第8話
日影になっていたここも徐々に太陽の侵略を受けつつある。岩の一部が日の光を浴びていた。この調子じゃ昼前には日影がなくなりそうだよ。開始から一時間、退屈しない程度に魚は釣れている。のんこもご機嫌だ。気持ちのいい風が暑さを感じさせないし、暑くなれば足を川に浸ければ涼しくなるだろうし。なにより、いつも都会の喧騒にまみれて生きている俺にとっちゃ、この一週間は自然の中でリフレッシュできそうだ。帰る手立てはおじさんが考えてくれてるし、俺はすることがない。毎日釣りってのはさすがに飽きるだろうから虫取りだのなんだのって考えればいいんだ。その後昼までここで釣りを続けたが、とうとう日差しが日影を奪ってしまった。俺たちは岩を降りて少し上流まで歩いた。すると椅子にするのにちょうどいい大きさの岩、しかも日影の場所を見つけてそこを昼飯の場所にした。のんこは無理だが俺は足首が水中に入る程度の高さの岩だ。弁当を広げてキンキンに冷えているお茶を入れる。おばあちゃんが作ってくれた弁当は豪華で、結構なボリュームがあった。のんこも持参の弁当を広げ、俺たちは食事を開始した。こういった自然の中で食べる弁当ってのはまた格別に美味い。なんでだろうな。開放的になってるからだろうかね。とにかく俺はのんこにもおかずを分けながら弁当を堪能した。会話もないってのは正直耐えられないので、この際のんこについていろいろ聞いてみることにした。なんせよくわからない子だからな。
「毎年、ここに来てるの?」
のんこはもぐもぐと口を動かしながら俺を見て頷いた。
「夏休みはお盆までおじいちゃん家」
「そうなんだ。お父さんもお母さんも忙しいってことか」
その言葉にのんこの箸が止まった。なんかまずいことを口にしたようだ。間を空けるために一旦お茶を飲む。
「お父さんとお母さん、あんまり仲良くないから。それに仕事が忙しいし」
そう言い、のんこは少しずつ身の上話を始めた。両親は別々の会社で結構な地位にいるそうだ。んで忙しく、休みもほとんどいないためにのんこが鍵っ子となって家にいることが多い。家族で出かけることもなく、休日も家で一人ゲームをしているそうだ。
「だからここにいる方がいい。でも友達に会えないから、それがツライけど」
なかなかギクシャクした家庭環境みたいだな。確かにつらいわな。こっちに来たら友達に会えないし。なんとかしてやりたいと思う。
「じゃぁ一週間だけだけど、俺が友達だ。俺が帰るまで毎日遊ぼう、ってどうだい?」
慰めってわけじゃないけど、そうしてやりたいと思った。こっちに来て、いろいろ教えてくれたのはこの子だし、可愛いってのも若干あるけど、なんとかしてあげたいと心から思ったからだ。たった一週間だけど、それだけでものんこの相手になれたらと思う。自然の中にいて開放的になってるせいかもしれないけど、あんまり他人と深く関わらない主義の俺がこんなことを思うなんてな。この子は特別な存在なのかもしれない。
「いいよ」
のんこは割とあっさりそう返事をした。あんまり深く物事を考えないタイプなのかなと思う。ホントにいつか悪い男に変な悪戯をされるんじゃないかと本気で心配になるよ。俺がそうならないとも限らないのにな。
「でもいいのか?俺をそこまで信用して」
一応念を押しておこう。のんこは卵焼きを食べながら即座に頷いた。いやいや、そこまで信用されてんのか。
「なんか、全は信用できるよ。なんでかよくわからないけど」
直感的なのか、なんらかの超能力でも持ってるのか、のんこは笑顔でそう言った。本当に不思議な子だ。まぁ俺がこの子に悪戯する可能性は限りなくゼロに近い。絶対に無いと言い切れない自分が嫌だが。
「短い間だけど、よろしく」
あらたまってそう言うと、のんこもよろしくと返してきた。笑顔が可愛い。ますます十年後の姿が見たくなった。俺は携帯を取り出してのんこを写した。こんな奇妙な体験の夏を忘れないように。満腹になった俺たちは釣りを一旦止めて浅めの部分に足まで浸かって遊ぶことにした。弁当を入れていた袋に携帯を入れて日影に置く。もちろん絶対に水がかからないところにだ。泳げるほど深い場所もあるけど水着が無い。パンツ一丁で泳ぐなんてあるはずもなく、のんこもパシャパシャと水を蹴り上げて遊んでいた。魚にカニ、冷たい水。空は底抜けに青く、入道雲が真っ白だ。山の緑も濃い。色をこんなにはっきり自然の中で認識したのって初めてかもしれない。十年前の夏、自分が何をしていたのかを考える。確か家族で旅行に行ったな。近場だったけど、一泊した思い出が蘇る。海に行ったんだ。なんか忘れていたものが一気に蘇ってきたぞ。そうだ、おじさんに一緒に来ないかって誘われたなぁ。でもめんどくさくて断った。今思うともったいない。来ればのんこと友達になれただろうに。大失敗だよ。けど大学に入って独り暮らしをしているせいか、なんかそういったものを思い出す余裕もなかったのかなと思う。学校へ行って友達と遊び、バイトをする。起きて、出かけて、寝る。そんな繰り返しの毎日の中で本当に楽しいと思えることって無かったのかもしれない。心にゆとりがないってだけでは済まされないものがあったのかもな。十年前の夏に来て、そんな自分を省みるってのもおかしな話だ。社会にすれていたんだろうか、何をするにしてもどこかやる気のなかった自分を冷静に見直している今、何かが変わろうとしているのかもしれない。カニを追いかけるのんこを見ながら、俺はそんなことを考える。怖いのか、カニを追い詰めては逃がすのんこ。俺は釣竿を手に、少し離れた場所に移動して釣り針を投げた。向こうではのんこが石を持ち上げてカニを追い掛け回している。ピクピクと魚が餌をつつく感触が竿を通じて感じられる。しばらくじっと堪えていると、一気に糸が張り詰めて竿を持っていかれそうになった。食いついた証拠だ。しばらくの格闘の後、一気に釣り上げる。そこそこの大きさの魚が水面を飛び出してやってきた。俺は暴れる魚を掴んで押さえ込んだ。こっちを見ているのんこに笑顔とVサインをするとのんこもVサインを返してきた。俺は最初に釣りをした場所に戻って釣った魚から針を外して網に入れた。数えれば7匹の魚が網の中で泳いでいる。時刻は午後一時半、まだまだ遊べる。日が照り付けて暑いこの場所から網も移動させようと身を屈めた矢先、水の中を歩いてくる音に気づいて顔を上げた。そこに立っていたのは全身がびしょ濡れののんこの姿だった。ほんの少しの間に何があったのか、赤いTシャツは黒味を帯びて濡れきっている。ジーンズも、髪の毛も濡れていた。川に飛び込んだとしか思えない状態だ。
「・・・何してたの?」
呆れ気味の口調になった。時間にしたら一分ぐらいの間の出来事だ。なのにこのびしょ濡れ具合は異常だろ。
「カニを追いかけたら急に深くなってはまった」
髪から雫を落としながらそう言う。悪いけど、思わず笑ってしまった。十歳とは思えない落ち着いた態度や言動から、どこか神秘的な雰囲気させ見せていたのんこが急に歳相応の子供に見えたからだ。服を濡らして困っている表情がようやく十歳の少女のものになっていた。
「Tシャツ脱いで」
俺は苦笑気味にそう言った。のんこは大きな目をさらに大きくして無意識的に両手で胸を隠すような仕草を取った。まぁ、当たり前だろう。いきなり脱げと言われたんだから。俺はそんなのんこを無視して自分のTシャツを脱いだ。ますますあわてるのんこを見て小さく笑ったが、俺は自分のTシャツをのんこに差し出した。
「風邪引いたら意味ないからこれ着とけ。少し汗かいてたけど、今は乾いてる。濡れたTシャツは石の上に置いとけばすぐ乾くだろうし。ジーパンは我慢しろ。気持ち悪いならパンツ一丁になりゃぁいい」
最後はちょっとした意地悪だ。のんこは差し出されたTシャツを見つめ、何かを考えている。しばらくそうした後、のんこは俺のTシャツを手に取った。どうやら着替える覚悟を決めたらしい。
「あそこの茂みの向こうなら上からも見えないから」
俺はそう言ってのんこの後ろにある茂みを指差した。のんこは憮然としながらも茂みへと向かって歩き出した。俺は上半身裸になりながら網を石から外す作業に戻る。日なたはいいけど日陰は濡れたままだと寒くなる。この日差しならTシャツもすぐに乾くだろう。網自体を水中に入れたまま紐を手に持って茂みの方を見た。ワンピースのようになったグレーのTシャツを着たのんこが姿を現す。なんか萌えた。どこか恥ずかしそうにしながら自分の荷物の中からタオルを取り出して髪を拭く。濡れた髪の美少女が大きなTシャツ着て髪を拭いている様はどことなく卑猥な感じがした。イカンイカン、そういうことを考えちゃイカン。のんこを促して昼飯を食べた場所まで戻り、俺はのんこから濡れたTシャツを受け取ると日差しが強烈に照り付けて焼けているような熱さをもった石の上にそれを置いた。この調子ならすぐ乾きそうだ。そのあと川に戻ってジーパンをめくり上げて膝を出し、裸足のまま適度な深さをもった場所に網を固定した。
「よし、じゃぁ、釣り再開といきますか」
俺は足が浸かったまま竿を構えてさらに深いところに釣り針を投げ入れた。のんこは器用に石を渡って俺のすぐ近くまで来ると同じように釣り針を垂らした。時間的なものなのか、今までと違ってピクリと動かない。三十分も動かない浮きを眺めているのは退屈だよ。その三十分で釣れたのはわずか一匹。俺は竿を置いて一旦川原に上がり、のんこのTシャツを手に取った。わずかな時間だが、かなり乾いている。さすがは夏だ。さっきとは当たる面を逆にして違う石の上に置いた。あと三十分もすればほぼ元通りだろう。お茶を一口飲んでいるとのんこが小走りにやってきた。
「服は?」
「あとちょっとだな」
俺の言葉を聞きながらTシャツに触れている。
「もう少しの辛抱だよ」
頷きながら長いTシャツの裾を引っ張るようにしている仕草が妙に可愛い。ポケットから携帯を取り出すと川面を眺めているのんこを1枚撮った。シャッター音というか、メロディにのんこがハッとこっちを向くが、その顔もまたシャッターに収める。しかめっ面で睨んでくるその顔はさすがに撮れないな。愛想笑いを返すがのんこの顔は怒っていた。子供とはいえ女だと、あらためて思う。
「ゴメン」
遠ざかる背中にそう謝った。大きめの石に腰掛けるのんこの真後ろに立った俺は日の光を受けて綺麗に輝く水面を見た。夏の午後の強烈な光がそのまま川に投影されているようだ。
「怒った?よな」
聞いたのか独り言なのか、俺はそういう風に口にした。なんか恋人に謝る心境だよ。
「未来・・・」
「え?」
「未来って、どんなのが流行ってるの?」
唐突にそう聞くか。でもまぁ、釣りもイマイチだし、いいか。俺はのんこの水筒を手渡し、自分の水筒を脇に置いてのんこの横に腰掛けた。日影とはいえ、風が少なくなってきたから少々暑い。
「携帯ゲーム機が出る。GSっていうのがね。脳を鍛えるゲームとか、いろいろ出て、一人一台持ってる時代」
「へぇ・・・ゲームマンアドバンスみたいなの?」
「その後継機種だ。でも、出てすぐ買っちゃダメ。後でさらに小型になったのが出るからね。それを待つ」
「わかった。他には?」
こんなにホイホイ未来のこと教えていいのかなと思う。けど、ま、いいか。
「歌手とかは?マユとかまだ流行ってる?」
「山崎まゆみか、まだ頑張ってるけど、今ほどバカ売れじゃないな。いろいろ出てくるし。イグザイルとか」
「イグザイル?」
「デビューしたらマークしとくといい。ブレイクするよ」
その後、いろいろ流行のものについて話をした。ファッションやテレビ番組、お笑いや芸能人とか。十年を先取りしたのんこはこれで流行を独占できるな。話も一区切りしたところで一つくしゃみをした。上半身裸で日影は少し冷えるようだ。とりあえずのんこのTシャツを確認すると綺麗に乾いていた。のんこは自分のTシャツを持って茂みの向こうへ消えた。ここは日が当たっているから暑い。中間の温度ってないのかよ。とりあえず日影へ移動しようと思った矢先、可愛い悲鳴と共に上半身裸ののんこが茂みを飛び出してきた。少し膨らみかけた胸が丸見えだよ。そのまま俺の胸に飛び込んできた。
「む、む、む、む、虫!」
声が上ずってる。とりあえず茂みに虫がいたということは理解できた。
「いいから服着ろ」
そう言い残して茂みに向かった。そうすることでのんこがTシャツを着る時間を作るためだ。虫がどうとかどうでもいい。とりあえず少々時間をかけてから茂みを出ると、自分のTシャツを着たのんこが不安そうに立っていた。
「何もいない。逃げたんじゃないか?」
素っ気無くそう言い、携帯を出して時間を確認した。午後三時か、今から支度して帰ればいい時間だろう。俺はのんこを素通りして竿の片付けに入る。裸を見られたというのんこの心情を察したからだ。
「・・・見た?」
背後からそう言うのんこ。
「何を?」
わざととぼける俺。
「・・・裸」
「あぁ、急だったし、俺もあわててたから、見たけどよく覚えてない。びっくりが先だった」
本当は思いっきり見たのだが、これが優しさというものだろう。
「そう」
小さくそう言うと片づけを手伝い始めた。そして十分ほどで完了、バイクの方に向かって川原を歩いた。
「魚は持って帰るけど、いるかい?」
袋に入れた8匹の魚を持ち上げる。のんこはどうしようかと考え込み、それから小さく頷いた。
「明日はどうする?」
「セミ、取りたい」
普通女の子ってセミとかも怖がるもんだが。
「いいけど、怖くないの?」
頷くのんこ。セミが怖くないってのはいいね。茂みには何の虫がいたんだか。
「じゃぁまた朝九時に待ち合わせしようか?」
「うん」
今度は元気よく返事をしてくれた。そのまま川原を上がり、バイクの所まで帰ってきた。バイクはずっと日影にあったようで熱くない。行き同様、背後ののんこに体を竿で固定するよう言い、それから発進させた。




