3.驕りと焦りと敬意
それは突然の遭遇だった。
黒の帳が辺りをすっかりと覆い隠し、陽光が妖光へと姿を変えた頃。湖の岸部で水と同化するように擬態していた俺に気付くことなく一匹の化生が姿を現した。
その化生は緑色の体表で粗雑な毛皮で股間部を覆うだけの簡易な防具を自らに施し、上半身は軽く盛り上がる筋肉。右手には木の幹を削って作り上げた木製バットよりもずっと大きく太い血が滴る棍棒が掲げられ、左手にはその棍棒で撲殺したであろう豚に近い何かが掴まれている。
容姿はスライムの俺が言うのもなんだが大層醜く、皺くちゃな顔面と裂けた口から突起する犬歯と垂れる涎。ピンと小さく尖った耳はチャームポイントというには烏滸がましく、ギザギザと可愛らしさの欠片もない。醜悪のその姿はまさしく、ゲームの序盤で遭遇するゴブリンそっくりだった。
初めての自分以外の怪物との遭遇に俺は興奮しつつ空腹感を漲らせつつも、臆病なほどに脅えていた。
果たして己と相手では、どちらが捕食者でどちらが被食者なのか。このウィンドウも相手の能力値を表示してくれればいいもののそこまで優しくはなく、無機質に表示されるステータスは己のみ。もしかすれば相手の能力を読み取るスキルを強奪すれば話も変わるかもしれないが、現状では無いもの強請りである。
ゴブリンは俺から少し離れた岸部で足を水に浸ける形で腰かけ、掴む豚を湖でざぶざぶと洗っている。一応血を落としているのだろうか。そんな光景を眺めつつも俺はヒッソリと行動を開始する。
ステータスが最低値である俺とステータス不明瞭のゴブリンとが真っ向から殺り合う形となればどうしても俺が不利になってしまう。ならば相手の土俵に立たず、それでいて自分の土俵へ相手を引き摺り込むのが必勝策となってくる。この場合の必勝策は油断しながら豚を頬張るゴブリンを水中から襲い掛かり、そのまま水中戦へと持ち込むこと。これならば陸地以上のパフォーマンスを期待できる俺と突然の事態に狼狽し、且つ陸地よりもパフォーマンスがガタ落ちするゴブリンとであれば俺にも勝機が見えてくる。
水中を音も無く忍び寄る暗殺者の俺はまさに妖怪のようだ。ゴブリンは俺の存在に気付くことなく、ようやく洗い終えた豚を両手で持って齧り付こうとしている。武器である棍棒は少し横に転がされており脅威が一つ減った。むしゃむしゃと貪り食うその姿に俺のお腹も反応し、今か今かと飛びつくタイミングを測る。
ここだ――
豚は身体の半分が抉られ、済んでいた水が少し赤黒く染まっている。一息付いたとばかり、重さが減った豚を片手で支えながら喉の渇きを癒すため水面に顔を近づけるゴブリン。醜悪な顔が俺へ迫り、それに対する嫌悪感を否めないが耐え凌ぎ、水面とゴブリンの口が接したその瞬間、俺は水辺から飛び上がってゴブリンを引き摺り込んだ。
「ゴアァッ!? ギャブボォッ!?」
突然の事態。暗転する視界と息苦しさから悶えるゴブリンと、それとは対照的に極上の獲物を捕らえた嗜虐の色を見せる俺。
助けを求めるように伸ばされた腕は水面から出ることなく俺の身体に絡め取られる。地上ならば突き破っていたかもしれないそれも、水の中では抵抗力が地上の比ではなく、また地上と同じように身体を動かすことも儘ならないだろう。
じわじわと身体を溶かされていく恐怖にゴブリンの顔は歪んでいく。恐怖だけなく物理的な痛みもあるだろう。この時点で勝負あった。
恐慌錯乱状態でまともな反撃行動に移れないゴブリンと冷静に、しかし着実に溶かしていく俺とでは話にならない。まぁ、たかだかゴブリン一匹程度では俺のステータスも変動しないとは思うが、それでもゴブリンという種族がここに生息するということが分かっただけでも僥倖だろう。ゴブリンと言えばファンタジーに於いては雑魚キャラでありつつ、それでいて無駄に繁殖力が高いという設定が施されるのをよく見かける。つまり、この近辺には数多くのゴブリンが生息している可能性が高いというわけだ。それは全て俺の糧となる。
それは待ち遠しい光景だった。既に意識は取りこんでいるゴブリンなど眼中になく、未だ見ぬ楽園(肉林)へと向けられていた。
だからだろう。
普段の臆病なまでの観察力と注意力を周りへと向けていたならば察知、もしくは回避していたに違いない。だが、それは叶わなかった。
こと、日本の武道に於いては残心という理念が存在する。残心とは心が途切れないという意味であり、意識すること――特に技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態――である。今回の状態に当て嵌めれば、相手を捕食するので留まらず、その状態に於いても注意力を研ぎらせ続ける必要があった。
その心構えは強者でさえ忘れるべき事柄でなく、弱者である俺が忘れてもいいはずがない。しかも、それは初めて狩りを終えた時にも改めて思い直したというのに馬鹿か。
馬鹿だからこそ馬鹿を見る。
「ギィィッ!? ゴパァッ!!」
腹部を貫く一本の角。それは黒に近い魚介類の怪物というべきか。
鋭利に尖った一本角と長さは劣るものの鋭さでは負けていない歯牙。体表を覆う黒いぬめぬめとした鱗はびっしりと隙間なく生やされている。身体の大きさこそ全長百六十センチほどだが、これほどまで凶暴な魚類を俺は見たことがなく、コイツもゴブリンと同様の存在なのだろう。
どうするどうするどうする――
先手は取られ腹部にドギツイ一撃を加えられた。幸い身体の構成要素が人間やそれに類似するものではなくただのゼリーなのでダメージらしいダメージは改めて落ち着いてみるとない。単純な話、突然の出来事に混乱してしまっただけである。だが楽観視できる状況下でもないのには違いなかった。
思考しろ、研ぎ澄ませ。手痛い奇襲を受けたわけだが得られたものもあったはずだ。
例えば残心。いついかなる時も集中を切らさず、常在戦場を己に叩き込むことを学べたはずだ。
例えば防御力。確かにステータス上の能力値は低いものだがこの身体はステータス以上の耐久力を誇っている。事実、意識をステータスウィンドウへと向けてみればHP自体1しか減っていない。
今いる場所は水深凡そ四百メートルほど。ゴブリンを吸収するのにゆったりと時間を掛けすぎたせいか、重力に従い深いところまで来てしまっている。
俺を貫いた魚――仮名フィッシュビーストは貫く為に引き上げた速度を急停止させつつ大きく旋回し、尚もこちらへ照準を向けていた。岸辺へと上がれば俺の安全も確保されるのだが、如何せんフィッシュビーストの猛威を振り切って上がれるほどもう自惚れてもいない。
ある意味この奇襲を受けれてよかったと、聞く人が聞けば変態かと仰天しながら振り向くこと間違いなしの言葉を胸中で呟く。自分の中の驕りを消し去るのにこれほど良い薬は存在しないだろうから。
だからこそ俺は生きて帰る必要がある。この教訓を生かすためには生き延びる。そして更なる高みを目指すために。名誉を挽回するには、汚名を返上するには次の機会を得なくてはならない。弱肉強食の中で次なんてものに期待すること自体が甘えで間違っているのだろう。
それでも俺はこんな場所で終われない――
突撃を敢行するフィッシュビーストを真正面から見据える。速度は音速などとは言わないが、それでも時速八十キロを優に超える。水を切るような鋭さを持って突っ込んでくる姿に脅えがないと言えば嘘になる。それでも一時も見逃すことはないと細部まで見据え、そして身体を分離。
分離は身体の中心からドーナツ状に広がりを見せ、見事フィッシュビーストは人為的に生み出された穴を綺麗に抜けていく。流石のフィッシュビーストもそのような対処法に驚いたのか急停止を掛け、再度迂回を果たす。
さて、問題はここからどう対処していくかだ。一応の回避は出来るとは言うが、それを単調に繰り返せばいつしかフィッシュビーストも経験から学んでしまう。迎撃をしたいところだが、現在の攻撃手段と言えば相手を取り込むくらいしかなく、時速八十キロ超のフィッシュビーストを捕らえられる気もしない。
八方塞の中で一応の回避を見せつつ、端と俺は閃いた。閃くというと大層なものに聞こえるから訂正する。
手持ちで武器になるの三つのスキルだ。その三つを駆使してコイツを仕留める。
突進してくる魚雷に近い存在と衝突する紙一重のタイミングでスキル〈模倣〉を発動。初手として一番体が小さく回避に徹しやすいリスへと身体を変態させ、俺の身体がフィッシュビーストの上部を取ったところで再度変態。今度は先程吸収することに成功したゴブリンの姿に成り替わる。呼吸器官自体は備え付けられているものの、存在の状態としてのベースはスライムのままであり、何が言いたいかというと水中でも鰓呼吸に近い何かがゴブリンの状態でもできるということだ。流石に水圧等の問題で陸地と同様の動きはこの身体では出来ないが、然程大きく動かないので問題ない。
俺はフィッシュビーストにしがみ付く形で一時的な捕獲に成功する。フィッシュビーストも俺を振り落とそうとはするが、ゴブリンのステータス以上に発揮される腕力がそれを許しはない。多分ではあるが、ステータスとはその存在が所有する基礎スペックに上乗せする形で加算されるもので、その存在各々に基礎スペックというものが存在するに違いない。そうでなければスライムの時とゴブリンの時の力の差や、リスや狐の時の敏捷性の差が説明つかない。
引き剥がそうとフィッシュビーストは懸命に体を捻じったり捩ったりするがギリギリのところで俺は堪える。
堪えながら身体の半分――下半身だけを変態させ、スライムの姿へと再起を果たしたゼリーはフィッシュビーストの鰓から下に纏わりつく。じゅるじゅると意思のある軟体物は水を切るその身体にへばり付き、水中で且つ包み込んでいないことは些事と言わんばかりゆっくりとだが鱗が溶け始めていた。
ここからは根気比べ。
俺の握力が上回るかフィッシュビーストの足掻きが上回るかの一騎打ち。一定の割合で相手の体力を奪う俺の粘液は猛威を振るい着実とフィッシュビーストを苦しめるが、俺にもそこまで余裕はなかった。
水の抵抗が激しい中で時速八十キロを超える速度で振り回されるロデオマシンを想像してほしい。それは最早遊園地のアトラクションであるジェットコースターを遥かに上回り、俺にかかる圧力は途方もないものとなる。貫かれるよりも精神的に来るそれは、此方も少しずつではあるがHPが減っていく。
まさしく死闘、これに尽きた。
水際に浮かぶのは俺であり、フィッシュビーストはその姿をどこにも見せない。
これが弱肉強食の世界であり、闘争本能の末にある生への渇望。改めて思知らされた。俺は強者なのではなく、俺の獲物は単なる糧ではない。
俺の糧となった存在達は侮るような些事ではなく、敬意を示すべき戦士であった。ゴブリンという戦士を吸収していなければ俺はフィッシュビーストに殺されていただろうし、フィッシュビーストにしても侮れる矮小で脆弱なものではなかった。
敬意を示そう。これからも続く俺の生の限り。欲望も空腹感も嗜虐心もひっくるめて、俺は糧となる存在達に敬意を示し続けよう。彼らのお蔭で俺は生き続け、そして彼らのお蔭で一段と強くなれるのだから。
ゴブリンの姿になり、フゴフゴと鼻息荒くしながら俺はそんなことをつらつらと考える。
今回は相手を侮るべからずと考えながらも侮った結果このような事態へ陥ったのだ。ならば意識自体を改革するべきだろう。
ガサッと茂みが音を鳴らす。そこには一匹の緑の豚。俺の姿と同種である。
敬意を忘れず、緻密な戦略を練り、そして狩り殺す。
糧となる存在は俺の中で血肉となり俺が死ぬまで永遠に生き続けるだろう。
穿つ抜き手が同種と油断していたゴブリンの脇腹に突き刺さり、右手に握る棍棒を落とした。その棍棒を足で蹴り上げ抜き手を放っていない方で曲劇のようにキャッチし、そのまま全力で脳髄へと振り下ろす。ゴシャ、という音と体表と同じ色の血潮、それに脳漿と眼球が派手に吹き飛び身体はピクピクと痙攣している。その様子に間髪入れず身体の一部をスライムへと戻し、そのまま死にかけのゴブリンを即座に吸収。その顔にあるのは辺りを注意深く観察する臆病心と、力の糧となる相手への敬意だった。