織姫の願い
パレットの中で、青色をかき混ぜる。薄い青、濃い青、少し緑を混ぜて、濃淡を作り出す。そうしているうちに、パレットの上は青だけで統一されてゆく。藤堂亜理紗は、混ざり合った絵の具をそっと画用紙の上へと乗せた。描くのは、校舎に囲まれた中庭から見上げる、四角く切り取られたような空だ。
筆を動かし、青をひたすらに練り上げ、紙へと乗せる。塗るのではなく、乗せるというのがしっくりくるような、描き方だった。薄いグラデーションをつけるときは、多めに水を含ませた筆でそっとなぞる。そうして、亜理紗はずっと空を描いていた。
「やあ、精が出るね、亜理紗」
熱中していた亜理紗は、声をかけられてびくりと肩を震わせる。弾みで、青が少し飛び散り制服の袖を汚してしまう。だが、亜理紗はそれを気に留めることなく振り向いた。
「……和晴か。もう、用事は済んだのか?」
淡々とした口調で、亜理紗は言った。桐野和晴は、亜理紗の一つ年下の幼馴染で一学年下の生徒だ。だが、亜理紗が和晴の制服姿を見るのは、久しぶりのことだった。
「うん……両親も来ているから、そのへんは問題無いよ。先生が、今のうちに見ておきたい場所とかあったらって言ってたから、お言葉に甘えたんだ」
言いながら、和晴は亜理紗の隣へと腰を下ろす。座ると、和晴は亜理紗よりも少し背が低い。少しくせっ毛の和晴の頭のてっぺんが、亜理紗の視界に映る。
「相変わらず、細いな、和晴。風が強くなったら、飛ばされてしまいそうだ」
亜理紗の言葉に、和晴は気弱な笑みを見せた。
「あんまり食べられなかったからね、最近は。検査も多かったし、薬も変わって、ちょっと食欲が落ちていたんだ」
知ってる。ずっと、見てきたから。亜理紗はその言葉を、胸の中に飲み込んだ。かわりに、画用紙を手に取って和晴へと見せる。
「今日は、筆のノリが良かったのだが、和晴のおかげで少し描き損じてしまった」
亜理紗が指差すのは、未完成の空の絵の一部分だ。わずかに筆先が滑り、雲に切れ目のような青が走っている。
「わあ、すごく綺麗だね、亜理紗」
和晴は亜理紗の苦情を聞き流し、歓声を上げる。その表情に、亜理紗は小さくそっと息を吐いた。
「まあ、これはこれで良いアクセントになるかも知れない……」
そう言って、亜理紗は画用紙を和晴に手渡し、仰向けになって空を見上げた。画用紙を手に持ったまま、和晴が亜理紗をじっと見つめる。
「空、好きだね、亜理紗」
「ああ。夏の空は、特に好きだ。あの濃い青を、いつか描けたら、といつも思うくらいには」
風が、二人の間を吹き抜けてゆく。さわさわと、草の揺れる音が聞こえてくる。
「……僕、今日、久しぶりに教室に行ったんだ。お別れを言いに」
和晴の言葉に、亜理紗の目がすっと細められる。
「いじめられたり、しなかったか?」
和晴の、首を横へ振る気配があった。
「それは、大丈夫。でも、変なあだ名がついてたっていうのは、あったよ」
「あだ名?」
「そう。織姫、だって。僕、細くてか弱いから」
はは、と和晴が笑う。亜理紗は、和晴のクラスの女子たちの顔を思い浮かべ、その中から部活でつながりのある者を頭の中でピックアップしてゆく。
「……亜理紗、何か、ろくでもないこと考えてる?」
和晴の声に、亜理紗は静かに首を横へ振った。
「別に。ただ、けじめをつけるべき事案について頭を巡らせていただけだ」
和晴が、息を吐いた。
「別に、いじめとかそういうのじゃ、ないからね。僕が、あんまり姿を見せないのと、時期柄、七夕が近いってだけのことで」
「どっちも、和晴のせいじゃない」
「うん。だから、大丈夫だよ。まあ、お土産買って送ってくれ、何て言う奴にはちょっと困ったけれど」
「……私は、マカダミアナッツがいいかな」
「亜理紗まで……僕、遊びに行くんじゃないんだよ? 行く先も、ハワイじゃないし」
頬を膨らませる和晴に、亜理紗は寝転がったまま続ける。
「無事に戻ってくる時でいい。帰ってくるのだから、お土産は必要だ」
亜理紗の言葉に、しばらく沈黙が流れる。
「……手術の成功率は、五分五分だって。よっぽどの、幸運が重なった場合、だけれど」
和晴の告げた確率に、亜理紗は呆然となった。アメリカへ、心臓の手術を受けにゆく。そう、和晴の両親から伝えられてはいた。それも、和晴本人よりも先に、である。だが、その確率までは聞かされてはいなかった。向こうへ行けば、何とかなるはずだ。そう、力強く和晴の両親はうなずいていた筈だった。
「……五割も、あるのか。それなら大丈夫だろう」
何も考えず、亜理紗は心のままに言葉を紡ぐ。和晴はきょとんとして、首を傾げた。
「根拠はあるの?」
和晴の問いに、亜理紗は必死に頭を回転させる。
「……万人に一人の稀有な病気に罹るくらいの悪運に見舞われているんだ。これからはきっと、幸運に恵まれる」
あげくに出た苦し紛れの言い分に、和晴はにっこりと笑って見せる。
「そういえば、そうかも。ありがと、亜理紗。おかげで、気持ちがちょっと楽になったよ」
そう言って、和晴は立ち上がる。亜理紗も身を起こし、身体についた草を手で払う。
「……もう、行くのか?」
亜理紗の問いに、和晴はうなずいた。
「うん。見たかったものも、見られたし……そろそろ戻らないと、両親も心配をするから」
「そうか……」
立ち上がった亜理紗に、和晴は空の描かれた画用紙を手渡してくる。受け取る亜理紗の指を、和晴の手がそっと包んだ。
「元気でいてね、亜理紗。僕のぶんも、しっかりと楽しんで生きて」
笑顔で言う和晴に、亜理紗は胸を締め上げられる思いを感じた。直後、亜理紗は和晴の手を払い、側に置いていた筆洗いのバケツの水を頭からかぶる。
「わ、な、何してるの亜理紗!?」
驚いた様子で、和晴が亜理紗に駆け寄った。
「局地的な雨だ。お前が濡れなくて、良かった、和晴」
「何を言ってるの? 亜理紗……声、震えてる。泣いてるの?」
和晴の問いかけに、亜理紗はふるふると首を振る。
「いや、これは寒いから声が震えてるだけだ。ほら見ろ、私のこの笑顔を」
頭から水を滴らせ、亜理紗は引きつった笑みを浮かべる。じっと、和晴がそれを覗き込んでくるのを、亜理紗は手を出して制した。
「あまり見るな。化粧が落ちて、恥ずかしいから」
「亜理紗、お化粧してないよね? どうしてそんなウソつくの?」
問い詰めてくる和晴に、亜理紗はそっぽを向いた。
「……男子の出立に、涙は不吉だからだ」
懸命に声を抑えつつ、亜理紗は言う。ぷっと、和晴が噴き出した。
「……笑うな」
「ごめんごめん。亜理紗って、古風だよね、そういうとこ」
「わ、悪いか? 古風な女で」
「そういうとこ、好きだったよ、ずっと」
和晴の言葉に、亜理紗はぎくんと動きを止める。滴り落ちる水が、足首まで伝ってきて気持ちが悪かったが、そんなことはどうでも良い、とさえ思えた。
「か、和晴……」
亜理紗が口を開きかけた瞬間、校舎から和晴を呼ぶ声が聞こえてくる。
「……もう、行かなきゃ。亜理紗、明日、空港まで見送りに来てくれる?」
「必ず、行く。だから、私が行くまで、待っているんだぞ」
「うん、わかった。飛行機止めてでも、待ってるから」
和晴は微笑んで、亜理紗に背を向ける。亜理紗も付いて行こうとしたが、びしょ濡れの制服を見下ろして思いとどまった。そのかわり、遠くに見える和晴の両親へ、そっと頭を下げた。
翌日、亜理紗は熱を出した。初夏とはいえ、濡れた制服で帰宅したのがまずかったらしい。くらくらと揺れる頭で身支度をして、結局タクシーを呼んで空港へと向かった。
空港のロビーには多くの人がおり、そのほとんどが観光客らしい恰好をしていた。だから、というわけではないが、和晴とその両親を見つけるのにはそれほど苦労はしなかった。
「和晴!」
呼びかける亜理紗の声に、ソファに腰掛けていた和晴が顔を上げる。駆け出したい気持ちはあったが、早足程度に抑えた。近づいてゆくと、和晴の母が微笑んだ。
「来てくれたのね、亜理紗ちゃん。間に合って、良かったわ」
「はい。間に合いました。うちの父母から、おじさんとおばさんに伝言があります。父からは、行って来い、と。母からは、頑張って、と。我が両親ながら、月並みな言葉で申し訳ありません」
亜理紗の言伝に、首を振るのは和晴の父だった。
「簡素でも、重みのある言葉だと充分理解しているよ。ありがとう、亜理紗ちゃん。今日は、随分めかしこんで来たんだね。可愛いよ」
和晴の父の称賛に、亜理紗ははにかんで俯く。和晴は父親似の顔で、それは成長をした和晴の顔であると思わせるには充分だからだ。
「何言い出すんだよ、父さん」
和晴が、少し尖った声を上げる。
「亜理紗は、いつだって可愛いんだよ」
和晴の言葉に、亜理紗はますます顔を上げられなくなる。昨日の、和晴の言葉が頭の中に甦った。
「はは、すまんすまん。それじゃ父さんたちは手続きしてくるから、うちの息子をお願いできるかい、亜理紗ちゃん?」
顔を上げた亜理紗に、和晴の父はウインクして見せる。
「余計な事を言っていないで、さっさと行くわよ、あなた。亜理紗ちゃん、よろしく、ね」
和晴の母がその腕を引っ張り、受付へと向かう。残された亜理紗と和晴は、顔を見合わせて肩をすくめ合った。
「いつも通りだな、和晴の両親は」
「うん。まるで長い旅行に出かけるみたいな気分だよ。でも、だからありがたい」
遠ざかる両親の背に目を細めて言う和晴の横顔が、ひどく大人びたものに見えた。それは、長い付き合いの亜理紗にも、見たことのないものだった。
「和晴」
「何?」
「どのくらいで、戻って来れる?」
亜理紗の問いに、和晴は顎に手を当てて少し考える。
「……全部上手くいって、一年くらいかな」
「……そうか」
呟いて、亜理紗は和晴の細い身体を抱きしめる。
「亜理紗?」
和晴の声が、亜理紗の肩でくぐもったものになる。
「お前が織姫なら、私は彦星だな。一年、ずっと待ち続けるのだから」
「亜理紗……」
戸惑いがちに、和晴の手が亜理紗の背に回ってくる。服ごしに、熱いものが亜理紗の肩へと触れた。
「……男子の旅立ちに、涙は禁物だ、和晴」
「っ……うん、亜理紗……僕、必ず、帰ってくるから」
「うん。待っている……もしも死んだりしたら、枕もとに化けて出てやるからな」
「亜理紗、それ逆だと思う……」
「そう、か……そうだな」
亜理紗は目じりに浮かんだものを拭い、そっと和晴の身を離す。浮かべるのは、とびっきりの笑顔だ。
「行って来い、和晴。向こうで、浮気の一つでもできるくらいに元気になれ。一回だけなら、許してやる」
身を離した和晴も、笑う。
「うん。行ってきます、亜理紗。でも、浮気はしないよ。僕、ずっと亜理紗ひとすじだから」
爽やかな和晴の顔に、亜理紗はなんとか笑顔を保ち続けた。引きつって、強張ってしまった顔のまま、搭乗口へと消える和晴を見送った。
白い機体が轟音を上げて、滑走路を飛び立ち空へと駆け登る。見上げる亜理紗の瞳から、流れる涙は止まらない。
「和晴ーっ!」
聞こえるはずの無い叫びを、亜理紗は上げた。空に、和晴を乗せた軌跡が消えるまで、亜理紗は立ち尽くしていた。青い空に、一筋の雲が流れ、溶けるように消えていった。
平日の外出には、気を遣わねばならない。呼び止められて、身分を聞かれれば厄介なことになりかねないのだ。化粧をして精一杯大人めかした衣装に身を包んだ亜理紗は、ヒールを鳴らして道を歩く。
肩から提げたバッグの中には、一通のエアメールが入っていた。カラフルに縁どられた便箋の裏に、書かれているのは和晴の名前だ。
手紙と、写真を同封してくれたのは、亜理紗の主義に合わせてくれたのだろう。今の時代、世界のどこにでも、とはいかないがアメリカと日本くらいならば携帯を使えば連絡は取りあえる。だが、送られてきたのは電子メールではなく、エアメールだった。
『亜理紗に会いたい。そして、一緒に見たい。アメリカの、広い空を』
そんな一文が、手紙の中にあった。ならば、会いに行かなければならないだろう。彦星として。亜理紗は胸に訪れた思いに従い、空港へと向かって歩く。一年ぶりの再会に、思いを馳せて。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。




