1.最弱のスライム
最初に認識したのは人工的に辺りを照らす薄暗い光だった。
立っているのか倒れているのかよくわからない感覚。地に足を付けている感覚こそあるものの、それは胴体が付いてることの感覚とも類似していた。
急激な明暗の変化により未だ辺りの風景を脳が認識していなかったが、ようやく少しずつではあるが視界に入ってくるものがある。
そこは紛う事なき遺跡だった。人の胴体よりも数倍もの太さを誇る柱が二列で八本ずつ、計十六本が雄大に鎮座し、その奥には祭壇のようなものが備え付けられている。祭壇は豪華な装飾こそ施されてはいないものの、大理石から削り出したのか継ぎ目一つない一つの完成系でありつつ、見たこともない文字に近い何かが刻まれている。それはまるでお伽噺に出てくるようなルーン文字のようだ。
そこでふと思う。こうして辺りを見回している自分という存在はなんなのか。そもそも、ここはどのなのだろう。まるで夢遊病のように寝る前に記憶がない。ふらふらと遺跡を歩き回り、視界の隅に移る物体に目が行った。
それはホログラムウィンドウに近い、強いて挙げるならばRPGなどで度々お目にかかるステータスウィンドウと言えばいいだろうか。それにはある存在のステータスが表示されている。
種族名:スライム
存在名:登録なし
HP:10
MP:5
力:1
体力:1
素早さ:1
魔力:1
運:1
スキル:吸収、模倣、溶解
成程、スライムのステータスらしい。しかし、自分の視界にはそれらしい存在――というよりも怪物の姿は見受けられなかった。ならばこのステータスはなんなのだろうか。ただ単に表示されているものなのか、それとも何か意味があるのか――
そこまでつらつらと思考の海へと潜っていたが、ふと疑問に思う。このようなホログラムウィンドウを生れてこの方目にしたことがあっただろうか。そのような次世代技術は未だ日本では生まれていなかったはずだ。そもそもスライムなどという怪物はゲームにしか登場しない、云わば架空の存在。ならばこれはなんだ。
冷や汗が垂れる。思いつきたくもない考えが脳裏によぎり、ちらりと自分の身体に目をやった。
人間という生き物の視野角は一般的に左右合わせて二百度程と言われ、決して自身の後方にまで視野が及ぶことは決してありえない。
今の今まで特に気にしていなかったが、現在の自分の視野角は前後左右どころか上下三百六十度、三次元的空間把握にまで及んでいる。この時点で人間という枠組みから大層逸脱した状態なのだが、まだ希望はあった。
しかしそんな希望は粉々にぶち壊される。少し視線をずらせばまるで融解したゼリー状の薄い青色の物質が見受けられ、それがずりずりと自分の意思と連動して形を変えながら地を這うように地面を移動する。ゼリー状の物質が通り過ぎた地面はまるで弱酸が掛けられたようにしゅうしゅうと音を立て煙を上げていた。
ここまでくれば目の前にチラつくステータスの意味も嫌でも理解できる。これは自分のステータスなのだろう。
成程、俺はスライムにいつの間にか進化を果たしていたらしい。そんな戯言を胸中で呟き、今更ながら発声器官がない故に口から言葉が出ないことを改めて思い知る。ここまで違和感を覚えるのに時間がかかったのは、精神が体に引っ張られ、自分という存在はスライムであると知らず知らずの間に刷り込まれていたからだろう。
この時点で自分はスライムでありながら、生前というべきか表現すべき言葉は思いつかないものの人間であったころの記憶がないことに気付く。
その問題を考えた場合、問題点となる事柄は二つある。一つ目は単純に自分は本当に人間であったかということだ。知識こそ日本という国やそれに連ねる歴史や雑学などは思い出すことが出来るが、自分であったことに関する記憶がごっそり抜けている。
二つ目はならばここはどこなのかということである。見るからに日本でもなく、また自分がスライムという化け物の姿をしていることから現代ではないのだろう。ならばどこなのか。それを解明する手掛かりらしきものはこの遺跡となるだろうが、一応区分するというのならば転生とでもいうところだろう。そこまで詳しくないものの、輪廻転生という考え方には覚えがあるし、物語にはこうした現状と類似する始まり方をするものも少なからず存在した。
つまるところ、自分は物語やゲームの世界へスライムの身体で転生を果たしたと考えるのが妥当だろう。
そもそも、どうして俺はここまで落ち着いて現状把握に努めていられるのだろうか。一般的な人間ならば発狂していてもおかしくな状況には違いない。なんせ、自分はいつのまにか人間ではなくなり、あまつさえ固形物ですらないスライムへと変貌を遂げていたのだから。
まぁ発狂したところで事態が好転するわけでもないことは理解できる。さりとて、ここまで来ると寒気がするほど自分という存在が異質なものと感じてしまう。
極論、スライムになったからこそ人間の時の倫理観などが欠如してしまい、この状態を既にありふれた状況と認識してしまっているのかも知れない。俺自身、慌てることなく現状把握を努められ助かってはいるし、もうこの状態を納得するしかないか。
納得したところで俺は宙に浮かぶウィンドウにもう一度目をやる。
こうしたウィンドウはいくつか枝葉が分かれるようにサブウィンドウなるものが存在するのがゲームなどの常識だ。ならばこの現状でもそれが当てはまるかも知れなく、こうした膠着状態を打破するには何事もチャレンジすることが大事だと思う。
というわけで、まずそのウィンドウに触れようとした――ところで一時停止。スライムって手がないじゃん。そんな当たり前のことを今更ながら気付く。
しかしそこはチャレンジ精神旺盛に、人間時代当たり前のように意識せずにしようしていた筋肉を使うように、全神経を用いて手を伸ばすイメージ鮮明に思い浮かべる。身体自体は動くことを確認している。身体を動かす筋肉などはこのゼリー状の何かにあるとは思えないがそこは物語補正。何かしら、人間にはない組織かそれとも魔法に近い何かが動かしているのだと思い込む。
するとどうだろう。手と言うと憚れるが、ぐにゃぐにゃとした棒状のゼリーが虚空へと伸びていくではないか。しかし、それはウィンドウを突き抜けてそのまま地面へと落下する。じゅうじゅうと音を立て、自立行動するかの如く俺の身体へと集まってきた。
成程。自身の本体――もしかすると核があるのかもしれない――から分離した分体は、自動で本体へと帰ってくるらしい。ということでもう一度。次はその状態で放置するように意識して切り離してみる。すると、今度は自動的に戻ってくることはなく、その場所にまるで酸のトラップを設置したかのような状態になった。また、帰って来いと意識して命じるとまた自動的に戻ってくる模様。少しずつではあるが、このスライムの身体に関して理解が進む。
よしよしと、もしも表情が表に出るなら今の俺は口角が吊り上っていたに違いない。生憎とゼリー状の物体ではどこが顔でどこからが胴体か判断が付かないのが残念である。
閑話さておき、先程の現象から宙へ浮かぶウィンドウは物質的なものではなく精神的――つまるところ、俺の視界にしか認識できない架空の存在であると当たりを付けられる。ならば、仮にこのウィンドウを操作する方法があるとするなら、それは俺の意志の他にないだろう。
そうした期待を胸に抱き、俺は意識をウィンドウに集中する。すると、突如テレビの砂嵐のような乱れる画面とノイズが頭の中に響き渡る。失敗したか、と落胆するが一転。ウィンドウは上手いこと切り替わっており、先程までは自身のノーマルのステータスが表示されていたが、今は違った項目が表示されていた。
〈吸収〉
自身の身体の中に取り込み、且つ一部でも取り込むことに成功したならば、取り込んだ対象物の姿形をスキル〈模倣〉により再現可能。
対象物の全て取り込むことに成功したならば、対象物の基礎ステータスの1/100と対象物が所有しているスキルを強奪することが可能。
取り込む対象が有機物であり生存していれば上記の能力を強奪できるが、死亡した状態または骨や皮の状態であると基礎ステータスの1/1000と姿形を強奪することができ、この場合スキルは強奪対象にはなりえない。
無機物の場合はその無機物が有しているスキルを強奪することが可能。
基礎ステータスに関しては上限はなく、加算されるステータスの値は1からである。ステータスの強奪に関して上昇値が1未満の場合の端数は累積し、1を超えるとステータスに加算される。
デメリットスキルも強奪対象となりえるが、そのスキルを発動するかは采配次第である。
〈模倣〉
スキル〈吸収〉により取り込んだ対象物の姿形を寸分違わず再現することが可能。
また、対象物を全て取り込むことに成功した場合には対象物の経験など全ての点を再現することが可能。
〈溶解〉
スライム種などが一般的に所有しているスキルの一種であり、自身の身体の成分を一時的に酸性へと変化させて対象物を溶解する。
基本的に接着面が多いほど効果は高まるので、スライムなどは自身の身体で相手を覆うようにし、そこからこのスキルを発動させて対象物を捕食する。
どうやらこの画面は俺が所有しているスキルの一覧、そしてそのスキルの効果が記されているらしい。
しかし疑問が浮かぶ。このスキル画面を見るからに、一般的なスライムが持つスキルは最後に記された〈融解〉のみで、前二つの〈吸収〉と〈模倣〉は特殊的なものに位置づけられる。見た限り、この二つのスキルは素人目からしても強力無比である。確かに俺自身のステータスは最弱と言って過言ではないが、この二つのスキルを駆使すれば時間こそかかるが最強という王座に手をかけるのも夢ではないだろう。
最弱の怪物と嘆いていたが、本当は完全な怪物であったという事実に心躍る。
目指すは最強、敵無しの無双を目標としよう。こんなスライムが存在する世界だ、ドラゴンが存在したって不思議じゃない。最強なのはドラゴンでも百獣の王でもなく、この俺だ。
しかしそれに到達するのは並みの努力じゃ不可能だろう。ステータスは見る限り貧弱であり、武器になるのはスキルのみであるからこそ、不意打ち上等やハイエナの如く死体を貪るのが日課となりそうである。
ぶよぶよとした青黒いゼリーが遺跡の床を這いずり回る。
まずは何かの死体を吸収して移動速度を上げることから始めるのが先決か。この赤ちゃんのハイハイと同じような速度では、獲物に逃げられるどころか此方が狩られてしまうのがオチだ。もしもこれがゲームの世界ならば復活もあり得るかもしれないが、そんな可能性はつゆほども存在しないと覚悟する必要がある。
ここはゲームや物語の世界に近いかもしれないが疑いようもない現実。死ねばそれで終わりの世界。臆病でなくては生きてはいけない、そんな世界で俺は生きることを強制されているのだ。
ずりずりとゼリーの身体は俺の指示に従って祭壇の奥へと歩みを進める。
そこは階段状に繋がる地下への入り口がしっかりとした造りで開けており、これ以外に進める道は生憎と存在しなかった。俺の背にある大きな石扉はこの姿では開くことは不可能だろう。
ならば残された道を突き進み、そして一歩ずつ着実に己を強化する他ない。
この先がどんな世界が広がっているのかは全く想像がつかないが、それでも進むしかない。外に出るにしてもここを通る以外の道は見当たらないのだから。
するずると、一段一段落ちるように石畳の階段を下りていく。
壁にはどういう原理か解らないが光が仄かに灯っている。ヒカリゴケのようなものではなく、純然たる光というべきものが等間隔に並べられており暗さは和らいでいる。ランタンや蝋燭といった火の要素がある訳でもなく、事実その光に触手を伸ばしても熱くはない。
階段が終わると次は平たんな石畳が続く。まるで魔法のような不可思議な光が俺を導くかのように道を照らし、この身体は思った以上に暗闇でも視界が良好で、これだけ光があるならば一本道では奇襲を受けることもないだろう。一応の警戒を怠るつもりはさらさらないが、一定のペースで狭い空間を踏破していく。
じゅるじゅると青の怪物は歩みを進める。獲物を求め、力の糧を探すように一歩一歩。既に俺の中の人間性は崩壊している。ここに存在するのは人間の残滓が残る一匹の怪物だ。
獲物を見つければそれはただの食糧に過ぎなく、可哀そうなどという戯言は風化し、血の気を引くような残酷な風景すら待ち遠しく感じてしまう。
青の怪物は愉悦を感じ、己の欲望のまま突き進む。
それこそが定められた宿命のように。