた。