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第9話 定時退社と極甘スローライフは永遠に

厳しい寒さで知られる氷晶帝国にも、確かな春の気配が訪れていた。


分厚い雪はまだ街を覆っているのに、降り注ぐ陽射しは驚くほど柔らかい。白亜の皇宮の尖塔に反射する光は、冬の鋭い冷たさを忘れさせ、陽だまりのような優しい温度を含み始めていた。


皇宮の奥深くに鎮座する大聖堂は、国中から集められた雪白の花々で埋め尽くされていた。


鏡のように磨き上げられた氷晶石の床に、純白の花びらがふわりと舞う。

聖歌隊の澄んだ歌声が高く響き渡り、参列する貴族や文官たちは、一人の粗相も許されないとばかりに静かに息を潜めている。


その視線の中心、祭壇の前に立つのは――ソフィアだった。


彼女の身を包む純白のウェディングドレスは、豪華でありながら驚くほど軽く、そしてどこも締め付けない。

「絶対にソフィアの身体に負担をかけるな」という皇帝の厳命により、最高の職人たちが寝る間も惜しんで作り上げた至高の逸品だ。


侍女たちは、ソフィアが無理に作られた愛想笑いを浮かべないよう、ただ彼女が自然体でいられることだけを最優先に気を配ってくれている。


(……結婚式って、こんなに息がしやすくて、優しいものだったんだ)


ソフィアは、かつて王都で無理やり参加させられていた夜会を思い出し、少しだけ苦く笑いそうになった。


あの国での夜会は、文字通りの『戦場』だった。

隙を見せれば嘲笑われる。笑顔は自分を守るための武器で、礼儀作法は重苦しい鎧。そして、一息つくための休息は“怠慢”という大罪だった。


でも、今は全く違う。


今、隣に立っているこの男は、ソフィアに重い鎧を着せようとはしない。


アレクシオスは祭壇の前に立ち、いつも通り表情は寡黙で威厳に満ちている。だが、ソフィアを見つめるその蒼い瞳だけは、氷のような冷たさは微塵もなく、熱傷しそうなほどの深い愛情の温度を宿していた。


神官によって誓いの言葉が厳かに読み上げられ、二人は永遠の愛を誓い合う。

そして、指輪が交換される。


皇帝と皇后の結婚指輪。

だが、それは巨大な宝石が輝くような一般的なものではなく、一見するとシンプルな銀の意匠だった。

――なぜならそれは、ソフィア自身が精魂込めて作り上げた、世界に二つとない最高傑作の『魔道具』だったからだ。


指輪の内側に刻まれた緻密な循環式が、互いの体温と魔力を感知し、寒さを和らげ、精神的・肉体的な疲労を極限まで軽減し、本人の魔力を最も穏やかな状態に整える。


ソフィアの左手薬指に指輪を嵌めながら、アレクシオスが周囲に聞こえない小声で尋ねた。


「……重くないか。負担ではないか」


ソフィアは、心からの微笑みを浮かべた。


「大丈夫です。とっても軽いです」

「なら良い」


その短い言葉と、不器用なほどに優しい眼差しだけで、ソフィアの胸の奥が熱くなる。


大聖堂の重厚な扉が開き、ワッ、と割れんばかりの拍手が響き渡った。

帝国らしく節度ある、しかし確かな熱気を持った祝福の嵐。


ソフィアは、アレクシオスと手を繋ぎ、参列者に向かって笑顔で手を振り返した。

生まれて初めて、ソフィアは心から深く、幸せな呼吸ができた。


◇◇◇


式の後に開かれた祝宴は、帝国の威信をかけた恐ろしく豪華なものだった。

だが、ソフィアが前世から怯え続けてきたような『長時間の接待拘束』では決してなかった。


コース料理のメニューはすべてソフィアの胃腸の負担にならない好みに合わせて調整され、疲れたと思えばいつでも中座して休憩室に行けるよう手配されている。誰もそれを咎める者などいない。


そして、宴が最高潮に盛り上がり、貴族たちが酒杯を交わし始めた頃。

一人の侍従が、アレクシオスの背後にさりげなく近づき、耳打ちをした。


「陛下、皇后陛下。……お時間でございます」


ソフィアがキョトンと首を傾げる。


「えっ……お時間?」


アレクシオスが、何でもないことのように淡々と言った。


「定時だ」


ソフィアは思わず吹き出しそうになり、慌てて両手で口元を押さえた。


結婚式の祝宴の、しかも主役に対して「定時」!

そんな労働基準法を遵守しすぎた概念がまかり通る国が、世界のどこにあるだろうか。


アレクシオスはスッと立ち上がり、楽しげに歓談する参列者たちへ向けて、よく通る声で告げた。


「今日の俺と皇后の務めは、ここまでだ。……続きは好きに飲め。存分に楽しむといい」


皇帝がそう宣言すれば、当然誰も逆らうことはできない。

だが、逆らえないからといって、誰も不満そうではない。むしろ、上司が先に帰ってくれたことで、文官や騎士たちは露骨にホッと安堵の表情を浮かべていた。


(……この国、トップが定時でサクッと帰るから、下の人間も無駄な残業や気遣いをせずに気楽に帰れるんだわ……)


ソフィアは、かつてないほどの強烈な納得と感動を覚えた。最高のホワイト企業は、トップの背中から作られるのだ。


二人はそっと祝宴を抜け出し、静かな回廊を並んで歩いた。

窓の外には、月の光を受けてキラキラと輝く雪の庭園が広がっている。遠くには、ソフィアの店がある辺境の街の、温かなオレンジ色の灯りが見えた。


ソフィアは、ふと立ち止まり、隣を歩く大きな背中に声をかけた。


「……陛下」

「アレクシオスだ」

「……アレク、様」


その甘い呼び方は、何度口にしてもまだ慣れない。舌に乗せるたびに、胸の奥がきゅっとくすぐったくなる。


ソフィアは、窓越しの雪景色を見つめたまま、ポツリと本音をこぼした。


「私……まだ時々、怖いんです」

「何がだ」

「この、温かくて甘い『幸せ』がです」


ソフィアは、自分の弱さを隠さずに言った。


「前世でも、前の国でも、こんなに優しくされたことは一度もなかったから。……いつか急に、明日目が覚めたら、この優しさが全部『だから死ぬまで働け』っていう要求に変わるんじゃないかって。そう思うと怖くて、無意識に仕事を探して、自分の価値を証明しようとしてしまうんです」


アレクシオスはしばらく黙り、そして、ソフィアの少し震える手を取った。

冷たいはずの彼の手が、今は指輪の力もあって、とても温かく感じる。


「……変えない」


短く、一切の揺らぎがない、鋼のような声だった。


「雇用契約も、君との約束も、先ほど神に誓った言葉も。……明日も、十年後も、死ぬまで全部同じだ。君を搾取することなど絶対にない」


ソフィアはギュッと唇を噛み、ポロリと涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。


「……あの、婚姻契約書に入れた『特例解除(離婚)条項』、まだ有効ですか?」


アレクシオスは、不機嫌になることもなく、当然のように頷いた。


「有効だ。俺の愛が重すぎて苦しくなったら、いつでも俺を捨てて逃げればいい」


ソフィアは目を見開き、そして、可笑しくてたまらないというように小さく笑い声を上げた。


「……逃げたい時なんて、たぶん一生来ないです。アレク様が過保護すぎて、私、すっかり駄目になっちゃいましたから」


アレクシオスの蒼い瞳が、これ以上ないほど甘く、優しく和らいだ。


「なら、あの逃げ道はただの飾りだな。永遠に使うことはない」


ソフィアは力強く頷き、彼の大きな手を両手でぎゅっと握り返した。


◇◇◇


一方、その頃。

ソフィアを捨てた祖国――ヴァルディス王国の『その後』は、悲惨の一言に尽きた。


ソフィアという心臓を失ったことで、王都の結界の崩落はもう誰にも止められなかった。

結界が消滅した街には、連日のように凶悪な魔物が侵入し、人々の日常は一瞬にして地獄へと変わった。水路の浄化魔道具や防犯結界が完全に機能しなくなったことで、街の衛生状態は最悪となり、疫病と略奪を伴う暴動が同時に広がった。


周辺国は、最初こそ『人道支援』という名目で様子を見ていたが、やがて王国の統治能力が完全に失われたと判断すると、“保護”と称して軍事介入を行い、王国の豊かな領土はハイエナのように他国に切り分けられていった。


難攻不落を誇った王都はあっけなく陥落し、傲慢だった王家は完全に没落した。


レオンは、もはや王太子ではなくなった。

国を滅ぼした最大の戦犯として民衆の前で責任を問われ、保護国の厳しい監視の下、王族としての身分と財産をすべて剥奪された。


義妹のマリアも同じ運命を辿った。

「私は真の聖女よ!」と泣き喚いた彼女だったが、その力では魔物一匹退けることも、病に苦しむ民を一人救うこともできなかった。

誰も彼女の虚飾の言葉を信じなくなり、彼女を取り巻いていた侍女や貴族たちも、蜘蛛の子を散らすように去っていった。


二人に最後に残されたのは、虚しい権力やドレスではなく、生きていくための現実的な『肉体労働』だけだった。


荒れ果てた道路の補修。

汚泥にまみれた水路の掘り直し。

崩れた防壁の土嚢運び。


かつては贅沢三昧だった二人が、今はボロボロの服を着て、朝から晩まで汗と泥にまみれ、毎日身体を壊すほど動かさなければ、その日のパン一つ得られない。


皮肉なことに、それはソフィアが十年間、たった一人で背負わされ続けてきた“国を回すための仕事”の、ほんの一部でしかなかった。


もし誰かが今の彼らに声をかけるとしたら、こう言うだろう。


「あなたたちは、今ようやく『働くことの本当の重み』を知ったのだ」と。


◇◇◇


氷晶帝国の辺境の街では、ソフィアの小さな店が今日も変わらず元気に営業を続けていた。


ただし、店先の看板の文字だけが少し変わっている。


『魔道具屋ソフィア (※氷晶帝国・皇后陛下 直轄監修)』


監修、とわざわざ書かれているのは、ソフィアの譲れない意地だ。

皇后になったからといって、自分の城である店を誰かに丸投げして奪われるのは絶対に嫌だった。あくまで、この店の店主は『私』なのだ。


その店の奥には、アレクシオスが皇宮の工房を丸ごと移設して作らせた、最高級の設備が整う小さな専用工房がある。

そこで、ついにアレクシオスのための『魔力制御具・最終完成型』が産声を上げた。


彼の強大すぎる魔力を“力で抑え込む”のではなく、自然に循環させ、無数に分岐させ、余剰分を暴走させずに空気中へ優しく逃がす。

まるで彼の『呼吸』そのもののように、身体に完全に馴染む完璧な構造。


その新しい制御具を装着して以来、アレクシオスは夜に魔力暴走の発作を起こすことは一切なくなった。

長年の激痛から解放され、彼はようやく、人間らしく朝まで安らかに眠れるようになったのだ。


ソフィアはそれが心の底から嬉しくて――でも、同時に少しだけ悔しかった。


(……私だけが定時で帰って、ぐっすり眠るのは、やっぱりずるいもんね。これでやっと、対等にスローライフができるわ)


ある日の夕方。

工房の片付けを終えたソフィアは、壁の魔道時計を見上げた。

針は、きっちりと『定時の時刻』を指していた。


「……よし、定時です!」


ソフィアが元気に宣言すると、工房の入り口でずっと待機していたアレクシオスが、即座に深く頷いた。


「ああ、定時だ」


二人は自然に手を繋ぎ、店の裏口から外へ出る。

外の空気はまだ少し冷たい。けれど、互いの指輪の循環式が、繋いだ手からじんわりと心まで温めてくれる。


城下町の通りを歩いていると、店のお得意さんたちが次々と笑顔で手を振ってきた。


「皇后様! この前買った温熱石、うちのお婆ちゃんが最高だって喜んでたよ!」

「靴底のアタッチメント、今年のツルツルの雪道でも一回も転ばなかったわ! 本当にありがとう!」


ソフィアは、嬉しそうに笑って手を振り返す。


「ありがとうございます! でも、どんなに便利な道具でも、無理しない程度に使ってくださいね! 休むのが一番の薬ですから!」


それは、魔道具屋の店主としての言葉であり――かつて限界まで自分を追い詰めていた、過去の自分へ向けた優しい言葉でもあった。


皇宮へ戻る雪道の途中で、アレクシオスがふと立ち止まり、愛おしげにソフィアを見つめた。


「ソフィア」

「はい、アレク様」

「……君に出会えて、君が俺を見つけてくれて。俺の冷たかった人生は、本当に温かくなった。愛している」


唐突な、しかしこれ以上ないほどストレートな愛の言葉に、ソフィアの喉が、きゅっと甘く締まった。


(……そんなの、反則じゃない)


ソフィアは、頬を真っ赤に染めながら、とびきりの笑顔で答えた。


「私もです。アレク様に拾われて、毎日が……本当に『楽』で、幸せです」


アレクシオスが、意外そうに少しだけ眉を上げる。


「楽、か?」

「はい。過去のブラック企業と地獄の研究所生活がひどすぎたので、比較すると、アレク様の溺愛は本当に天国なんです」


その身も蓋もない言い方に、アレクシオスは堪えきれないように低く笑い声をこぼした。


ソフィアは、繋いだ手を少しだけ持ち上げ、お揃いの指輪を見せるように言った。


「……あ、でも」

「何だ」


ソフィアは照れくさくて、少しだけ視線を泳がせながら、しかしはっきりと言い切った。


「定時になりましたので、これからの時間は夫婦水入らずの『プライベートタイム』です。仕事の話は一切禁止ですからね!」


アレクシオスは、即答した。


「遵守する」

「残業も禁止です!」

「禁止だ」

「休日出勤も、徹夜も駄目ですからね!」

「絶対にさせない。君を一生、俺の腕の中で甘やかす」


ソフィアは幸せそうに笑い、アレクシオスも、氷が完全に溶け切ったような極上の笑みを浮かべた。


そして、二人は雪の降る美しい回廊の影で、誰にも邪魔されない、短く甘いキスを交わした。


冷たいはずの雪国で。

冷酷無慈悲なはずの、過保護すぎる皇帝陛下と。


ソフィアは、今度こそはっきりと知った。

人が本当に温かいと感じる場所は、気温や環境なんかじゃない。


自分を大切に休ませることを、心から許されること。

そして、「君にはその価値がある」と、当然のように言ってくれる人が隣にいることなのだと。


前世のトラウマを乗り越えた元・社畜令嬢の、定時退社と極甘スローライフは――これからも、愛する人の腕の中で、永遠に続いていく。


作品を最後まで読んで頂きありがとうございます。

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