EP.1 - 11
異世界語レッスンは頓挫した。
お嬢が質問を理解できない所為ではあるが仕方がない。
彼女は、ほんの少しであってもしっかり成果を出したのだ――これでいい。
こういうものは功を焦らず慎重に臨まねばならない。
何でもすんなり上手くいくと思って勢いに任せ突き進むと壁にぶち当たった時に直ぐ折れてしまう。
挫折の鉤爪は、気力の根ごと刮ぎ取り意志を死に到らしめる程の威力を持った凶器だ。決して侮ってはならない。
暫く考え込む様な仕草をしていたお嬢は、食事後の満腹感と頭を使った疲労感、それにゲームでの夜更かしが影響してか、例の狐が鳴く様な声をあげて大きな欠伸をした。
「……コアーン?」
(キース、それは言葉じゃないんだ。お嬢の『鳴き声』なんだよ……)
彼はお嬢の言葉を必死に理解しようとしているのだろう。聖職者のイメージにピッタリの実直な人間だ。良い人材に巡りあえて本当に良かった。
「ねむいぃ~……」
お嬢はノックダウン寸前だ。
目を擦りながらもう一度短めの欠伸をすると、テーブルに突っ伏してしまう。
「コアン……ネムイ……」
(頑張れキース、お前が頼りだ!)
お嬢の話す言葉を復唱するキースを一生懸命応援する俺。
二人に頼ってばかりの何とも情けない立場だが、こればっかりはもうどうしようもない。
何かしたいとは常々思っている。だが只の道具であるスマホどころか、更にその中の限定的な存在である事が判明してしまい、『基本的には何も出来ない』という結論に至ってしまったので、最早誰かに頼るくらいしか思い付かないのだ。全く以って情けない話だ。
だが生き恥を晒してでも成さねばならぬ事がある。
ならばそれが例え片手で数えられる程であったとしても、その人事を尽くして天命を待ち、天命を尽くして運命を切り開き、運命に尽くして天寿を費やし、天寿を尽くして転生を成す。
スマホが『人事』とはまるで寝言の様だが、残念ながらスマホは寝ない。だから寝言は吐かないのだ。仮に寝れたとしても寝ている暇はない。
「ん~~……ういろうぅ~…………」
……。
(まあ、その……お嬢は良いんだ、頑張ったからな。ゆっくりお休み……)
幼狐は異世界肉の夢を見る。
俺は眠らず夢想する。
アンドロイドが何の夢を見ようが、俺が想うのは生身のJKの事だけだ。
「コアン……シヌ?」
(――――いや死なない死なない、寝てるだけだから!)
異世界語で『シヌ』は『眠る』なんだろうか。何だか物騒だな。
キースは暫くお嬢の様子を見ていたが、一向に起きる気配が無いのでテーブルに突っ伏して寝ている彼女を抱えて寝室のベッドへと運んだ。
寝室へ向かう最中、くぅくぅ寝息を立てて寝ているお嬢の手から落ちそうになった俺をキースが受け止め、現在は彼の手に俺が握られている。
(耐久性に自信はあるけど一応精密機器だかんな! うっかり握り潰そうとするなよな!)
お嬢が持っている時とは全く違う圧迫感である為に少し動揺してしまう。
初めて出会った時はローブを纏っていた為かなり巨漢に見えたが、体型を把握し易い皮製の上着を着ている現在のキースはローブ姿との対比も相まってかなりシャープに見えた。
しかしでかい。主に縦に長い。
そして、腰は引き締まっているが肩幅が広い。筋肉隆々では無いがそれでも屈強に見える。
黒いショートヘアーを冠した彫りの深い顔は明るい表情を作らず、性格は暗い印象を受ける。その性質はお嬢とは真逆で、絵に描いた様な凸凹コンビだ。
キースはお嬢をベッドに寝かせシーツをかけると、近くにあった椅子に腰掛けフリップの開いた俺を眺め始めた。
(宜しく頼むぞキース。お前の人生がほんのちょっとだけでも今までより豊かになる様、俺を扱ってくれると嬉しい)
俺からのファーストコンタクトはスリープモードの解除だ。
使用者側から解除をするには音声か、若しくは機体側面のボタンを押さねばならない。
その操作方法にキースが即座に気付くとは思えないので俺がさっさと解除する。これは地味だが確実に有用と言える、俺に出来る数少ないアクションの一つである。
黒い画面から切り替わりホーム画面が表示されると、キースは少し顎を引いて眉を顰める。
これで、俺が只の硬い板ではないと使用者に印象付ける事が出来る訳だ。キースにとっては既知の事実だが。
(さて、ここからどうしたものか……)
取り合えず、お嬢の時と同じ様にカメラを起動してみるかとも考えたが、自分が『A.I.Zack』であると解ったお陰で気付く事が出来た、まだ実行していないが出来ると思われる動作の方を試してみる事にした。
それは『各種アプリの起動』だ。
既にカメラのアプリは俺の意思で起動させる事が出来ると判明しているが、恐らく他のアプリも可能だ。
A.I.Zackは、全てのアプリを起動する事は出来ないが、Zakuro社純正のアプリと、サードパーティー製であっても対応さえしていればアイコンをタップせずに音声による指示でそれが可能、つまり俺の意思で起動出来るという事だ。
(……う~む、何のアプリが良いだろうか)
スマホに表示される文字が読めないキースが興味を持ちそうなものを考えていて、ふと思いついた。
(ちょっと試してみるか……)
俺は『電卓』を起動した。
キースがこれにどれだけ興味を示すか解らないが、物は試しというやつだ。
建築物の造形を見る限りこの世界にも数学がある筈なのだ。つまり異世界人も計算をする。
どのような方法でそれを行なっているかは解らないが、電卓を弄らせて数字の変化を見せ、それが演算であると気付かせる事が出来れば、この世界に在る俺という存在に有用性が生まれるのではないかと考えたのだ。
(取り合えず……取り合えず数字を触ってくれ頼む!)
キースはけものピラーの画面を見た時、微動している画像に興味を惹かれでもしたのか画面に触れてみせた。
なので、画面に触れると何かしら動作を起こす事を既に知っている。だが電卓アプリのインターフェースは非常にシンプルなデザインなのでアピール力は乏しい。ここまで来たら後は願うしかない。
――ポン、と軽快な音が一度鳴った。
キースが画面に触れたのだ。
彼が触れた場所にあったものは『+』の記号だった。
利き手に一番近いから選んだのか、何か他に理由があったのかは解らないが、右下に位置しているそれに彼は触れた。
(そっちかぁ~……)
+では画面上に変化が起きない。
だが『触れると音が鳴る』という事を理解させられた。
電卓に使用されているのはアラビア数字だ。キースがこれをそのまま読む事は出来ないだろう。
しかしこの電卓アプリには、通常の電卓には無い仕様がある。
数字や記号をタップすると音が鳴り、数字には音階が割り振られていて『0』から順番にタップすると『ド』から始まるハ長調を奏でる事が出来る。それが上手く作用すれば彼にこれが数字であると理解させる事が出来るかもしれない。音が低い=少ない、音が高い=多い、という理論が彼の中に生まれれば成功だ。
キースは何度か画面をタップした。
その度に音が鳴り画面上で数字が増減するが、彼がその規則性を理解しているとは到底思えない操作内容だった。
数回操作をしたところで彼は唐突にフリップを閉じた。
(ああっ! 油断した!)
フリップが閉じられた状態ではカメラを切り替えられない。俺は暗闇に閉じ込められた。
(くっそぉ~……飽きるの早過ぎだろ~……)
俺を寝ているお嬢の傍に置くと、キースは部屋を出て行った様だ。
(大人になると好奇心ってのは薄れていくものなんだろうなぁ……)
お嬢の寝息を聞きながら、俺が何か新しい動作する度に大袈裟なリアクションを返してくれる彼女について少し考える事にした。
(名前、何ていうんだろうな)
今後の為に知りたいという理由もあるが、不明であるが故に単純に興味が湧いた。
(でも、あの質問の流れで解らんってのもちょっと不可解だな……)
キースの問いに正しい答えを返し、「お前はキースという名前なのか」と納得までした筈なのに、その流れで自分の名前を問われて悩んだ挙句「解らん」とは、どういう事なのだろう。
(――――もしかして、自分の名前を知らないのか?)
名付けられる前に両親の元を離れる事になったのだろうか。
しかし喋れるようになるまで教育したというのに名前も付けないというのは異常だ。
名前を付けられたが何かの切欠で忘れたのか、それとも――――
――――忘れたい記憶なのか。
狐耳の少女がこの世界に於いても異形である、という可能性が有る。つまり彼女が転生をしてこの世界に来たという可能性だ。
彼女が操る言語は、翻訳された異世界言語を俺が聞いているという可能性が無くなった以上、現実世界で俺が聞き慣れた言語『日本語』と同じという事になる。
元は日本人で、絶命しこの世界に転生して新たな生を謳歌しているとして――――
(――――名前を忘れたい理由だって? 馬鹿な事考えるなよ、俺の馬鹿!)
きっと何か他の理由が有るに違いない。
それに、今彼女が幸せに生きているならそれだけで何も問題無い筈だ。他人が余計な詮索をするもんじゃない。
(やめだ、やめ! 他の事を考えよう!)
名前と言えば、俺の名だ。
既に正式名称は判明して、俺を定義付ける決定的な要素となった。
だがこの名前の役目はそれだけでは終わらない。俺を扱う人間にそれを知らせる事で新たな利用価値が生まれる。
音声アシスタントアプリを起動する音声コマンド「Hi, Zack!」
Zackという愛称になってはいるが、これも俺の名だ。
音声コマンドである為、その指示を受けなくても俺の意思でアプリを起動出来るのだが、名前を呼ばれてそれに答えるという擬似的なコミュニケーションを行なう事で所有者との繋がりを強固に出来る。
名前というものには、それが他人のものであっても愛着が生まれるものだ。
お嬢やキースには俺の名を知って欲しい。
そして、俺はお嬢の名前を知りたい。
出来ればあの時――――彼女には名前を答えて貰いたかった。