闇に溺れる空の麓
響くような鉄の重低音が闇夜の沈黙を切り裂く。
開放された途端、凄まじい風が吹きすさんだ。
静寂に包み込まれた、闇夜を眼前に広げる屋上に、俺はやって来た。
「……ここから、あいつは……」
端の高いフェンスに遮られながら存在するわずかな足場。
そこを見つめていると、心が強く締め付けられた。
「勝手なことしやがって……ほんと、あいつはばかだ。……俺も、ばかだ」
目前にあった最悪の事態を想定せず、大事な存在を亡くした。
けっきょく、どっちもばかなのは間違いない。
「さて……」
これからすることの最善の解決を祈りつつ、俺は一度深呼吸する。
そして、見えない友人へ問うた。
「いるんだろ? 隠れてないで出てこいよ。もう、逃げも隠れもできないだろ」
返事はない。
だが、それでいいんだ。
「昔おまえは、俺に言ってきたよな。“意気地無し”……って。その言葉、ここでそっくりそのまま返してやるよ」
そうして待ってもいっこうに出てくる気配はない。
だが、それでも俺は待ち続けた。
「!」
すると、俺のいる場所のさらに上から、透き通った鼻歌が聞こえてきた。
楽曲は、まごうことなく幻想即興曲だ。
そして、月の光の粒子なのか、輝く粒が徐々に集まり、人の形をかたどった。
明白なものとなり、懐かしき少女の姿となったそれは、ゆっくりと降りてきた。
「……よぉ。久しぶりじゃねーか」
「……」
少女はうつむき、よく顔は見えない。
それでも俺は、彼女を見つめ続けた。
「……沙夜、麻昼だよ。わかるんだろ? 黙ってないでこっち見てしゃべってくれよ」
そう訊いてまたしばらく待つと、彼女は徐々に顔を上げた。
すべて上がりきると、少女はかすれきった声で何かを言った。
「…………ね……」
「声、出ないのか? なら無理にしゃべらなくていいぞ?」
「……ご、め…………ね……」
「沙夜、聞いてるか? 無理にしゃべらなくていいって」
だが彼女は、必死に俺に何かを訴えかけてくる。
しかし肝心の声がかすれているため、うまく聞き取れない。
俺は少しずつ歩み寄り、少女のか細く青白い手に触れようとした。
「っ……」
だが、それは叶わなかった。
少女の腕へ伸ばしたてのひらは、むなしく空を切った。
「……ご、め……ん……ね……」
「おまえ……」
その時にようやく聞こえた。沙夜が、ずっと言い続けていたことが。
「かっ……て、に…………」
「……」
「わ、た……し……」
「……それ以上、言うな」
「……で…………も……」
「言わなくていい。おまえが死んじまったのは、俺のせいでもあるんだ」
「……」
俺は、目の前で涙を流す沙夜を抱きしめてあげたい衝動に駆られたが、結果は丸見えだ。
その気持ちを押しこらえて、言葉を続けた。
「おまえが酷いイジメにあっていることを知っておきながら、平気平気と平然を装うおまえに何も言ってやれなかった。最後の会話だって、俺はおまえのお願いを無下にして自分の欲求に負けた。……そんな俺に、涙なんか見せんなよ」
そう言う俺に、彼女は首を横に振って応える。
「怒ればいいだろ……。怒られて当然なことを、俺はして────」
沙夜は、俺に抱きついてきた。
「……ち、が……う…………の……」
「沙夜……」
「……ま……ひ、る……の…………せ……い…………じゃ、な……い」
「……」
「ぜん、ぶ…………わ、た……し……の、せ……い…………」
「……」
死してなお、自らの過ちを苦としていたんだな……。
心が余計に痛い。
俺は、自然と彼女の唇へ自らのそれをあてがった。
だが感触はない。しかし、眼前にはわずかに透けた彼女の顔。
とても、不思議な気持ちだった。
「……麻昼」
「! おまえ、声……」
「……うん」
彼女の声は、急にはっきりと聞こえるようになった。
まるで俺との口づけで、魔法がかかったようだ。
「……美術室で襲って、ごめんなさい」
「あれ……やっぱりおまえだったのか」
「うん……錯乱してた。気付いたら、麻昼の首を絞めてて……」
「気にすんな。俺は死んじゃいないから」
そう言うと、沙夜は悲しげに笑んだ。
「音楽室のピアノ……。あれも、おまえだな?」
こくりと、沙夜は頷いた。
「いつからわかってたんだ? 俺が来たこと」
「君があの麻昼だって気付いたのは、大黒柱でバッジを転がしたとき」
「そっか。……どうだ? いまの俺は」
「ん……すっかり、大人。別人みたい」
「残念ながら本物だよ」
「……そういうとこ、変わってないのね」
「まあな」
性格については、あの頃から変わった覚えはない。
「そう言うおまえは、変わんないよな」
「だって……死んでるもん」
死んでいるのに話せているのは、実に不思議なものだ。
「俺さ、いま彼女いるんだよね」
「……そっか。なのに、キスしたんだ」
「特別なやつには特別な挨拶じゃないと、つまんないだろ?」
「わたしの気も知らないで、よく言う」
「わりぃ。人の気持ちには鈍感なんだ」
「……知ってる」
俺のもとから沙夜がいなくなって11年。
この場でまた出会い、話せている。
懐かしき思い出が、走馬灯のように浮かんでくる。
「で? こんなことさせたおまえの意図はなんだ?」
「……そんなの、決まってる。わたしの生きた証を、麻昼に託したいから」
……あの手紙は、ある種の遺言書ってことだったのか。
じゃあ、あの時の沙夜の心には、すでに……。
「……それ、どこにあるんだ?」
「“わたし”が、そうだよ」
「?」
「っあ……」
疑問の視線を投げ掛けたとき、沙夜のからだが輝きを強くし始めた。
「これは……」
「……早いなぁ。もう時間だ」
「……時間?」
「うん、そうだよ。…………サヨナラ、の時間」
「なっ……!?」
こんなに早いものなのか。
再会して、まだほんの少ししか話せていないのに……もう、なのか?
「未練が……無くなったから。またこうやって会えて……謝って。キスは予想外だったけれど……それでも、“あれ”を託せるから」
沙夜は薄く頬を染めた。
「最後に……麻昼。聞いて?」
俺は、腕に力を込めて彼女を抱きしめた。
抱きしめることが、できた。
「一緒だったときから……いまも、ずっと――」
視界が涙に溺れる。
あまりにも突然だった親友との別れの思い出は、ここで塗り替えられた。
「――麻昼が、好きだよ」
「沙夜、俺もッ……!」
親友は、俺の大好きな満面の笑みを浮かべ…………消えていった。
まるで神が、俺に余計なことは言ってはダメだと告げたようだった。
「俺も……おまえが、好きだ」
――もう二度と会うことのできない、世界にたった一人の入間 沙夜が……。
視線を落とすと、彼女がいた場所には、ひとつのリングが落ちていた。
拾い上げて確認すると、それはアンクレットだった。
これは、あいつがよく着けていたやつだ。
「生きた証……か」
その内側には、
“SAYA&ASAHI”
と記されていた。
「……アサヒ?」
スーパードライなわけは当然ない。
あいつの友達か?
とにかく、俺の身に覚えは……。
「あ、そうか」
あった。
身に覚えがあった。
「……帰ろう。もう、ここにいる意味はない」
そのアンクレットを上着のポケットにしまい、俺は校舎へと戻った。
当然、証拠は隠滅しなければいけない。
まずは、それからだ――――。