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不安の憧憬

作者: エレア派
掲載日:2026/10/19

夏の日のことであった。私は九州の北部の方に居座り、長いことじっとしていた。詩人たるには何か信仰が欲しかった。その日は自然に触れようと田舎の方にまで足を運んでいた。今はまだ、夜明けである。

 船が通り、港は生き生きとしている。近くには店が並び、どこもかしこも生きている様に見えた。こういう観念をドイツ人達は疎外と呼び自己の本質であると語る。だとすると、私は嬉しい。この生き生きとした感じが私の本質だとしたら、私はきっと生きていられる。風が吹くたびに揺れ動く船達は音を立てながら波の音と一体化する。本当の自然ではないのである。ロビンソンクルーソーは船の音は聞いていなかった。彼は波の音だけを、ひっそり、涅槃を眺める様に聞くだけであった。ここにはしかし涅槃はない。ここは此岸である。しかしこの此岸から、私はどうしても離れられないでいる。それなのに、どうして私はこんなにも生を嫌うのだろうか。

 漁師が通る。私はベンチに座っている。猫が通る。魚に釣られてか?女が通る。漁師の妻だろうか?妙に所帯染みていた。漁師達はタバコを吹かす。私自身タバコが好きではないが、人が吸っているのは妙に好きだ。ファブフォーがマリファナやLSDを使っているのが、私には全然普通である様に、彼らがタバコを吹かすのは、私自身が吸うよりもむしろ愉しさの観がある。

 夜明けの陽が白光線の観を取り戻し、早朝特有の冷ややかさと朗らかさを一層感じる様になってきた。私はベンチから立ち上がる。波の飛沫がかかり、魚臭さを感じながら、海岸沿いをしばし歩いた。商業施設が立ち並ぶ。しかし今は動いておらず、どこか不気味な感じがある。コンクリ仕立ての空虚な感覚と、自販機の無人の稼働音が、都市としてのあり方の表象を形作る。結局は、農村にでも行かない限り、本当の田舎ではないのであろう。田舎と都市の違いを埋める。どうせなら、都市ではなく田舎に合わせてくれたらいいのに。

 暗い商店街、歩いていると店の準備をしている店もちらほら。パン屋に男と女がいる。きっと夫婦だ。女は子供を抱いている。

 「…でも、きっとうまくいくわ。」

 私はこの言葉が妙に耳に残った。傍目に女を見てみると、女は涙を浮かべていた。

 田舎。確かにそうだ。自然。確かに。そうだ。しかし私はその田舎と自然に都市の表象を感じる。赤ん坊の泣き声や、住宅から聞こえるテレビの音やらが、私にどこまでも都市を感じさせるのだ。田舎に何を求めるのだろうか。田舎には私は生と信仰を求めてやってきた。詩人たるべき生と、生のための信仰を。けれどどこまでもあとを引くこの都市の感覚が私に不快感をもたらす。胃薬を呑み干して、軽くいっぱい酒を飲んだ。酒は嫌いだが、気分が良くなって仕方ない。これに頼らなくてもいいと思っていた。田舎には、そんな眼差しを抱いていたのだ。

 女の涙が、どうも効いたらしい。私は安静を取り戻したかった。けれどどこを歩き回っても、排気音とエンジン音がして仕方ない。蝉の音と信号の音が汚らしくてたまらない。私はもう少し静かな場所が欲しかった。人間の音がする。匂いと、それと眼差しが。もっと自然の多い場所に行けばよかったのだろうか。けれどどこも観光地としての観が強く、どこまで行っても人間の香りがする。人間。私は人間避けているのか。いや、しかし、私は確かにあの早朝の、自然と人間の融和、あるいは私の本質達に感動した。あの感覚は何だ。

 私は朝食を食べに宿へ帰った。宿の飯はなかなか美味い。部屋の中で水平線の境を見ながらぼんやりと喰らい尽くした。風呂に入り、中々の思いをひたひた感じる。ここで詩でも作ろうか。しかし自信がない。感覚に任せられるほど、私は芸術の才がなかった。

 どこまで経ったか。昼間はずっと部屋に篭っていた。たまに法華経を唱えながら、時が経つのを待っていた。これはこれで楽しい。しかし、すぐに飽きてしまうのだろうか。それが恐ろしくてたまらない。不安の感覚がやってきた。だめだだめだ。私は胃薬を飲んで心を落ち着かせる。酒はやめておこう。朝はあれのせいで少し気がおかしくなってしまった。

 夕方の、また白色光の観がなくなり、あのねちっこい蜜柑色の光が展開されてゆくその頃合いに。私は荷支度をした。本来もう少し泊まる予定であったが、この場所にも不安の感覚が強まってきて、私は胃痛が辛くなってきた。私は次の場所を探す前に宿を後にした。何処か別の場所にとにかく行ってみたかった。当てもなく、とりあえず駅を探していた。

 ふと聞き覚えのある声がした。女の声である。

 「行くあてはありません。でも、きっとうまくいくから。」

 偽善の香りと、自己の崩壊。私がこんなに世界を愛せていたのなら。信仰と生そのものの存在を。信じられたのなら。この言葉に、吐き気を起こすこともなかっただろうに。

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