第7話 今さら泣きついてきても遅いです!図々しい使者の襲来
氷晶帝国の皇宮に広がる広大な庭園は、厳しい真冬であっても静かに華やいでいた。
空からは粉雪が舞い落ちている。しかし、庭園の一角に設けられたガゼボ(西洋風の東屋)の周囲には、ソフィアが調整した『環境魔力式の温熱結界』が張られており、春の陽だまりのような柔らかな温度が保たれていた。
雪白の冬咲き薔薇が咲き乱れ、テーブルの上には湯気を立てる最高級の紅茶と、焼き立てのスコーンが並んでいる。
ソフィアはふかふかの毛布を膝に掛け、甘いジャムを塗ったスコーンを一口かじった。
(……はぁ、平和)
この国に来たばかりの頃は、皇宮の人間からの「得体の知れない小娘」を見るような刺さる視線もあった。だが、今は全く違う。
皇宮の侍女や文官たちは、ソフィアの生み出す規格外の魔道具の恩恵を受け、今や彼女を『国宝の女神』のように崇め奉っている。余計な詮索は一切せず、ただひたすらに敬意を払ってくれる。
仕事は完全にホワイトで、残業の『ざ』の字もない。
街の小さな魔道具屋も、定休日を設けながらのんびりと続けられている。
そして何より――雇用主であり、熱烈な求婚者でもある皇帝アレクシオスが、絶対にソフィアとの約束を破らないからだ。
彼は恐ろしいほど過保護で、相変わらず言葉は少ないが、一度「君を守る」と決めたことは絶対に曲げない。ソフィアの意志を第一に尊重し、決して無理強いはしなかった。
ソフィアは紅茶の湯気の向こうで、ホッと息を吐き出した。
(……私はもう、あの地獄には絶対に戻らない)
その確信が、胸の奥で温かく、そして硬く結実しているのを感じた。
そこへ、一人の侍従が雪を踏みしめながら早足で近づいてきた。
「ソフィア様。優雅なティータイムのお取り込み中、誠に恐れ入ります」
侍従の声が、かつてなく硬い。極度の緊張感を孕んでいた。
ソフィアはカップをソーサーにコトリと置いた。
「どうしましたか? 陛下の制御具に何か不具合でも?」
「いえ、そうではございません」
侍従は一瞬忌々しげに言い淀み、それから、汚物でも吐き捨てるようにはっきりと告げた。
「……ソフィア様を追放した祖国より、使者が参りました。王太子、レオン殿下です」
ピタッ、と。
ソフィアがスコーンに伸ばしかけていた指が、空中で止まった。
(……来たわね)
来るだろうとは思っていた。
自分が抜ければ、あの自転車操業の結界が数日で崩壊するのは目に見えていたのだから。
でも、まさか一国の王太子本人が、こんなに早く直接乗り込んでくるとは思わなかった。よほど切羽詰まっているのだろう。
ソフィアは小さく深呼吸をして、社畜時代に培った『鉄面皮』を顔に貼り付けた。
「……陛下は、何と?」
「陛下は『会うか会わないかは、すべてソフィアの意志に任せる。会いたくないのなら、俺が今すぐ国境の彼方へ蹴り飛ばしてこよう』と仰せです」
「蹴り飛ばすのは国際問題になるのでやめてくださいと伝えてください」
侍従が苦笑する。
「しかしソフィア様。王太子は非常に強引で、現在、皇宮の正門前で『ソフィアを出せ! 俺の婚約者だぞ!』と見苦しく騒ぎ立てております」
騒いでいる。
昔からそうだ。あの男は、自分の思い通りにいかないことや都合の悪いことが起きると、とにかく声を荒らげて威圧する。相手が恐怖や面倒くささで折れるまで、子どものように癇癪を起こすのだ。
ソフィアの胸の奥に、かつての理不尽な扱いに対する静かな怒りが湧き上がる。
だが、同時に『法務・クレーム対応担当』としての冷静な計算が働いた。
(ここで逃げて居留守を使えば、相手は「まだ俺に未練があるから会えないんだ」と勘違いして、面倒が長引くだけ。……はっきりと現実を突きつけて、二度と私の視界に入らないように完全にへし折るべきね)
ソフィアは、ゆっくりと立ち上がった。
「会います。……ただし、応接室などの密室は避けてください。この庭園の、門のすぐ近くの開けた場所で」
密室は絶対に避ける。
複数の帝国兵という『証人』がいる場所で。
相手が暴れてもすぐに制圧できる、完全にこちらが有利な場所で。
侍従が、ソフィアの意図を察して深く頭を下げる。
「承知いたしました。完璧な舞台をご用意いたします」
◇◇◇
皇宮の正門にほど近い、雪の積もる庭園の一角。
厳重な警備兵が円陣を組むように配置され、ソフィアとの間に物理的な距離と安全が完全に確保されたその場所に、王太子レオンが通された。
ソフィアは、ガゼボの椅子に座ったまま、遠目からでも彼の異常さをはっきりと見て取れた。
(……見事に、追い詰められてるわね)
王家御用達の高価な外套は雪と泥で汚れ、いつも完璧に撫でつけられていた金髪はボサボサに乱れている。
王太子としての優雅な余裕など微塵もなく、目の下にはソフィアが研究所時代に作っていたような濃いクマが刻まれ、顔色は土気色に淀んでいた。結界崩壊の対応で、彼自身も一睡もしていないのだろう。
レオンは、温かな結界の中に座るソフィアの姿を見つけると、ハッとして、そして不気味なほどに引きつった『いつもの王太子の笑み』を顔に貼り付けた。
「ソフィア! ああ、無事でよかった! やっと会えたな!」
親しげで、薄っぺらくて、反吐が出そうになる声。
ソフィアは立ち上がり、完璧に美しい、しかし一切の感情がこもっていないカーテシー(礼)の姿勢をとった。あくまで相手の『無礼』を浮き彫りにするための、礼儀という武器だ。
「……お久しぶりでございます、王太子殿下。他国の皇宮で大声を上げられるとは、どのような緊急の御用件でしょうか」
レオンは周囲を囲む屈強な帝国兵たちを忌々しげに一瞥し、見下す癖が抜けない傲慢な態度で言い放った。
「用件など決まっているだろう。……戻れ、ソフィア。今すぐ俺と一緒に祖国へ帰るんだ」
ソフィアは、呆れ果てて小さく目を瞬かせた。
(……嘘でしょ? まさか、謝罪の言葉一つから入らないの?)
レオンは、ソフィアの沈黙を『迷い』だと勘違いしたのか、さらに一歩前に出て口角を上げた。
「状況は少々混乱している。王都の結界に不具合が生じてな。だが、お前が戻って少し調整してくれれば、すぐに収まる些事だ。……あの夜会の件は、お互いに少し頭に血が上っていただけの『誤解』だったんだ。だから、もう水に流そうじゃないか」
誤解。
ソフィアの口元が、ピクリと引きつった。
「……誤解、ですか?」
「そうだ。俺の言葉足らずで、君を傷つけたのなら悪かった。研究所の連中も、君の不在を嘆いている。だから、意地を張らずに戻ってこい」
言葉があまりにも軽い。息を吐くのと同じレベルの、口先だけの謝罪。
しかし、彼が続けて放った次の一言で、その浅ましい本音が完全に露わになった。
「俺と一緒に戻れば、君を正妃として迎えてやる! 地位も、名誉も、ドレスも宝石も全部くれてやる! マリアも、お姉様に悪いことをしたと反省しているんだ。だから、すべて元通りにしてやるぞ!」
“してやる”。
その圧倒的なまでの上から目線の言葉を聞いた瞬間。
ソフィアの心の中で、彼に対する僅かばかりの同情すらも、ぷつり、と音を立てて完全に切れた。
だが、怒鳴らない。
泣き叫んだりもしない。
ただ、絶対零度の声で、淡々と事実だけを切り捨てる。
ブラックなクレーマーには、それが一番効くのだ。
ソフィアはゆっくりと紅茶のカップを手に取り、一口飲んでから、静かに、はっきりと言った。
「……お断りします」
レオンの顔に貼り付いていた笑みが、ピシッとひび割れた。
「……は?」
「申し訳ありませんが、私はすでに祖国を追放されました。つまり、正式に『退職』しております。今さら“戻れ”とご命令いただいても、私と祖国との間の雇用契約は完全に終了していますので」
「け、契約? 雇用? お前は何を言っているんだ!」
「文字通りの意味です」
ソフィアは、自分の後ろに控える帝国の侍従へ視線をやり、そこに確かな“証人”がいることを示してから、再びレオンの愚かな顔を見据えた。
「私は現在、この氷晶帝国において、専属魔道具師としての正式な『雇用契約』を結んでおります。毎日定時で上がれます。有給休暇も完全消化できます。休日出勤も深夜の呼び出しも一切ありません。私が生み出した仕事の成果は、すべて正当に評価され、私のものになります。……これが、私が自らの意志で選び取った、新しい生活です」
レオンの顔が、屈辱と焦燥で醜く歪む。
「そんな……そんな平民の職人のような下賤な生活が、この俺の隣に立つ『次期王妃』という栄誉ある地位よりも価値があるというのか!?」
ソフィアは、一切の迷いなく即答した。
「はい。天と地ほどに、今の生活のほうが価値があります」
「なっ……!」
レオンが激高し、雪を踏み荒らして一歩踏み出した。帝国兵たちが一斉に槍の穂先をレオンに向ける。
「ソフィア! 貴様、国が滅びかけているというのに、自分一人の我儘で――」
「国?」
ソフィアは、心底不思議そうに小首を傾げた。
「私からすべてを奪い、血を吐くような思いで働き続けた十年間を『無駄な泥遊び』と鼻で笑い、使い潰して捨てた国が。今さら、その国のために戻って身を捧げろと?」
レオンの唇が、ガクガクと震え始める。
「……ひ、必要だったんだ! あれは研究所の連中の報告が間違っていただけで……! 君の力でしか結界が維持できないのなら、なおさら王族として戻る義務が――」
「必要だったと言うのなら、最初から『必要な人間』としての正当な扱いをするべきでしたね」
ソフィアが放った冷徹な正論の刃に、レオンは言葉を詰まらせた。
「私は夜会で、無能だと罵られました。魔力ゼロの寄生虫だと、国のお荷物だと、公衆の面前で私の尊厳を完全に踏みにじられました。……そんな仕打ちをした相手が、自分が困ったからといって今さら“戻ってくれ”と甘い言葉を吐いても、微塵も信用できません。私は二度と、あなた方のために一秒たりとも働きません」
レオンの顔から血の気が引き、完全なパニック状態に陥った。
相手を理詰めで論破できないと悟った彼が持ち出したのは、見え透いた買収だった。
「な、なら条件を出せ! 望みは何だ! 金か!? 広大な領地か!? 研究所のあの無能な主任の首でも、マリアの追放でも、なんだって君の望む通りにしてやる!! だから――」
「条件は出しません」
ソフィアは、ソーサーにカップをコトリと置き、冷ややかに見下ろした。
「なぜだ!!」
「出す必要が、全くないからです」
ソフィアは、言葉を丁寧に選びながら、決定的な一撃を放った。
「私はもう、この国で、十分に満たされています。……それに」
ソフィアは、視線をレオンから外し、庭の奥へと向けた。
雪が舞う白い回廊の暗がり。
そこに、一人の銀髪の男が立っていた。
アレクシオス。
いつからそこにいたのかは分からない。彼は音もなくそこに佇み、ただ静かに、二人のやり取りを見つめていた。
その視線はレオンに対しては絶対零度のように冷酷だったが、ソフィアにとっては、自分の背中を絶対に守ってくれるという、最強の盾の位置だった。
ソフィアは、誇り高く胸を張り、レオンに言い放った。
「私は今、私という人間を心から大切にし、対等に尊重してくれる方のそばにいます。あなたのような、搾取することしか頭にない人間の元へ戻る理由など、一つもありません」
レオンがアレクシオスの圧倒的な存在に気づき、顔をヒクッと引きつらせて一歩後ずさった。
「……ひょ、氷帝、だと……? なぜ、皇帝本人がこんな所に……」
アレクシオスは、そこから一歩も前へは出なかった。レオンを一瞥すらせず、ただソフィアだけを見つめて、静かで、しかしよく通る声で言った。
「続けろ。ソフィア。君の好きにしていい」
“続けろ”。
それは皇帝としての威圧的な命令ではない。
この場の主導権は完全にソフィアにあり、彼女の決断を全面的に支持するという、彼なりの強烈な愛情表現だった。
ソフィアは小さく頷き、レオンに向けて最後通告を突きつけた。
「お聞きになった通りです。私は絶対に祖国には戻りません。今さら泣きついてきても、もう遅いのです」
レオンの表情が、絶望から、やがてドス黒い怒りと逆恨みへと染まっていった。
「……お前、たかが皇帝の庇護を得たからといって、調子に乗るなよ」
「調子に乗っているのは、どちらですか。他国の庭で」
「貴様っ……! このままでは王国が滅びるんだぞ! 民が何万と死ぬんだ! すべて、お前が意地を張って俺を見捨てたせいだ!!」
どこまでも身勝手な責任転嫁。
ソフィアは一瞬だけ目を伏せ、しかしすぐに顔を上げて、はっきりと言い切った。
「私のせいではありません。無能なあなた方が、国の心臓を自らの手で抉り出して捨てたせいです。そのツケは、あなた方自身で払いなさい」
沈黙が落ちた。
冷たい風が吹き抜け、雪の粉が二人の間を舞う。
レオンの握りしめた拳が、怒りでワナワナと震えていた。
彼の瞳の中に、王太子としての理性すら完全に焼き切れた、狂気のような光が宿る。
「……ソフィア。お前は、俺のものだ。俺の所有物だ」
その言葉が出た瞬間。
庭園の温度が、物理的に一段、ガクンと下がった。
ソフィアの周囲の温熱結界がビリビリと震え、空気が完全に凍りつく。ティーカップから立ち上っていた湯気が、空中で細い氷の糸となってピタリと止まった。
回廊の影から、アレクシオスが静かに、しかし死神のような足取りで前へ出た。
「……違うな」
短い、たった一言。
それだけで、周囲の空気が悲鳴を上げた。帝国兵たちが一斉に武器を構え、レオンを完全に包囲する。
アレクシオスの蒼い瞳が、初めてレオンを『排除すべき明確な敵』として捉えていた。
レオンは恐怖に顔を引きつらせながらも、虚勢を張って叫ぶ。
「お、俺は王太子だぞ! 一国の次期国王に対する無礼だ!!」
アレクシオスは、感情の完全に抜け落ちた、絶対零度の声で返した。
「……ここは、俺の帝国だ。虫ケラが」
その言葉の圧倒的な重みと殺気に、レオンは呼吸すら忘れ、顔色を白蝋のように変えてその場にへたり込みそうになった。
ソフィアは、醜態を晒す元婚約者に向けて、最後に完璧な一礼をした。
「用件は終わりました。お引き取りください、王太子殿下」
レオンは悔しさに唇から血を流すほど噛み締め、なおもソフィアに向かって一歩踏み出そうとした。
――その瞬間。
彼の歪んだ視線が、ソフィアのドレスの袖口からチラリと覗いた、細い手首に落ちた。
そこには、研究所時代に過労で倒れかけた時に機材にぶつけてできた、消えかけの古い痣が残っていた。
レオンの目が、妙に暗く、粘着質な光を帯びた。
(……嫌な予感)
ソフィアの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
レオンは、狂ったような低い声で呻いた。
「……そうか。交渉が決裂したなら、力ずくで連れ帰るまでだ――ッ!!」
その言葉が、王太子の完全な破滅を決定づける、次の惨劇の前触れだった。




