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第8話 氷帝の怒りと、崩壊する祖国

「……そうか。交渉が決裂したなら、力ずくで連れ帰るまでだ――ッ!!」


レオンの狂気に満ちた叫びが、冬の空気を汚らしく引き裂いた瞬間だった。


ソフィアの視界の端で、フッ……と白い息が“落ちた”。

風に流されるのではなく、見えない重圧によって、物理的に地面へと重く沈み込んだのだ。


――ピキィィィィンッ!!


次の瞬間。

庭園の奥で優雅に水を噴き上げていた巨大な大理石の噴水が、音もなく、一瞬にして凍りついた。

水面は鏡のように固まり、空中に飛び散っていた水飛沫すらも、そのままの形で氷晶となって静止している。


それは雪や冷気などという生易しいものではない。

圧倒的で暴力的な『魔力』が、空間そのものを強制的に押さえつけ、あらゆる事象を停止させたのだ。


「――っ!?」


レオンの喉から、ヒュッと引きつった息が漏れた。

一歩前に踏み出そうとした足が、地面に縫い付けられたように全く動かない。


見れば、彼の豪奢な革靴の底から地面に向かって、透明で極太の『氷の鎖』が何重にも絡みついている。

「な、なんだこれは……ッ!」

レオンが焦って力任せに足を引っこ抜こうとした途端、彼の膝がカクンと無様に折れた。


そして、上半身が前に倒れかけたところで――見えない巨大な氷の壁に顔面から激突したかのように、凄まじい勢いで地面へと叩き伏せられた。


「がはっ……!?」


レオンの背後に控えていた護衛の騎士たちが、慌てて腰の剣に手を伸ばしかけた。

しかし、彼らが剣の柄に指をかけた瞬間、鞘の奥から刃伝いに真っ白な霜が走り、彼らの腕ごと完全に凍りつかせてしまった。

カチン、と嫌な音が鳴る。少しでも無理に動かせば、腕ごと粉々に砕け散ると、彼らの生存本能が激しく警告を発していた。


庭園の空気が、絶対零度の刃に変わる。

その中心に立っていたのは、他でもない――アレクシオスだった。


月光の銀髪は微動だにせず、蒼い瞳は底知れないほど澄み切っている。

怒りが頂点に達した時ほど、この男は恐ろしいほど静かになる。たった数日の付き合いだが、ソフィアはすでにそれを理解していた。


アレクシオスは、ゆっくりと一歩だけ前に出た。

そして、無様に地面に這いつくばるレオンを、ゴミ以下の何かを見るような目で見下ろした。


「……俺の宝に、薄汚い手で触れるな」


淡々とした、平坦な声だった。

それなのに、庭園の外周を固めている屈強な帝国兵たちでさえ、恐怖に息を呑み、槍を持つ手を震わせるほどの途方もない重みがあった。


レオンが、雪と泥にまみれた顔をギリギリと歪ませ、地面から顔を上げようともがく。


「お、俺は……王太子だぞ……! 一国の次期国王に向かって、何という無礼を……!」


声は情けなく震え、虚勢のメッキがパラパラと剥がれ落ちていく。

アレクシオスは、そんな戯言には一切答えない。


ただ、冷ややかな視線を、すっとレオンの背中に落とした。

たったそれだけで、レオンの背中の上に何トンもの見えない氷塊が乗しかかった。


「がはぁっ……!!」


レオンの顔面が、再び泥混じりの雪に激しく押し付けられた。口の中に冷たい雪と泥が入るが、顎の筋肉まで凍りついて動かず、吐き出すことすらできない。


ソフィアは、その圧倒的な力と残酷さに、思わず一歩後ろへ下がりかけ――ピタリと足を止めた。


(……怖い)


確かに、怖い。

人を虫ケラのようにひれ伏させる、絶対的な皇帝の力。

けれど。


(この怒りは、理不尽なものじゃない。……私を、守るための怒りだわ)


その事実が、恐怖よりも先に、ソフィアの胸の奥をじんわりと熱くした。

前世でも今世でも、自分が矢面に立って泥を被るのが当たり前だった。誰かが自分のために、こんなにも激しく怒ってくれることなんて、一度もなかったのだ。


アレクシオスは、ソフィアにだけ聞こえるよう、魔力を絞った優しい声で言った。


「下がれ、ソフィア。冷えるだろう」

「……はい」


ソフィアが小さく返事をした瞬間、どこからともなく侍従がシュバッと現れ、最高級の温かい毛布をソフィアの肩に幾重にもふんわりと掛けた。

あまりにも手際が良すぎる。


(この皇宮、いつの間にか『ソフィア様絶対保護部隊』みたいなのが常設されてない……?)


ソフィアが半分呆れ、半分その過保護さに救われている間に、アレクシオスは再びレオンへと視線を戻し、死刑宣告のように冷たく言い放った。


「王太子。貴国の名は?」


レオンが、凍りついた唇を血が滲むほど噛み締めながら答える。


「……ヴァ、ヴァルディス王国だ……!」

「ああ、知っている。調査はすでに済んでいるからな」


アレクシオスは、まるで今日の夕食のメニューでも読み上げるかのように、淡々と告げた。


「ヴァルディス王国は、俺の次期皇后であるソフィアを、十年にわたりカビの生えた地下室に幽閉し、無給同然で過労死寸前まで酷使した。彼女の挙げた国家的な功績をすべて横取りし、尊厳を踏みにじり、挙げ句の果てに不当な婚約破棄と国外追放を突きつけた」


レオンの顔が、恐怖でヒクッと引きつる。


「そ、それは……誤解で……」

「黙れ」


その静かな一言で、レオンの喉の奥までが物理的に凍りついた。

パクパクと唇だけが動くが、音が出ない。空気が、彼の言い訳の存在を許さなかった。


アレクシオスは、容赦なく追撃する。


「そして今日、帝国の皇宮内において、俺の宝を“力ずくで”連れ去ると口にしたな」


蒼い瞳が、さらに暗く、冷たく沈む。


「……それはつまり、氷晶帝国の主権を真っ向から侵し、次期皇后に対する『暴行および誘拐』を示唆したという、明確な宣戦布告と受け取って相違ないな」


ソフィアの肩が、びくりと大きく跳ねた。


(ちょっと待って!? 『次期皇后』って、相手の国の王太子の前で、はっきり言い切っちゃった!? 雇用契約のお試し期間じゃなかったの!?)


ソフィアが顔を真っ赤にしてツッコミを入れる暇もなく、レオンが絶望のあまり白目を剥きそうになりながら、声にならない叫びを上げた。


「ち、違う! 俺はそんなつもりじゃ――!」

「言った」


アレクシオスは、ただ氷のような事実だけを突きつける。


「ソフィアは、お前の身勝手な要求を明確に拒否した。それでも、お前は“力ずくで”と言った。これは揺るがぬ事実だ」


言質。

完璧な、国家間の外交における致命的な失言。

法務の鬼であるソフィアも「(あ、これ完全に詰んだわね)」と納得するほどの、見事な逃げ道の塞ぎ方だった。


レオンの目が激しく泳いだ。助けを求めるように周囲を見るが、帝国の兵たちは彫像のように無言で彼を見下ろしているだけだ。

誰も、身勝手な愚か者の味方などしない。


アレクシオスは、庭園の隅に控えていた帝国の文官に、顎で短く合図を送った。

文官がスッと一歩前に進み出ると、懐から正式な通告書である黒い巻物を広げた。


「氷晶帝国皇帝・アレクシオス陛下より、ヴァルディス王国に対する最終通告を読み上げます」


文官の声音は極めて事務的で、一切の感情がこもっていないからこそ、ひどく残酷に響いた。


「本日ただいまをもって、氷晶帝国はヴァルディス王国との一切の国交を断絶する。貴国が帝国に依存していた魔道具の供給、冬期の食糧融通、および医療技術の協力はすべて即刻停止。国境の交易路を完全封鎖し、貴国からの難民の受け入れも一切拒否するものとする」


レオンの瞳孔が、限界まで見開かれた。


「ま、待て! 待ってくれ! そんなことをされたら、我が国は……!」

「されたら、どうなる?」


アレクシオスが、初めて彼に問い返した。

その氷のような声に、レオンの喉がヒュッと詰まる。


(……終わる)


そう完全に理解した瞬間、レオンの顔に、底知れない本物の恐怖が現れた。


国が、崩れる。

ただでさえソフィアを失って結界が崩壊しかけているというのに。頼みの綱だった大国からの支援や物資まで絶たれれば、王国は魔物に食い尽くされる前に、飢えと暴動で内部から完全に自滅する。


自分が今まで、あぐらをかいて“あって当然”として利用し、搾取してきたものが。

今、この瞬間、すべて綺麗に切り取られたのだ。


レオンは、地面に顔を擦り付けたまま、鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにして必死に叫んだ。


「ソフィア! ソフィアァァ!! 頼む、お前が……お前が俺を見捨てたら、本当に国が滅んでしまう! お前だけが頼りなんだ!!」


ソフィアは、毛布をきゅっと握りしめ、ゆっくりと彼を見下ろした。

その眼差しには、もう彼に対する恨みも、怒りすらもなかった。ただ、救いようのない愚か者を見る、底なしの『疲労と呆れ』だけがあった。


「……私だけが、何ですか」

「お前が戻ってくれれば、結界も直る! 帝国の怒りも鎮まる! 全部、全部元通りになるんだ!!」


ソフィアは、静かに首を振った。


「戻りません」

「なぜだ! なぜ見捨てる! お前がいなければ国が滅ぶんだぞ! 民が死んでもいいのか!」


己の非を一切認めず、民を盾にして責任だけを押し付けてくる。

ソフィアは、少しだけ目を伏せ。

そして、はっきりと、冷酷に言い放った。


「……それが、あなたたちが決めた『結果』です」


私を無能と見下し、追放を宣告したのは、あなたたちだ。

国の心臓を、自らの手で抉り出して捨てたのも、あなたたちだ。


自分たちで捨てておいて、自分の手が負えなくなったら、捨てた人間にすべての責任と尻拭いを押し付けるな。


ソフィアは、たった一言だけ、レオンの心臓を抉るように付け加えた。


「私はもう、あなたの国の『便利な道具ガラクタ』ではありませんから」


その瞬間、レオンの顔が完全に歪んだ。

悔しさと、恐怖と、己のプライドを粉々にされた屈辱が混ざり合い、最後に残ったのは、見苦しいまでの醜い執着だった。


「……だったら、せめて」


レオンが、地面に伏せたまま、血を吐くような声で唸る。


「……“お前がいないと国が滅ぶ”という事実だけは、認めろ。俺たちがお前を必要としていたことだけは……!」


ソフィアは、少しだけ黙った。


それは事実だ。彼女の技術がなければ、あの国は回らなかった。

でも、その事実は、ソフィアにとっての誇らしい勝利ではない。

十年間の青春と、睡眠時間と、血を吐くようなサビ残という『犠牲』の上に成り立っていた、ただの異常な現実だ。


ソフィアは、淡々と、最後通告を告げた。


「認めますよ。私がいないと、あの国は滅びます。……だからこそ、私は絶対に戻りません」


レオンが、完全に凍りついた。


ソフィアは冷ややかに続ける。


「国が滅びるほどの重圧を、権力も何もない一個人に、無給で背負わせていた。その労働環境がいかに狂っていて、異常なことだったか。……今さら理解して泣き喚いても、もう遅いのです」


アレクシオスが、ほんの僅かにソフィアへ視線を向けた。

『もう十分か?』という、無言の確認。


ソフィアは小さく頷き、そこで彼との会話を完全に終わらせた。


「お引き取りください、元婚約者殿。二度と私の視界に入らないで」


アレクシオスが、護衛たちに短く命じる。


「連れていけ。国境の向こう側へゴミを放り投げてこい」


帝国兵たちが無言で動く。

レオンの足元に絡みついていた氷の鎖が変形し、歩かせるための最低限の“拘束具”となった。逃げることはできないが、無理に引きずらずに、みっともない姿のまま歩いて運べる形だ。

徹底的に屈辱的で、無慈悲で、合理的な処置。


レオンは兵士に両脇を抱えられながら、最後に振り返り、血走った目でソフィアを睨みつけた。


「……後悔するぞ、ソフィアッ! 祖国を見捨てた冷酷な女として、一生罪悪感に苛まれて生きるんだな!!」


ソフィアは一切動じず、ただ一言、爽やかな笑顔で返した。


「定時で帰れるホワイトな生活を後悔する人間なんて、この世にいません。……一生後悔して地獄を見るのは、あなたの方ですわ」


レオンの絶叫が、広い庭園の彼方へと引きずられ、やがて完全に消え去った。


空気が少し緩み、ピキッ、と噴水の氷が静かに軋んだ。だが、溶けはしない。アレクシオスの怒りの魔力は、まだそこに固定されたままだ。


ソフィアは、膝の上の毛布の端を、ぎゅっと握りしめた。


(……終わった)


終わった、はずなのに。

過去のトラウマと決別したはずなのに、心臓がまだバクバクと速く打っている。


アレクシオスが、静かな足取りでソフィアの前に戻り、いつものように低く、甘い声で言った。


「寒くないか」


ソフィアは、小さく首を振った。


「……大丈夫です」

「怖かったか」


ソフィアは、今度は正直に頷いた。


「少しだけ。……でも、陛下が私を守るために怒ってくれたのも、痛いほど分かりましたから」


アレクシオスは、少しだけ気まずそうに、言葉を探すように視線を落とした。


「……俺は、自分の大切なものを理不尽に『奪われる』のが、死ぬほど嫌いだ」

「……はい」

「お前は、今までずっと、奪われる側だった」


その言葉が、ソフィアの胸の一番柔らかい部分をチクリと刺した。

奪われた。

時間も、健康も、睡眠も、人間としての尊厳も。


アレクシオスは、ソフィアの手を取り、その手の甲に誓うように口付けを落とした。


「もう二度と、君のすべてを誰にも奪わせない。君の指先一つ、髪の毛一本すら、誰にも触れさせない」


それは、ただの男の独占欲ではなく、絶対的な力を持つ皇帝としての、重く熱い宣言だった。


ソフィアは、顔を真っ赤にして小さく息を吐いた。


(……重い。皇帝陛下の愛が、物理的にも精神的にも重すぎる)


重いけれど、不思議と嫌じゃない。むしろ、その重さが、今のソフィアには心地よかった。


その瞬間。

庭園の奥から、別の伝令武官が血相を変えて駆け込んで来た。


「陛下! ヴァルディス王国に潜入させていた暗部より、緊急の報告が――!」


文官が受け取った暗号紙を一瞥し、サッと顔色を変える。


「王都を覆っていた防御結界が、第二層まで完全に崩落したとのことです! すでに周辺の森から魔物の大群の侵入が確認され、水路の停止により市場は大混乱。王宮周辺でも、民衆の暴動と火災が発生し、国軍だけでは鎮圧不可能とのこと……!」


ソフィアは、胸の奥がきゅっと、冷たく締まった。


(……本当に、始まったんだ)


自分が去ったせいではない。

自分が身を削って止めていた“破滅”が、ついに堰を切って溢れ出しただけだ。


アレクシオスは表情を一切変えず、冷徹な為政者の顔で命じた。


「予定通り、国境の物理封鎖を最大レベルまで引き上げろ。防衛軍を国境沿いに配備し、帝国領内に魔物や難民の被害が一切及ばないよう、完璧に備えろ」

「はっ!!」


伝令が風のように去っていく。


ソフィアは、きつく唇を噛んだ。


(ざまぁみろ、って……手放しで喜んでいいのかな)


自分を虐げた者たちが破滅していくのは、確かにスカッとする。

でも、あの結界の内側で暮らしていた、パン屋のおじさんや、花売りの少女たちの顔も思い浮かぶ。彼らは何も知らず、ただ“当たり前”の平和を享受していただけなのだ。


ソフィアが複雑な思いで黙っていると、アレクシオスがその心情を見透かしたように、静かに言った。


「お前が、背負う必要はない」


ソフィアはハッと顔を上げた。


「……でも」

「国を守る責任は、民から税を徴収し、権力を握っている王族にある。その責任を放棄し、一人の少女を搾取して国を維持しようとした時点で、あの国はとっくに滅びていたんだ。……すべては、奪った者たちの自業自得だ」


その言葉は、恐ろしいほど冷たくて、そして絶対的に正しかった。

ソフィアの心に残っていた最後の罪悪感を、綺麗に断ち切ってくれるための、彼なりの優しい切断だった。


ソフィアはゆっくりと目を閉じ、深く、長く息を吐き出した。


「……はい。私はもう、ここで、自分のために生きます」

「それでいい」


アレクシオスは、満足げに微笑み、少しだけソフィアとの距離を詰めた。


「ソフィア」

「はい」

「今日の業務は、これで終わりだ。……定時だ」


突然の『定時宣言』に、ソフィアは張り詰めていた糸が切れ、思わずふふっと笑ってしまった。


「はい、定時ですね。お疲れ様でした、陛下」


アレクシオスは迷いなく言う。


「帰るぞ。君の店まで、俺が馬車で送る」

「だから、過保護すぎる護衛は目立つのでやめてくださいってば!」


ソフィアは明るく文句を言いながら、毛布を肩に掛け直して歩き出した。

背中に、皇帝の熱い視線がある。

絶対に自分を守ると決めてくれた、不器用で重たい男の視線が。


――そして、遠く離れた祖国では。

結界がさらに大きな音を立ててひび割れ、逃げ惑う人々も、傲慢だった王族たちも、誰もがようやく、絶望の中で理解し始めていた。


ソフィアという『たった一つの心臓』を、彼ら自身が、自らの手で握り潰して捨ててしまったのだということを。


物語は、ソフィアの完全なる自由と幸せな結末へ向かって、雪のように静かに、そして確かに加速していく。


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