2.獲物と狩り
そこは地下とは思えない光景が広がっていた。
石畳の階段を下り、地下へと潜った俺の目に飛び込んだのは鬱蒼と覆い繁る森林だった。熱帯雨林のような多様な品種が群生しているのだと一目で解る。広葉樹から針葉樹まで、本来ならば気候によっては生存していられないはずのそれらも関係ないとばかり己の枝葉を雄大に伸ばしていた。
木々にはこれまた多様な果実や木の実が実っているのも少なくなく、また土壌にはよくわからない茸や人の足を絡め捕るような草。何より燦々と照らす太陽までも存在する。
本当にここは地下なのかと錯覚してしまうような光景がここにはある。だが、事実として俺は階段を下ったわけで。ならばここは地下に違いはない。
俺はずるずると身体を動かしながら辺りを興味深げに見渡しつつも警戒は怠らない。
どう考えてもここはダンジョンといって差し支えなく、見たこともない怪物が出現しても可笑しくはない。また、怪物でなくとも元来から生息する動物だって俺にとっては脅威の対象兼食料である。野兎などの小型動物なら脅威足りえないが、猿人類辺りならば油断すると一瞬でこのゼリーの身体は貫かれるだろう。
しかし、このような森林が狩りの舞台となったのは俺にとっても僥倖だ。確かに奇襲を受ける確率が増えることは増えるが、俺は上下左右三百六十度見渡すことが出来るので存外奇襲は受けにくいに違いない。反して俺は木々の上から落下しつつの強襲を仕掛けることが可能だ。先手を取って相手を襲い、且つこのゼリーの身体で相手を覆い隠せば膂力が低い相手だと抜け出せないはず。
何にせよ、一先ずは生ある存在を見つけ出すことから始めよう。
俺がこの世界へ転生を果たしたと自覚してから幾ほどの時間が経過したかいまいち把握し辛いが、それでも空腹感が脳で駆け巡っているのだ。そろそろ何かしら存在を吸収したいという欲望が俺の中で渦巻く。
あぁ食べたい喰いたい食べたい喰いたい食べたい喰いたい。いかん、落ち着け俺。焦って事を仕損じればゲームオーバーなんだ。
呼吸器官があるとは思えないが気持ちだけでも大きく深呼吸。ぶよぶよとした身体が膨らみ、そして縮む。この身体だと欲望に忠実すぎる故か、少しでも興奮すると危ないな。
のそのそと、音を出来るだけ出さないように這って進んでいく。今度は慎重に、焦らず焦らず。
そうして地道に歩を刻んでいると開けた湖が姿を現した。楕円形に広がりを見せる湖の水は大人を溺れさせるには容易い深さというのに、水面から光が届かく闇へと至るまでくっきりと見通せるほど綺麗に澄んでいる。
次いで即座に辺りを確認。周りは先程の森林地帯と変わりなく、どうやらここにも生物らしき存在は見受けられない。落胆半分、されど水というファクターを見つけられたのは大きい。どのような存在も水という要素は生きていく上では欠かすことの出来ない重要なもので、ここを拠点に張り込めばいつしか当たりを引くというもの。
また、俺にとっても水は有難い存在である。身体自体が水分に近い構成のスライムではあるが、それでも水分補給をせずに生きていけるとは分からない。流石に水に入ると解けるとは思わないが、それでも試してみなけば分からないこともまだまだ多い。
ということで、物は試しとばかり俺はそろそろと触手をぼとんと湖の中に落としてみる。ゆらゆらと沈んでいく青色のゼリーは形を残しながらも水底へと沈んでいく。溶けてはないことから一応この身体で水中に潜っても即死する心配はない。次は沈んだ触手を元の場所に戻るように念じてみるが、階段を降りる前とは違い戻ってくる気配はなかった。これは水中では戻る力が地面の時よりも多く必要で戻れなかったのか、はたまた水の中では何らかの異常が発生するのか。
今度は自分自身を湖の中へ浸してみることにしよう。湖の淵に掴まって、まるで子供が初めて入るプールに脅えるかのようなびくびくとした心境でゆっくりと浸かっていく。底面部分が水に触れると冷たい感触が体を駆け巡り、温度などの環境状態を認識することを確認。身体自体はそれ以外の異常は見受けられず、今度は浮けるかどうかを確認してみる。案外と浮力があるのか苦も無く水に漂うことに成功し、一時のバカンスを楽しんでみた。そこまで問題なく進んだのなら、最後に全身が見えなくなるまで潜ってみた。水中は視界が良好で、底には時間が生み出したゴロゴロとした岩石と幾ばくかの藻。ちょろちょろと見たこともない魚が縦横無尽に泳ぎ回り、今まで見たこともなかった自然の神秘を目の当たりにして俺は放心していた。ゴポ、自分がどうやって生み出したのかよく分からない泡が視線を遮ってようやく我に帰る。
危ないところだった……。もしもさっきの瞬間を狙われでもしたならば、俺はその時点で積みだっただろう。それほどまでに先程の自分は隙だらけだった。
そして端と気付く。どうやらこの身体は水陸両用だったらしい。潜って意識を軽く飛ばしていても苦しさを感じず、陸地と同じように活動できる。逆にのろのろと動く陸地よりも流れに乗れる水中の方が俊敏に動けるくらいだ。この実験により、水に擬態して水面から水を飲みに来た獲物を捕食するという作戦も実行可能となった。
最後に獲物を襲う練習として、水中で身体を薄く広げるように伸ばして水を包む。そしてそのまま包んだ水を自身の身体に吸収するイメージで吸い上げてみる。それはまるで不思議な感触だった。本来なら口から食道、そして胃へと通過する過程が一切合財省略され、直接胃へと叩き込まれ即座に分解、吸収するという奇妙な感覚。人間では到底味わうことが出来ない幸福感と征服欲が満たされる。
あぁ、これが"喰らう"ということか。
食べるのではなく相手の存在という情報を磨り潰し取り込む。そこには相手が存在したという現実さえも貪られ、ただ残るのは一匹の怪物のみ。
ずるずるぐちゃぐちゃねばねばと、獲物を求めた一匹の怪物が本当の意味で動きを見せる。受動的なものから能動的なものへ。
これより卑怯で残酷で臆病な狩りが開始された。
✝
記念すべき第一の哀れな犠牲者となったのは小さな野狐だった。
日本でも至極一般的に見かける種で特別変わった点はなく、茶色の毛並と小さなペタンとしてる耳が愛らしい。水辺で遊泳を楽しんでから数刻も経たないうちにそれは見つかる。木陰で木々から落ちてきた水分をたっぷりと含んだ果実を美味しそうに頬張っているのを俺はゆっくりと見ながら慎重に木々へと登り、そのまま落下して押し潰す。質量こそないこの身体では圧死という結果にはならないが、突然の事態に子狐はもがき苦しみながら必死に外界の空気を求めるが俺はそれを許さない。最初の獲物ということで嗜虐心が脳裏を駆け巡り、苦しめるだけ苦しめてから喰おうと思ったが却下。空腹感があったし、何よりそのような余裕を持つには早すぎる。そういったものは強者にしか許されず、未だ弱者の立場である俺は早々に食事を切り上げ他の獲物を探す方が先決だろう。
ぐちゅぐちゅと身体を滴らせ、肉が溶け骨が溶けるのをぼぉっと見届ける。吸収される栄養分は幸福感を呼び起こし、えへらえへらと涎が零れそうになるのを耐え忍ぶ。これが捕食者の在り方か。
今まで居たはずの存在は綺麗さっぱりと姿を消し、そして青の怪物はその姿を小さな小さな狐へと変えた。今までは縦百十センチ、横七十センチほどの体積だったのがスキルにより子狐の大きさまで圧縮されている。変態の時間は刹那で完了するため、これにより攻撃を回避したり奇襲を仕掛けることも可能だ。
子狐の身体はゼリーで構築されているわけでなく、きちんとした筋組織と臓器、体表を覆う皮膚と寒暖の調整の役割を持つ毛皮等々。眼球があるものの視界はスライム時と変わらないが、呼吸器官があるため新鮮な空気が取り込めるし、発声器官を有しているため鳴き声もどきを発することも出来る。まぁ言語は全くもって話せはしないが。これにより、鈍足な移動が俊敏なものへと変化してより効率的に獲物を探し回れるほか、スライムの時は発揮しなかった嗅覚の上手く活用できるようになった。
ステータス自体は子狐では全く高くなかったのか変化はない。どの程度の値が累積してるかまではウィンドウを見ても解らず仕舞いだった。
そうそう、やっと気づいたことだが目の前に浮遊するウィンドウは俺の意志一つで消したり呼び出したりできるようだ。必要な時だけ確認し、不必要な場面では消しておくことで煩わしさは皆無となり、視界を上手く確保できる。また、ウィンドウの種類に関して、根幹画面としてステータスウィンドウ、二番目に発見したスキルウィンドウの他にアイテムウィンドウも発見した。アイテムウィンドウは現在自身が所有しているアイテムが表示され、またそのアイテムについて詳しく解説されていた。生憎これ以外は見つけられなかったが、追々見つかるかもしれない。
そうこうしている内に、お次は可愛らしく木の実を口一杯に頬張っているリスの集団がお見えになった。数は十一匹で皆仲良く分け合って食べている姿が何とも微笑ましい。
そんな輪の中に外見狐中身怪物俺も参戦。カリカリと木の実を頬張る仕草と同時に元の姿へと変態しつつ、辺りを覆うように体を伸ばす。一網打尽に捉えられるリスの集団を無慈悲に餌とし、俺がぐちゅぐちゅと身体の中でリスを転がして溶かし尽くした。
今は己を強化するためには数を吸収する他ない。やっとステータスはHPが1上昇しただけで他のステータスに変動はなく、もしも今みたいな小動物以外に強力な存在が出現されればなすすべなく殺されてしまう。欲を言えばそこまで強くないがそれなりにステータスを持つ存在を捕食したいのだが、ここではそういった相手を未だ見かけない。もしも居ないのならば狩場を変える必要があるが、それも少し拙速か。
どうもこの場所は地下であって地下でなく、頭上で照らす太陽は傾きを色を変えていることからはっきりとした惑星であることが伺える。今は陽が地平線へと接する少し手前で色合いも黄色が強くなったころで、そろそろすれば闇の世界が広がるだろう。生態系において昼夜の違いは色濃く、もしかすると夜が訪れれば俺が望む存在が姿を見せるかもしれない。
それを考えると、やはり今のところの行動基準とすると先程の湖を拠点として二、三日は様子見をすべきだろう。それでも成果が上がらないのなら拠点を移すべく行動しよう。
のそのそとした俺はもうおらず、今では子狐となって森を駆け巡る。
機動力を上げればそれだけ発見する確率も拍車がかかり、果物を取ろうとしたり寝床を探して辺りを散策する野生動物を仕留めては糧としていく。
生態系が崩れるとまではいかないだろうが、このルーティンを一ヶ月もすればおかしくなるだろうし半年もすれば破綻して崩れることには違いない。生態系自体崩れることに俺にとっては問題ないが、崩れたことによって獲物が居なくなるのは不都合。それを考慮すると、やはりそれなりの大物を捕食すべきだろうか。
そうそう、色々と捕食していると気付いたんだが、いつのまにか俺ってスライムの状態であっても鳴き声というか唸り声というか、何にせよ音を発することが出来るようになっていた。身体の構成上変わっていないはずなのだが、狐や兎を吸収したことによってどうしてか発せるようになっていた。まぁ問題はないと言えばないのだが……
ぐるぐると青の塊が発する声は不気味な事この上ない。今はまだ言葉らしきものは発することは出来ないが、これは何かしらを話せる獲物を吸収すれば話せるようになるに違いない。というよりもそうであってほしいと願う。そうでなくては他社とコミュニケーションが取れないではないか。これでも今でこそ孤高の一匹狼だが、将来的には誰かと語り合ってみたいじゃないか。
そんな悩みも、問題は本当にコミュニケーションが取れる相手はこの世界に存在しているのだろうか。怪物しか存在せず、且つ知能を有しない低能な輩しか居なければ俺の望みも果たせそうにはない。人間が居ればいいのだが。そうした場合、俺は元同族喰らいを躊躇なく行うのだろうなと冷めた頭で考えていた。