EP.4 - 2
【先週更新分のあらすじ】
家出したコアンは無事連れ戻された。学者達の日本語辞書作成作業に付き合うアイザックと、異世界語を覚えされられるコアン。そんな他愛の無い日々を暫く過ごしていたが、新たなエンジークの『エスティ』が現れた事によって、まったりした日常は急変した。
エスティが現れてから未だ数日だというのに、キースの心は既に疲弊しきっている様だった。
傍観者の俺ですらウンザリしているのだ、渦中にあるキースの心労は計り知れない。
表情こそ硬い儘だが、溜め息を吐く姿を見かける事が多くなった。
やはり彼のメンタルはあまり強くない。
食事中のギスギス具合は、それはそれは酷いものであった。
それなりに会話はある。
だが微妙に棘のある声や唐突に空く不自然な間、それらが醸し出す雰囲気は兎に角重い。
会話の意味を半分も理解出来ず食事の必要も無い俺と違い、言葉の攻防の余波に当てられながら食事をしなければならないキースは相当辛い筈。
心的疲労の影響で消化不良でも起こしてしまうのではないかと心配になる。
そんな中、偶に発せられるコアンの何気無い一言は、まるで一滴の清涼剤の様であった。
彼女が料理を嬉しそうに食べながら感想を述べると、一瞬だけ張り詰めていた空気が緩む。
食卓でスマホを楽しそうに弄る彼女の様子を見たキースが目を細め、口角を少し上げるのを見た。
俺はその時初めて、彼が笑ったところを見た。
しかし、ほんの少し上がった彼の口角からは気の緩みがまるで感じられない。
それは重い岩石を押し上げる両の腕が如く強張り、苦悶の表情を作っている様にすら感じられた。
彼のそれは『笑顔』のイメージとは程遠い、悲壮感漂うものであった。
この一件、只の色恋沙汰では無い、根の深い問題を抱えている様な気がしてならない。
(気が滅入るなぁ……)
真面目で実直、そして敬虔なる信者を月の神様は祝福してくれるのだろうか。
初めて出会った自称神様の老人の事を思うとげんなりした。
――――朝食後、外に出たコアンと俺を出迎えたのは、雪化粧を施された住居群だった。
(昨日の夜、異様に気温低かったからなぁ)
異世界でも雪は降る。
元の世界との差異の少なさには最早何の驚きも無いが、一夜にしてガラッと変わった集落の景色が俺に与えるインパクトは小さくなかった。
午前中の異世界語レッスンは、本日は中止だ。
講師であるキースは食事を済ませると直ぐにスコップを担いで出かけて行った。
それを見送った後、ユーシィによる説明でレッスンの中止を知ったコアンは喜び勇んで外出の仕度を始めた。
コアンの服装は、外観的はいつもと殆ど変わらない。
袖口の広い白のブラウスに赤いプリーツスカート、そしてハーフ丈のファー付きローブである。
しかしインナーで防寒対策をしているらしく、ブラウスの袖が少し捲れると厚手の生地で出来た肌着が見えた。
外に出る途中、ホールで窓から外を眺めているエスティを見かけた。
雪が嫌いなのか、冷え性にでも悩まされているのだろうか、積もる雪を見つめる彼女の表情は険しかった。
彼女は雪を見るとテンションが下がるタイプらしい。
教会の扉を開け放ち外に躍り出たコアンは、そのままどこぞへと駆けて行くのかと思いきや直ぐに立ち止まる。
そして、靴底で地面を五回程打った。
「……おしっ!」
新しく与えられた防具、革製のショートブーツの履き心地は悪くない様だ。
ブーツの調子を確認したコアンは、雪でめかし込んだ住居たちの間を疾走する。
狐娘に切り裂かれた空気は負けじと冷気の鞭で反撃するが――――
「にゃははは! さみぃぃぃーーーー!」
――――効果は今ひとつの様だ。
(それじゃまるで寒いのが嬉しいみたいじゃねえか!)
彼女は雪を見るとテンションが上がるタイプらしい。
どうやら朝早くから除雪作業が行なわれていたらしく、居住区域の地面に積もっていたであろう雪は殆ど端に除けられ、残りは皮膜の様な薄さに踏み固められていた。
いつ滑って転ぶのかと怯えていたが、案外危なげなく雪の道を走るコアン。
彼女が履いているブーツは滑り止めの効果が高いらしい、靴底がどうなっているのか見てみたいものだ。
力いっぱい走り続ける彼女の通っているルートから察するに、恐らく目的地は無い。
一体何処まで行く気なのだろうかと不安に思っていたが、有り難い事にゴールが現れてくれた。
「えるみぃぃぃぃーーーー!」
エルミーの後ろ姿を見つけて異様なテンションで声をかけるコアン。
やはり雪が降ると気持ちが昂ぶる習性か。
コアンの声を聞いて振り向いたエルミーは、右手を高々と挙げて大きく振り迎えてくれた。
そんな姿にほっこりしつつ眺めていると、彼女の装いがいつもとかなり違う、異質なものである事に気付いた。
着ている服は――――、
膝上まで伸びる白いソックスと
膝丈の赤いスカートに
温かそうな白いセーター、
そして白い獣毛のアクセントが効いた革製のミトンとショートブーツだ。
――――可愛らしさはあるが普通の服である。
「うぉ……なんだそれ……」
どうやらコアンもその異様さに気付いた様だ。
異質な部分は頭部と臀部にあった。
先ず頭部。
髪型をツーサイドアップにでもしたのかと思いきや、こめかみの上辺りからぶら下がっているのは髪の毛ではなく黒い獣毛を使って作られたアクセサリーだった。
そして臀部。
腰の位置から、こちらはグレーの獣毛を使った長いアクセサリーがぶら下がっている。
(コスプレ…………かな?)
服の配色をエンジークの衣装に寄せている事に気付いた。
アクセサリーは耳と尻尾をイメージして付けたに違いない。
「ふぅ~~ん……ほぉぉぉ~~~~?」
コアンは値踏みするように尻尾のアクセサリーを繁々と眺め始めた。
するとエルミーは腰を左右に振ってそれを揺らして見せた。
(なんか、如何わしいな……)
尻尾を自慢したいだけなのだろうが、別の意味でのアピールに見えて仕方ない。
(いかんいかん! こんな事では徳が積めないじゃないか!)
こういう時は頭を振って邪念を振り払うのが定番だが、スマホなのでそれは出来ない。
取り合えず精神統一をしたという事にして自分を納得させてみた。
(ふぅ…………ぬおっ!?)
コアンが尻尾のアクセサリーに触れようとした瞬間、エルミーが走り出し、コアンはそれを追い始めた。
「にげるなこらー!」
逆のパターンは日常的に行なわれていたが、まさかエルミーの尻尾をコアンが追う事になろうとは思いもしなかった。
雪の道での追いかけっこが始まった。
エルミーのランニングフォームは安定している。
ブーツが有能なのか、彼女の体幹が優れたものである所為なのか、理由は解らないが雪で滑って転ばずに済むのであればそれでいい。
彼女はコアンと違って人並みの回復力なので、怪我をすればそこで今日のお遊びは終了だ。
折角気合の入ったファッションで臨んだデートだ、なるべく長くエンジョイして欲しいものだ。
二人の追いかけっこは続く。
気が付けば辺りに住居の姿は無く、森へ向かう一本の雪道を二人は走っていた。
雪が除けられて作られた、幅二メートル強の森への雪道は妙に整った形状をしていた。
スコップで少しずつ形成したというよりは、大きな平型レーキで均した様な感じだ。
(除雪用の大型機械でもあるのかな……)
異世界の雪かき技術は想像していたよりもずっと進んでいるのかもしれない。
エルミーとコアンは森へ向かう道を駆けて行く。
集落の子供達は妙にスタミナがある。
それはエルミーも例外でなく、下手したらこのまま森まで辿り着いてしまうのではと思えてしまう程の勢いで一直線の道を爆走する。
「おーじょーせぇやこらー!」
(他にもっと覚えておくべき言葉あっただろ!)
コアンの知識は非常に断片的だ。
妙な事を知っている癖にそれの土台となる筈の基礎知識が無かったりする。
そんな状態になってしまった理由は解らない。
細分化した知識を乱雑に減らしていった結果とも考えられる。
持ち運べる情報量に限りが有り、大半を捨てるという選択をせざるを得なくなり、取捨選択も碌にせず手当たり次第に削除していった結果――――――
(自分の本当の名前すら忘れてしまった……のか?)
何とも間抜けな話だが、彼女ならば有り得ると思えてしまうのは何故だろう。
しかし一方で、本当に必要な情報を残す為に自分の名前を必要無い情報として削除するという選択は、彼女の本質的な賢さの表れかもしれないとも思えた。
「わっ――――うぎゅっ!」
(うん、買い被り過ぎだな)
急に立ち止まったエルミーの背中に勢い余って激突するコアン。
「きゅーにとまるなよぉ~……」
どうやらエルミーは何か気になるものを見つけたらしく、森の方を見て佇んでいる。
(お、何か居る)
彼女の視線の先にある物体にピントを合わせた。
するとそこには一匹の動物の姿があった。
(うわっ……あれ、狐じゃねーか!?)
茶色い毛並みの見慣れたフォルム、元の世界で『キツネ』と呼ばれた獣に酷似した生物が、少し離れた距離でこちらの様子を窺っていた。
「ん? うわぁ……きつねじゃん……」
(だよな、やっぱ狐だよな……って、随分嫌そうだな……?)
コアンと狐の間には何か因縁でもあるのだろうか。
(修羅場……かな?)
相対してしまった二つの獣。
この真っ白な雪原で、狐同士の戦いが始まってしまうのであろうか。