5.超えるべき試練、打倒すべき難敵
迫り来る暴力とそれに付随して発生する暴風に俺は目を剥いた。
剛腕から繰り出される石の塊は俺の頭上から落下し、それを紙一重で避けるとそのまま大地を激突する。俺は想像上の速さと現実の速さの齟齬を正しながら一旦相手の分析のため守勢に回っていた。
やはりイメージ以上の迫力と威圧感、死の恐怖への圧迫感が俺を苛む。下手に長期戦に持ち込めば精神が摩耗して先に参ってしまうかもしれないと胸中で弱音を吐いてしまうほどそれは恐ろしかった。だが、仮想敵として設定していたより幾許か敏捷性という点では劣っていたのが唯一の救いである。反して膂力と物理攻撃力は埒外で、一撃喰らえばそれだけで致命傷に違いないのは見て取れるのだが。
数分ほど避けに徹していたが一転、次は此方が攻勢を仕掛ける番だ。
まずは防御力を知るためヒットアンドアウェイを意識し、剛腕を掻い潜りながら握る木剣を閃かせる。掬い上げられる岩石を軸足を起点として身を引く形で避け、がら空きの胴体へ飛び込み渾身の薙ぎ払い。ドスンという重苦しい音が森の中に響かせるも、当の本人であるオーガはまるで何事もなかったかのように直立不動で動じず、そのまま掬い上げられた金棒を重力に従い振り下ろしてきた。防御力は今のところは仮想敵と同等という印象で舌打ち一つ。
手には地面に遠慮なく木剣を打ち付けた後のような感触を残し残響のように痺れている。果たして目の前の存在は同じ生命体という括りに入れていいのか甚だ疑問に思う。
化け物めが――
自分の醜悪な顔を棚に上げ俺は毒付き、眼前の打倒すべき敵を睨んだ。
盛り上がる筋肉は戦闘態勢へ移行する前よりも遥かに膨れ、犬歯からは荒い息が、鼻からは五月蠅いまでの呼吸音が耳へ届く。茶色の皮膚はそれだけで一種の鎧と化し、駆け引きや策略などの知能こそ有していないものの、それを補うだけの本能がオーガを突き動かす。
横殴りの金棒を力負けしないよう木剣で受け流しつつ、武装無効化を狙い手元を強打。激しく動き回る中で寸分違わず五指の内、一番握力に関係している小指を狙うほど今の俺に技術力はなく単純に手首の先狙いだ。ガンという衝撃音を奏でるがオーガは武器を落とさない。若干顔を顰めているような気もするが、顔の筋肉も硬いのかいまいち把握できないでいた。
被弾こそ未だしていないものの、あまり長引くと動きが鈍くなって手痛い一撃を受けてしまうかもしれないな。ここは一度勝負に出てみるか?
バックステップを踏み一度距離を取る。ここまで俊敏な緑の豚は俺以外に居ないだろうと自画自賛。
そんなことはさておいて、狙うはやはり防御しようがない金的とそこから繋ぐ眼球、そして喉元というところか。
金棒を掻い潜ってやり過ごし、低位置からの振り上げの一閃を狙う――
仮想敵の時と同じ戦略を用い、俺は地面へと倒れるような形で相手の視界から一時的に姿を消し、上半身と地面が平行になったところで疾走する。狙い通り、刹那の隙に姿を消した俺をオーガは慌てて探すが遅い。既に射程圏内に侵入済みだ。振り上げられた木剣は見事金的に命中し――
は……?
開いた口が閉まらないというのは正にこの事である。当初の予定では先ほどの斬撃によりオーガは死に体となり、俺は眼球、そして喉元への刺突。そこから毒を注入して掃討戦へと取り掛かるつもりだった。
しかしこの現実はなんだ? どうして俺は宙に舞っている?
ドスンという衝撃を背中から直接叩き込まれ数瞬の間息が止まる。反転する視界と鉄臭い味が口一杯に広がり、喘ぐように空気を見っとも無く求めた。
想像と現実のギャップに俺は狂乱状態に陥りそうになるも寸でのところで踏み止まり、即座に思考をフルスロットルで巡らせる。現在の俺の状態は地に伏し、ステータスウィンドウにはHPが57ある内23しか残っていないと無情にも表示されていることから、俺は途轍もない攻撃を意識の外から受けたというわけだ。そしてそんな攻撃を出来る存在は先程まで戦っていたオーガを他において居らず、つまるところ奇襲に合わせて反撃を受けたということだ。
それを証拠に視界の先には悠然と佇むオーガが直立しており、鼻息荒く此方を睨んでいる。そうか、金的の防御力が俺の想像以上の硬さで戦略が崩された一瞬の思考の穴を付かれたのか。
理解さえしてしまえば後は容易い。すぐさま震える身体を叱咤し、俺は片膝を付きながら相手と同じように睨みつけた。
気概ではまだ負けていない。HPも一撃で半分も持って行かれたがまだ半分も残っている。
問題はどうやってあの防御力を突破するかだ。弱点と思った金的も予想外の硬さを誇っていたことから、まともに攻撃が通りそうなのは眼球のみ。しかし眼球を攻撃するにはどうにかしてオーガに片膝を付かせる格好にさせなくてはならない。それが出来るのかと問われれば俺は是と答えることが出来ないのが現実であった。
血反吐を吐き捨て眼前に立ち塞がる鬼と相立つ。
一手で届かないのなら二手、三手と連撃で詰めてやろう。爆発的な突進力を携えて流れるようにオーガの背後に回り込む。繰り出す連撃はかの新撰組一番隊組長であった沖田総司の得意技とされた三段突き。正中線に叩き込まれる神速の三連撃はオーガの背中へ襲い掛かるがそれでもびくともしない。
そうした無理が祟ったのか、己の愛剣が中程からバキリと砕け散った。
圧倒的な決定力不足。
改めて種としての基本性能の差に俺は痛感させられる。敏捷性こそ上回っているものの、それ以外の能力全てに於いて俺はオーガに及ばない。
それでも諦めてやるものか――
無手となろうとも徒手空拳も鍛えている。武器は木剣だけではなく、自分自身が一本の矛となるように意識を鋭敏化させた。
踏込み、眼前に潜り込み震脚。手を相手の腹部に軽く当て、密着状態からの内面への攻撃。徹しと呼ばれる技術だ。外面を介さず内面への直接攻撃を旨とするそれは、オーガの頑強な装甲を突破する防御力無視の一撃となる。
ズドンと砂の詰まったサンドバッグを思い切り叩いた鈍い音が木霊するが、それでもオーガは倒れない。一歩だけ後退を示すが、それでも致命傷とは至らない。お返しとばかり我武者羅に振るわれた横殴りの金棒がカウンターのように俺の右脇腹へと突き刺さった。肉が飛び散る感触と脳髄を焼くような激しい痛みが俺を襲い、その運動量はそれなりの重さを持つ俺を軽々と吹き飛ばす。
絶体絶命、万事休す。一歩一歩歩み寄る死神の匂いが俺の鼻に付く。
脳のアラートはキンキンと鳴り響き、眼前は痛みと出血と体力の低下でチカチカと点滅する。
万策尽きたか……?
あらゆる手段は模索した。それでも尚オーガには届かない。これが俺の限界なのか? ここが俺の終着点なのか?
諦念が俺を飲み込むように甘い誘惑を誘う。ここで諦めればもう辛い思いをせずに済むし、起きればこの悪夢という状況も終わって人間であった俺に戻るかもしれない。いや、これもただの言い訳に過ぎない。
俺は諦める言い訳が欲しかったのだ。ここまで頑張った、もうゴールだなどという優しい言葉。たった一人の孤独に苛まれ、それ故に気丈に振る舞う必要があり、それを終わらせることの出来る言い訳が欲しかった。
ならばここで諦めようか? そんな思いが胸中を埋め尽くす。だが、そんな弱気の俺とは裏腹に身体は未だ抵抗の意欲を示した。
屈する膝は伸ばされ、俯く視線は毅然と貫かれる。吐かれる息には鉄臭い味が混じり、ふらふらとする身体は立つことすらままならないというのにそれでも倒れることはない。
諦めるのは簡単だ。歩みを止め、そして自分が納得できる理由をその場その場で組み上げればいいのだから。
だが、それは自分一人の場合だ。確かに俺は孤独であり、たった独りで生きている。しかし、その生を享受するために糧となった存在を忘れるものか。俺は彼らを糧として生き、そして彼らを糧としたからこそ敬意を示したのだ。そんな相手が居るというのに諦められるものか。
彼らの生きた証は俺の中で存在している。それこそがステータスという形でありスキルという形だ。確かに彼らはここに居てここで生きている。
偽善? 大いに結構、俺はそれを認めて掲げた上で生きていくと決心したんじゃなかったのか。あぁ、そうだ。俺は"この世界で生きると決めたのだ"。
握る拳に力が入る。
意地汚くてもいい。足掻いてもがいて生きていくんだ。
土を蹴る脚はしっかりと大地を掴み、ぼやけた視界は一気にクリアに広がる。降り注ぐ隕石がスローモーションに写り、紙一重で避けて突撃。衝突する拳と壁は決意があろうとも砕けはしなかった。
力が欲しい。渇望するは願い。
窮地を打破出来るだけの力。どんな形だっていいんだ、今を突破する力を。
所詮俺は少しだけ特殊なスライムであり、最強種からは程遠い。そんな弱者は力を技で捻じ伏せる他道は無く。
今此処でアイツの壁を破れるものを考えてみる。
強靭な皮膚を貫けるだけの鮮烈な輝き。鋭く尖り犀利なもの。鈍く光る宵闇の森を抜ける猪突猛進な突撃。そうして浮かんだのはラッシュボアの角だった。
アイツの角ならば確かにオーガの鎧も貫けそうではある。しかし、件のラッシュボアがタイミング良く姿を現すはずもない。ならばラッシュボアの姿となるか? いや、突進性こそ脅威となり得るかも知れないが、旋回性や機動力を加味すると上策ではない。
欲を言えばこの状態であの角があれば――
閃きは一瞬で脳裏を駆け巡り、試してみるだけの価値はある策を思い付く。
これが失敗してしまえば今度こそ間違いなく打つ手はない。失敗は許されないが、どうしてかそんな不安は俺の中に一切なかった。
アイツらは俺の中で生きている。鮮明に思い浮かぶ先達たち。ならば失敗する要素がないことは明白だった。
駆ける。
今日一番の加速を見せた俺の姿はオーガの視界から姿を消した。
輝く腕。それは新たに構築させる情報体が書き換えられている証拠。緑のぶつぶつとしたゴブリンの腕は消え去り、代わりに姿を現したのは鶴嘴のような三日月を描く一本角。
スキル〈改造〉を取得しました。
ファンファーレと共に表示される無機質な一文は新たに手に入れた俺の力をこの世界に知らしめる。
〈改造〉
スキル〈吸収〉により取り込んだ対象物の姿形を寸分違わず再現することが可能である〈模倣〉を自分が好きなように再現することが可能。
〈模倣〉は寸分違わずという制限が設けられていたがこのスキルには制限がなく、何重にも種類を掛け合わせて再現が可能であり、姿形は自分自身の想像により本体と乖離しない範囲で設定できる。
必要だった最後の一手。届かない場所にようやく届いた軌跡。
穿たれる正拳突きはオーガの肉の鎧を深々と食い破り、鈍く重苦しい轟音が森を駆け巡る。夥しい血の雨は大地を汚し、暴れる腕に巻き込まれないように俺は距離を取った。
捉えた一撃は本来致命傷に近いはずだが、流石というべきかその尋常ではない生命力と回復力で未だ存命を図っている。だが、甘い。攻撃と同時に注入した毒素は着実と蝕んでいく。
抉り取るように放たれる右腕と合わせる形で振るわれる金棒は中間点で火花を散らしながら鬩ぎ合う。雄叫びを上げながら鼓舞するオーガと静かに闘志を燃やす俺。
次第にオーガは毒に身体が蝕まれて動きが鈍くなり、息も絶え絶えとなっていく。そこに甘えを見せず俺は果敢に攻撃を積み重ね、そして――
ドスン。
闇が蔓延る樹林は十数時間ぶりの静けさが訪れた。雲間に隠れていた月光がそれと同時期に顔を覗かせて淡く優しく、そして蠱惑的な光が一つの影を浮かび上がらせる。
直立不動――とは言えず、激戦による緊張の糸が切れたのか俺の脚はガクガクと震え立ち上がるだけの体力もなかった。その場に残るのはオーガが扱っていた歪な金棒が残るのみで本人は既に俺の糧となっている。
森には風が吹いて木々を揺らす音以外存在せず、辺りからは生物の鼓動がない。先程までの激闘の影響で近辺を住処としてた生物も危険を感じ取りどこかへ行ってしまったのだろうか。
つらつらと取り留めもないことを考えながら俺は静かに瞼を閉じる。流石に限界を迎え、早急に休息を取らないと体力が持たない。
さて、明日からどうしようか。そろそろ新天地を目指して旅に出かけようか。そんなことを考えながらいつの間にか深り眠りへと落ちていた。