過去話1『父親』
今から四年ほど前に遡る。
当時、十六歳になったばかりの俺は、初めて父親の仕事へと同行した。
父親の仕事の事は聞いていた。
奴隷商人。 それなりに頭は良い方だと自分を評価していた俺は、それがどんな職業で、何を生業としているかは十分に理解していた。
違う、理解しているつもりになっていただけだった。
その日は、あまりにも傲慢で、救いようのない無知を晒して、自分は何も知らぬ只の子供だったのだと思い知る事になった日だった。
薄暗い地下室に、頑丈な鉄格子で仕切られた部屋……否、牢屋とも言える場所。
「………………」
その中には蠢くものがいくつもあった。 全ての鉄格子で仕切られた部屋、複数に仕切られた牢屋にいくつも、何十……いや、もしかしたら百を越える程の数のモノが。
汗、吐瀉物、糞尿……それに血の匂いが入り雑じった異臭が充満して、何度も吐きそうになった。 臭気により鼻だけでなく眼すら違和感に襲われている程だった。
「……う……っ……」
異常だと思った。
聞いてはいた。 知ってもいた。
だけど、理解はしていなかった。
こんな場所がこの世に存在していて良いのかとすら思った。 そんな劣悪な場所に居るのだ、百を越えるか越えないかという数の奴隷達が。
うめき声が聞こえる。
啜り泣く声も聞こえる。
命に係わりそうな酷い咳をする音、鎖を引き摺るような音、鉄格子が軋む音………。
全て知っていた。
だが、その全てを理解していなかった。
ここに来るまでは。
「………………!……」
見れば、仕切られた牢屋に入れられた奴隷達はそれぞれ分類がされているようだった。
単純に男と女で分けてあるのもそうだが、おおよその年齢でも別々に分けて閉じ込められている。
暗がりに慣れて馴染んだ眼はようやくそれを認識し始めた。
その内の、ひとつの牢屋の前に立ち尽くす。
その中に入れられていたのは子供だった。 子供で、女の子ばかりだったのだろう、そう見えた。
中に居るのは十人程。 皆ボロボロの衣服を着ていて、中には上着部分が殆ど破れ胸を露出させている娘まで居る。
全員痣と擦り傷だらけであり、髪は乱れ、啜り泣く者……膝を抱えて動かぬ者、虚ろな眼をして横たわる者、怯えた瞳でこちらを見つめる者や睨み付け、震える者も居る。
「……………」
その子達を見た瞬間、脳裏にずっと一緒に育った少女、リオナの事が浮かんだ。
彼女も奴隷だったのだ。 幸せそうに日々を過ごしているが、身分はこの檻の中の少女達と、身分的には何も変わらない。
それを思ってしまったその時に、恐くなった。
同じ身分、同じ立場、同じ人間。
それなのに、こうも違っている。
こうなってしまっていたかもしれないのだ、彼女も。
こうなってしまうかもしれないのだ、彼女も。
それは俺、アレクシスにとって耐えがたい事だった。
…………
「父さん」
地下室から逃げるように這い出た先。先程の場所とは全く違う……至って普通の、地下に奴隷達がひしめいている等とは想像も出来ないような手入れの行き届いた一室の中に、父は居た。
父は優しく、穏やかていて逞しいという印象を受ける人だった。
奴隷商だというのはもちろん知っていた。 だが、その風貌と雰囲気……それに屋敷で共に住まう彼女への態度からは、人を商品として扱うような人物には到底見えなかった。
だからこそ、この父とあの少女と共に過ごして来たからこそ、奴隷という存在に対して理解が及んでいなかったのかもしれないと、後になって思う。
俺は父にこう言った。
奴隷達を解放出来ないのか、と。
父は優しく諭すように答えた。
彼らはただ解放しても行き場所がないんだ。 だから誰かの庇護下に入らなければこの国では生きていけない。 可哀想だが奴隷とはそういうものだ。 と、微笑みながら。
俺は続けた。
なら、どうしてあんな酷い場所に閉じ込めるんだ? と。
父は優しく諭すように答えた。
彼らの中には恨みを覚えて暴力に訴える者や、何も知らぬまま逃げ出してしまう者もいる。 確かに酷い場所だが然るべき時までは頑丈な檻の中にいてもらわねばならない。
もし生半可な場所に保護をして一斉に逃げ出しでもしたらどうなると思う? お前は頭がいいから分かるだろう? ……と、微笑みながら。
だったら、殺されないように国外へ連れて行くなりなんなり方法はいくらでもあるだろう。 と俺は捲し立てる。
父は、溜め息と共に告げる。
子供の理屈だ。 そんなにうまくいくはずがないだろう? あまり困らせないでくれ。……と。
その時の父の顔は穏やかではあったが、俺には悪魔に見えた。
幼い頃に絵本で見た、人の命を刈り取りながら笑う悪魔のように、父の顔は見えたのだ。
◇◆◇
それからの一年間は父との口論……と言っても俺の方が一方的に突っ掛かっているだけではあったが……そんな風に不穏な雰囲気の続くまま時が過ぎて行った。
幼馴染みであり、奴隷の少女であるリオナ。 アイツはそんな俺と親父の仲を心配していたが理由までは伝える事は、その時はしなかった。
その日々が終わりを告げたのは、俺が十七歳になり、冬が終わり春になる頃である。
「どうやら、お前はもう言っても聞かないらしいなアレクシス」
顔を合わせる度に親父を否定するような事ばかりを口にしていた俺に、遂に痺れを切らしたのだろう。 親父はその眼に露骨な侮蔑を混ぜながら、俺を突き放した。
「お前は賢しいだけで、この国がどんな国かも考えず、ただ感情にのみ従って理性の欠片も持ち合わせず育ってしまったようだ」
「…………」
「お前には失望したぞ、アレクシス」
「……それはこっちのセリフだ、糞親父」
勘当、なのだろう。
父は、優秀だと思っていた息子に失望し、そして息子である俺は、結局父の生き方を変える事は出来なかった。
その仲違いは当然だったと言える。 年端のいかない小僧に何を言われたとして、自らが成り上がった道を捨てられる筈なんか無かったのだから。




