序章 地面の下からこんにちは! ~Contact from the underground.
この小説はフィクションです。
その日、堀立慧吾の日常は足元から崩された。
いつも通りの朝のはずだった。
午前七時半。慧吾はこの日も学校へ向かって歩いていた。何の変哲もない見慣れた住宅街の景色が両脇を流れていく。遠くにそびえる新緑が濃くなりだした山々や、一本隣の大通りに植えられたケヤキも、高校に入ってから一年以上この道を行き来してきた慧吾には見慣れたものだ。
大通りから車の音が途切れることなく聞こえてくる。通勤時間帯の喧騒はしかし、慧吾の今いる通りにはない。車だけではない。自転車はおろか、歩く人さえほとんど見受けられない。自分だけ異次元に放逐されたかと思うほどに辺りは静まり返っている。普段からこの道を利用している慧吾も、この人気の無さに疑問を感じていないわけではない。とはいえ、家も通り沿いにある慧吾にとって、それは些細な問題でしかない。この道は家から学校までの最短ルートだし、車二台がようやく通れるぐらいの幅しかない通りの真ん中を気兼ねすることなく闊歩できるのは人気がないからこそだ。
足元から低い唸りが聞こえてきたのは、学校まであと半分の地点を過ぎたあたりのことだった。
「……ん?」
快調に歩いていた慧吾は足を止める。耳を澄ませてようやく聞き取れるほどのかすかな地鳴り。といってもこれは慧吾の感覚であり、普通の人は聞き取ることさえできなかっただろう。中肉中背で今一つ特徴のない慧吾だが、耳の良さは自他ともに認めるところだ。
真っ先に慧吾が疑ったのは工事だった。見える範囲で工事をしていれば耳を澄まさなくとも聞こえる。地下深いところで工事をしているのか、それとも遠くで工事をしているのか……
しかし、しばらく耳を澄ませていた慧吾は、どちらも違うことに気付く。かすかだった響きが、次第に大きくなってきたのだ。それも加速度的に。地下工事の進みが遅いのは有名な話で、最新鋭の機械をもってしても一日で五十センチといったところ。急激に響きが大きくなるはずがない。ましてや地上工事は論外である。
そして、もう一つ、慧吾はある事実に気付いた――否、気付いてしまった。
(……もしかして、俺に向かってきてたりする……?)
耳に全神経を集中させていた慧吾は、地面全体を震わす響きに惑わされることなく、すでに音源を把握できていた。そしてそれゆえに、音源が慧吾に向かってきていることに気付いてしまった。
(速い……!)
地下奥深くにあったはずの音源は自動車並みのハイスピードで慧吾へと迫る。そんな速度で地下を移動する物体があるのか、といった疑問はもはや湧かない。事実として、自動車並みの速度で音が迫ってきているのだから。地下をとんでもない速度で移動する物体が、確かにそこにいるのだ。そして、加速度的に響きが大きくなっているのは、慧吾に向かってきているからだろう。そんな物体をくらえば、一高校生に過ぎない慧吾の身はひとたまりもない。
慧吾は本能的にその場を離れようとした。
が、次の瞬間。慧吾の足下にあったアスファルトが何の前触れもなく沈んだ。
「のわっ……!?」
もとよりダッシュでその場を離れようとしていた慧吾だったが、地面の消滅は想定外だった。蹴るべき大地を失ったことで身体のバランスを崩してしまう。
『……昨夜八時頃、四方里市風松の一般道で地面が陥没しました……先月から四方里市内では地面に穴が空く事故が多発しており、現在、市は陥没した箇所の修復を急ぐとともに特別対策委員会の設置を……』
慧吾の脳内に、今朝出かけざまに聞いたニュースの声が甦る。徐々に聞こえてくる地鳴り、突然の地面の陥没、すり鉢のような形をした直径二メートルほどの穴――その全てが、ニュースが報じていた住民の証言に一致していた。
「あのニュースはこのことだったのかよ……!」
耳は強くても他の身体能力は平均レベルの慧吾に、地面が陥没していく様子を眺めている余裕はない。じわじわと路面に空いた穴が大きくなる中、慧吾は穴から逃れるのに必死だった。大地が浅く円錐状に窪んでいく様相は蟻地獄を思わせる。なにもこんなところで哀れな蟻にはなりたくない。
しかし、その願いは足元から止められた。突如として足が重くなり、慧吾は前につんのめりかける。
「なっ…………なっ!?」
後ろを振り向いた慧吾は、さらに仰天する羽目になる。地面から生えてきた手の形をした何かが慧吾の足をつかんでいたのだ。人間の手より一回り大きい。手の甲と思わしき部分はつやのない黒。そこから伸びる、手のひらに比べてアンバランスなほど短く細い五本の指。見かけがなまじ人間の手に似ているだけに、慧吾は気味悪さを覚えた。
――ナンダ、コレハ。
慧吾の脳はパニックに陥っていた。What,Why,Howの三つが慧吾の意識の中をめまぐるしく駆け巡る。合成獣以外でこんな手をもつ動物がいただろうか。
ふと『地底人』という単語が頭をよぎった。地球の中心に空いた空洞に住むといわれる想像上の生き物だ。もっとも、今の時代に地球の中心に空洞があるだなんて信じている人は少数だ。慧吾も話としては知っているが本気で信じているわけではいない。
だが、一度脳裏をよぎったイメージは頭から離れていかない。半ば錯乱状態にある慧吾の目には、地面から生えた手が地底人のそれにしか見えなくなっていた。地面から覗いているのは手だけだが、まだ地中に埋まっている部分にさえ地底人のイメージが膨らんでいく。土竜を人間サイズに引き延ばしたような人型の異形――これは慧吾の『地底人』の勝手なイメージなのだが――の像が、えぐれたアスファルトの先に浮かび上がる。
一説によれば、地底人の中には人間を襲うものもいるという。ただの噂話と切り捨てる余裕は今の慧吾にはない。パニックと恐怖とで、身体が見えない糸で地面に縫い付けられてしまっている。
追い打ちをかけるがごとく、例の手が慧吾の足を引っ張った。
「くぉ……!」
足が引き千切れてしまいそうなほどの凄まじい怪力に、慧吾は苦悶の声をあげた。
だから、足元に一段大きな亀裂が生じ始めた時には、慧吾は覚悟を決めて――
「ふぅ……やっと出てこれたぁ……」
『地底人』が姿を現した瞬間、慧吾の覚悟は砂となって崩れていった。
穴から現れた『地底人』は人間の形をしていた。もっと言えば少女の形をしていた。落ち着いたソプラノが慧吾の耳を打つ。見たところ中学生ぐらいだろうか。ショートカットの乱れた黒髪を、少女が手の甲で拭う。円らな大きな瞳は小動物を思わせる。手は慧吾が慄いた「『地底人』の手」のままであったが、そこから伸びる肌色の腕はまぎれもなく人間のものだ。あの怪力を生み出していたとは信じがたいほどに細い。土まみれになった黒いTシャツに包まれた小柄な体躯は、慎ましやかではあるが少女であることを主張する。突飛なことをやってのけたとはいえ、異形と呼ぶにはあまりにも少女然としていた。
慧吾はなお動けずにいた。今の慧吾は目の前で起こった出来事についていけていない。かろうじて慧吾ができたのは、目の前の少女の一挙手一投足を眺めることだけだった。
「えっと、ここは…………あ」
少女は辺りを見回す。視線は上へ。そして慧吾と目があった。
「…………」
「…………」
足をつかんだ者と足をつかまれた者が互いを無言で見据える。
その状態のまま数秒が経ち、このまま睨み合いが続くかと思われた矢先、少女がつぐんでいた口を開いた。
「……ご」
「…………ご?」
「ごめんなさい――――――――――――――――――――――――――っ!!」
少女の口から出てきたのは、悲鳴にも似た叫び声だった。
そこからは一瞬だった。慧吾の足からつかまれた感触が消えたかと思うと、少女がいた位置から土が噴き上がった。一メートル近く噴き上がった噴水ならぬ噴『土』は地鳴りとともに勢いを失っていく。土が噴き出さなくなる頃には、少女は姿を消していた。代わりに、少女がいた位置、円錐状に窪んだちょうど真ん中に、人一人がようやく通れるほどの穴が口を開けていた。穴からは轟音がかすかに漏れ出ている。あの少女がなにかしらの手段で地下奥深くを進んでいるのだろう。
少女がいなくなったことで、閑静な住宅街は元の姿を取り戻した。静まった路上に残されたのは、地面に大きく穿たれた穴と、ズボンを土で汚された慧吾だけ。
「……なんだったんだ……?」
疾風怒濤の勢いで異常事態が起こっていたために平静を失っていた慧吾だったが、異常事態が収まった今ではある程度の落ち着きを取り戻していた。
しばらくその場で考え込んで慧吾は気づく――考えても無駄だ、と。
「………………とりあえず、学校に行くか」
このままでは大穴をあけた、ひいては四方里市内に穴を空けまくっていた犯人にされかねない。そう考えた慧吾はズボンを手で軽く払うと、何事もなかったかのように通学路に戻る。
突如として空いた大穴に近隣の住民が気付いたのは、慧吾が立ち去ってしばらくしてからだった。
慧吾はまだ知らなかった。
自身が踏みしめている日常が、この時点ですでに崩れ去っていたことを。
そして、四方里を揺るがす大事件に既に巻き込まれてしまっていることを――
墓穴少女が穴を掘る!
~A digging moll with the clod of troubles.
◆単語解説
moll…そのうち嫌というほどわかるはずです。
clod…土塊(どかい・つちくれ)、または塊。