甘い秘密は蜜の味
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あのときに撮った写真は、いまだに色褪せてはいなかった。
入っていたのは、俺と沙夜のツーショット写真と、慌て顔の沙夜の写真の二枚。
彼女の顔は、俺が想像で作っていたそれと、ほとんど変わらなかった。
「これが、俺とあいつの写る、最初で最後の写真……」
自然と、涙がこぼれていた。
「ははっ……なに泣いてんだよ、俺は。あいつがいるかもしれないだろ。見せたくなんかないだろ、情けないこんな姿は」
そんな自分に言い聞かせ、涙を拭った。
気を取り直し、同封されていた小さな紙を取り出した。
“美しき白き者たちに見守られる場所”
“甘い秘密は蜜の味”
そこにはやはり、次へのヒントが。
一行目も二行目も、なかなか意味不明だ。
「……白き者たち? 甘い秘密?」
ちっとも連想ができない。
「……とにかく、歩いてみるか」
とはいえ、ここで突っ立っているわけにもいかない。
俺は音楽室をあとにした。
美しい……白き者たち……。
甘い秘密……。
「だめだ、ちっともわかんねぇ」
音楽室を出てしばらく歩き考え続けていたが、まったく思い付かない。
「だいたい白き者たちってなんだよ? 幽霊かっての」
くだらない文句が口から出る。
誰も助けはいないんだ。すべて、俺の記憶で推測するしかないんだ。
わかってはいるんだけどなぁ……。
「……ん?」
ちんぷんかんぷんで頭が痛くなり、ふと天井をあおいだ。
左側に、なにか見える。……場所を教えるプレートだ。
「手洗い場か」
まごうことなく、ここはトイレだ。
「……ん? “甘い秘密は蜜の味”?」
……そういえば、俺と沙夜は……。
「じゃあ、あれのことを言っていたのか、あいつは……」
ひとりでに納得がいき、俺は歩みを進める。
「……確かあの日、俺たちはあそこで……」
そうして俺は、ふと、ある場所へ向かった。
そこの扉をくぐると、ツンと鼻につく薬品のにおいがする。
懐かしいにおいだ。
「ほんと、どこに行っても変わりねぇのな」
はは、と苦笑い。
ここは保健室。
マンガの世界じゃ、よくここにエロティックな美人先生が居て、いろいろ誘惑される場所。
昔は、そういう展開に憧れていた時もあったな。
「とはいえ、あの頃は男の教師が居たけどな」
少年の不純な願望は、あえなく散り行ったとさ。
さて、そんなことはどうでもいい。
「……初体験、か」
言ってしまえばここは、俺と沙夜が同時に初めてを失った場所。
記憶はすでにぼやけていたが、ここにやって来て思い出せた。
初めて見た女性のすべて。
でも俺は、罪悪感を押しこらえながら事を終わらせていた。
「どうしてあのときに、なにも言ってやれなかったんだろうな、俺……」
もしあのとき、彼女の傷だらけの心を癒せていたのなら、いまの俺の生活はまるで違っていたはずだ。
俺の隣に常にいるのは夕陽ではなく、沙夜だっただろうな。
……それは、二年の秋。
昼休みを終えて、職員室にある事情でうかがったあとのことだった――。
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「ったくよぉ、おかげで時間ギリギリじゃねーか」
体育祭を一週間後に控えた秋のある日。
おれは、少々イライラしながら廊下を早足で歩いていた。
「そんなこと知らねーっつーの」
昼飯を食べ終え、お気に入りの屋上で一息いれようと向かっていたときに、急に放送で、しかも名指しで職員室に呼ばれた。
そのとき周りにいた同級生はクスクス笑いながらおれを見ていた。
わけもわからず行ってみたところ、なぜか女子の着替えを覗いた主犯という冤罪を受けた。
なにを言っても教育指導のゴミ教師は話を聞かず、なぜか長ったらしい説教をされた。
おかげでゆっくりする時間は水の泡と消え、もうまもなく授業の開始時間だ。
おれはなにもしていない。だいたい、覗きがあったなんてこと自体、今日初耳だった。
それなのに、こんな始末。そりゃイライラするって。
「っだー、もうっ! わけわかんねぇ!」
あー……いくら叫んでも叫び足りない。
いっその屋上で、授業中だろうとおかまいなく叫び倒してやろうかな。
「ん?」
ふと通りかかったのは、美術室へ向かう最中に、うちのクラスはほとんどが通るトイレ。
そこから、見覚えのある三人組の女子が出てきた。
「きゃはは、マジウケる」
「ざまあみろ」
「あースッキリしたぁ! いっそのこと“アイツ”も、あの水みたいに落ちて死ねばいいのに」
「言えてるーっ」
「ほんとほんとぉ」
こいつらは、校内でも指折りの問題児三人だ。
自分たちがかわいいとか、自分たちが上なんだって考えているのか知らないが、周りから見ればこいつらが一番ガキで、救いようのないバカなんだ。
……しかし、いまあいつら、なんかおかしなことを話していなかったか?
“あの水みたいに”、“死ねばいいのに”。
“マジウケる”、“ざまあみろ”。
…………“アイツ”。
「!」
おれはある可能性を見出だし、あいつらがいなくなってから女子トイレ側に向かって叫んだ。
「おい! いるのか!?」
返事はない。
おれはトイレの通路を覗いた。
すると、床に水が撒かれていた。それも、まだ新しい。
「いるんだろ!? 答えてくれ! おれだ、麻昼だよ!」
ほとんど確信していた。
間違いなく、ここにあいつがいる。
しばらく沈黙していた、そんなとき。
「…………まひ、る?」
親友のか細い声が、かすかに耳に入った。
「やっぱり……。どこだ? 教えてくれ」
「な……なに言ってるのよ。ここ、女子トイレだよ?」
「うるせぇ。そんなこと知るか」
そうだ。いまはそんなこと気にしている場合じゃない。
苦しい思いをしている友人のもとに駆けつけてやるのに、性別なんか関係あるかよ。
「どこにいる?」
「……」
彼女は黙秘している。
とはいえ、おれは彼女がどこにいるかわかっていた。
床の水が、どこから流れているのか見れば……な。
「なあ、どこだよ?」
「……授業、遅れるよ?」
彼女の口から出るまで待つことにしたが、どうやらこの子は、答える気はないようだ。
「もう間に合わねぇよ」
「……また成績、悪くなるよ?」
「成績が響くのは主に来年だ」
……往生際が悪いやつだな、本当に。
「次、麻昼が大好きな美術じゃなかったっけ?」
「あいにく美術は苦手だ。おれには芸術的な感性が乏しいんだろ?」
それは以前、おまえ自身が言ったことだろ、バカ野郎。
「……」
このままではラチが明かない。
おれはそっと彼女のいる個室に近づき、
「言っとくけど」
個室に入り込み、
「逃げたおまえを見つけてあげられるのは、きっとおれ一人だけだ」
壁のすみに持たれつき、涙を流して震えていた華奢なからだを、抱きしめた。
「……いや、絶対おれだけだ」
少女の唇は紫に変色し、からだはこわばり、冷たかった。
「……せ、制服……濡れちゃうよ」
「制服よりおまえの方がはるかに心配だよ、ばかやろー」
「ば……ばかは、どっちなのよ……」
「おれもおまえも、結局ばか。どっちもばかだ」
「な、なにそれっ……うぅっ……」
彼女は、声まで震えていた。
「おまえの涙は、他の誰にも受け止められない。これも、できるのはおれだけだ」
「ひっく…………ま、まひ……るぅ……!」
「泣け。泣いて泣いて泣きじゃくって、涙枯らしてスッキリしろ。んで、いつもの笑顔を見せてくれ。おまえに涙は似合わねぇ」
「あ、り……が、と……」
彼女の悲痛の涙は叫びとなり、おれの心にひたすら問いかけてきた。
なんでわたしだけ?
なんでみんなは笑っているの?
どうして誰も、助けに来てくれないの?
――助けてあげなくちゃならないのは、おれだ。おれ一人でも、彼女の味方でいよう。
そう、心に刻んだ瞬間だった。
沙夜は、二年の春から、いわゆるいじめにあっていた。
始めは、おれもわからないくらい小さな悪口からだった。
その頃は、そこまで気にすることないと沙夜に言い聞かせ、おれもそこまで気にしていなかった。
だが時間が経つにつれて悪口は悪化し、ついには暴言へと変わっていた。
さすがにムカついたおれは、何度も注意をした。時には怒ったりもした。
そのおかげなのか、“おれの見ている範囲では”、そう言ったことはなくなっていた。
――そう、“おれの見ている範囲では”。
そのまま二学期に突入するも、なんだか沙夜の様子がおかしかった。
いつもの笑顔だというのに、なにか違った。……空元気だった。
怪しく思い本人に訊いても、当然話してはくれない。
おれは他に親しい友人たちに聞いて回り、いまだ彼女への暴言、また気づかぬうちに暴力まで振るわれていたことを初めて知った。
おれの知らぬところで彼女を雑菌扱い。
おれの知らぬところで彼女に暴力。
おれの知らぬところで彼女に物事を押しつけ。
挙げ句の果てに、おれの知らぬところで彼女は犯されそうになっていたようだ。最悪の事態は免れたようだが。
そうして、今回の水掛け。
大半のところで、あの三人組が絡んでいるという情報も得ていた。
とは言えやつらを起訴したところで、証拠が無いと門前払い。
おれがしてやれることは、沙夜のそばにできるだけいて、どんなことを言われても構わないから守り抜くことくらいだ。
それぐらいしか……してやれないんだ。
さて。涙を枯らした沙夜を、おれは保健室へ連れて行った。
当然、ずぶ濡れの服を着替える目的ではあるが、もう彼女に、今日の授業を受けさせたくないというのもある。
こんな傷付いた心の彼女を、野放しになんかできないんだよ。
「ふむ。じゃあ、そう伝えておくぞ」
「お願い。…………します」
にらまれた。
お願いで切ったらにらまれた。
「おう」
保健教師は、事情でおれと沙夜が授業を休むことを伝えに、保健室を出た。
「別にお願いでいいじゃん……」
「だめだよ、先生にタメ口は」
「めんどくせー」
「もう……。さっきときめいて損したかな」
「ん? なんか言ったか?」
「なんにも!」
「な、なんで怒ってんだよ」
聞こえなかったことに聞き返して、逆ギレされる理由がわからん。
「怒ってないよ、全然」
「ほんとか?」
「うん。むしろ、泣きそうかな」
「まだ涙出るのか?」
さっきのおかげで、けっこう制服が濡れてるんだけど。
「出るよー? 女の涙は無限大なんだもの」
「それはウソだろ」
「う……。ま、まあ気にしない」
「なんじゃそら」
カーテン越しに、いつもと変わらない会話をする。
そのカーテンを越えてしまうと、いろいろまずいので自主規制。
「……麻昼」
「ん?」
「ありがと。嬉しかった」
「なにが?」
「麻昼がすぐに駆けつけてくれて……お構いなしに来てくれて……抱きしめてくれたこと」
「ばっ、言うな! 恥ずかしいだろ!」
ああ、思い出すだけで顔が熱い。
なんであんなに思いきり踏み切ったんだろ、おれ……。
「なんで? わたしは嬉しかったんだよ?」
「おれは恥ずかしいの!」
「まあ、いきなり女の子のお手洗いに浸入してきちゃったもんね」
「だから言うな、バカ!」
「“どっちもばかだ”」
「だーーーーーっ!!」
あ、あんな衝動的に言ってしまった、わけのわかんねークサい台詞をぶり返すんじゃねぇ! ちくしょー!
「……“逃げたおまえを見つけてあげられるのは、おれだけだ”」
「やめろやめろ!! まじで恥ずかしいから!」
「“おまえの涙は誰にも受け止められない。できるのは、おれだけだ”」
「おまえっ、いい加減にしろっ!」
恥ずかしさのあまり、沙夜の口を封じようとカーテンを開けてしまった。
「ふふ、やっと来てくれた」
その先には、体操服でベッドに座り、温かな毛布で足元を覆った、はにかんだ笑顔の沙夜がいた。
無論、先の騒動で濡れてしまったため、下着類は着けていない。
「……わ、わりぃ。閉めるぞ」
先のことを見据えて、おれはゆっくりとカーテンを閉めようとした。
「閉めないで」
「へ? や、でも……」
「閉めちゃダメ。座って?」
しかし沙夜に咎められ、その視線に負けて、彼女が指定した場所――――彼女の隣に座った。
彼女の顔を見ようにも、肌の露出が多い体操服。
しかも、冷えきったからだをあたためる火照りが、妙に色気を醸し出していて直視できない。
「ね、こっち見て?」
「いや、それは……だな」
頼むから、そういうことは自分の状態を理解してから言ってほしい。
「麻昼」
「……」
「……意気地無し」
「なっ……」
どうしても向きたくはなかった。
だから黙り、沙夜が諦めてくれるのを待とうとしたが、予想外の展開になってしまった。
意気地無しなんて言われたら、そりゃムッとする。
しかし反論する暇は与えられず、おれは沙夜に押し倒された。
「さ、沙夜……?」
「こっち見てくれないから、こうなるの」
他所を見ようにも、顔を動かそうとすれば沙夜に強制的に戻される。
おれにまたがる沙夜の体操服はだらしなく垂れ、ギリギリ見えないほどだ。
「ねぇ麻昼……わたしを助けてよ」
「はっ? ど、どうやってだよ」
「言葉なんかじゃ満足しない。わたしの心は廃れたまま」
「お、おい」
沙夜は、勝手におれの手を自らのからだに巻き付け、そのからだをおれに預けてきた。
「麻昼。……わたしを……抱いて?」
「なっ……はぁっ!?」
あまりにも恐ろしい、予測不能な要望を、沙夜はおれに投げ掛けてきた。
「もうわたし、どうなってもいいの。誰にも相手にされなくて、嫌なことばかりされ続けてる。そんなわたしのそばにいてくれるのは麻昼だけなの。麻昼になら……なにをされたっていいんだ」
「バカを言うな! おまえが良くてもおれは良くない! そういうのは普通、本心から好きで、愛してるやつとすることだろ!」
「……ほんと、鈍感なんだから」
「鈍感? 意味わかんねーよ、おれなにか間違ってるのか?」
「間違ってる。それを、教えてあげる」
沙夜は不敵に笑んで、おれに口付けてきた。
それは次第にエスカレートし、どんどん深くなっていく。
「ん……はぁ。ねぇ麻昼、わたし知ってるんだよ?」
「な……なに、を?」
「前に音楽室で、すごいことになってたこと」
「っ!?」
「あんな体勢だったんだもの。嫌でもわかるよ」
そう言って沙夜は、手をそこに持ってきた。
「いまだって……ね?」
「うっ……」
沙夜の妖艶な手の動きが、おれを悩ませる。
「からだは、正直だよね?」
「……」
もう、頭が真っ白になった。
「んぅ……っ」
彼女のからだを強く抱きしめ、こっちから仕掛けた。
「もう、知らねーぞ」
「うん……」
おれは、過ちを犯してしまったのだろうか……?
事を終えきったおれにくすぶり続けていたのは、まぎれもなく罪悪感だった。
こんなことで、彼女の純潔を奪ってしまったことに対する……な。
乱れを整えた体操服で、彼女は寝転がっている。一方おれは、彼女の顔が直視できない状況に至っていた。
「ありがと、麻昼。それと……ごめんね」
「なんで謝ってるんだよ」
「わたしの勝手な思いを、押しつけちゃっただけだもの」
「……」
押しつけ……か。
わかっていて、あいつはこんなことを要求してきたのか。
「でも麻昼って、けっこうグイグイくるのね」
「し、知るか」
過ぎたことを思い出してしまい、顔が熱くなる。
「ねぇ麻昼、わたしの気持ち……伝わった?」
「……どうだろうな」
素っ気ない返し方だが、実際は十分に伝わっている。
どれだけ彼女が、おれに思いを投げ掛けてきたことか。
「……もう」
沙夜のその言葉は、どこか笑みがうかがえる、そんな言い方だった。
「大丈夫なのか?」
「え?」
「傷。少しは、癒せたか?」
「あ……うん。しかも、少しだけじゃないよ」
「……そっか」
ならいいのかな?
抱え込まず、おれを頼ってくれるかな?
「また苦しくなったら、言ってくれよ? できる限り、助けてやるから」
「うん……」
安堵のため息が出る。
これでまた、おれと沙夜は近しい存在となれた。
……そう思っていたんだ。
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