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第6話 ソフィアがいないと国が回らない!?

ソフィアが王都を追放されてから、三日目の夜。

王都の空気は、妙に静かで、そしてひどく重かった。


風は吹いているはずなのに、街路樹の葉が揺れない。

普段なら夜通し聞こえるはずの野犬の遠吠えも、酒場の喧騒も、なぜか空気に吸い込まれるように消えていく。

王城の尖塔で時を告げる鐘の音すら、水の中に沈んだように鈍く、くぐもって聞こえた。


城壁の上で夜警に当たっていた兵士が、ぶるりと身を震わせて眉をひそめる。


「……なんだ? 急に冷え込んできたな」


季節のせいではない。

空気が、物理的に薄く“止まって”いるのだ。


王都をすっぽりと覆う巨大な防御結界。

その結界の内側では、凶悪な魔物は本能的に寄り付かず、厳しい風雪や天候の乱れさえも穏やかに緩和される。

だからこそ、王都に住む人々は皆、何百年も前からその結界を“あって当たり前の空気”のように享受し、呑気に暮らしてきた。


だが、その絶対の安全保障である結界が、今夜――明確な音を立てて“軋んだ”。


ピキッ……。


薄いガラスの表面に、見えない巨大な圧力がかかって亀裂が走るような音。

いや、それは耳で聞こえる音ではなく、魔力を持つ者だけが本能で感じる『空間の悲鳴』のような感覚だった。


兵士の背筋に、ブワッと嫌な粟が立つ。

次の瞬間。

城壁の要所に等間隔で据えられた巨大な『結界石』の一つが、ピシィッ!と甲高い音を立てて真っ二つに割れた。


「え……?」


割れた結界石の断面から、プシューッと白い煙のような魔力が無残に漏れ出していく。

通常なら夜の闇の中で淡い青色に発光しているはずの表面の魔力刻印が、チカチカと明滅したかと思うと、一斉にフッと暗転した。


「お、おい! 結界の要石が割れたぞ!?」

「こっちの石もだ! 魔力の光が消えていく!」


見張りの兵士たちのパニックに陥った声が、静寂の夜に響き渡る。

それを皮切りに、王都のあちこちで、ドミノ倒しのように異常事態が連鎖し始めた。


魔道具街を照らしていた無尽蔵の魔力街灯が、次々と瞬き、完全に沈黙した。

貴族街の地下を流れる巨大な水路の魔力浄化装置がショートを起こして停止し、清らかだった水が急速に泥のように濁り始める。

王城の宝物庫や重要施設を覆っていた防犯結界が著しく弱まり、誤作動を起こした警報の魔鈴が、狂ったような不協和音を深夜の王都に響かせた。


人々は最初、ただの偶然の一致か、局所的な魔力異常だと思った。

だが、偶然にしてはあまりにも範囲が広すぎ、そして同時すぎた。


――パニックの震源地は、他でもない。

王立魔道具研究所の、あのカビ臭い地下第三階層だった。


「主任! 主任研究官殿!!」


夜勤の若い研究員が、階段を転げ落ちるように駆け込んでくる。その顔は、幽霊でも見たかのように紙のように真っ白だった。


「地下の『結界中枢核』の魔力循環が、極めて不安定です! 全体魔力の四割が謎の消失を起こし、中枢陣の刻印が次々と剥がれ落ちています!!」


徹夜で(ソフィアの残した資料を丸写しして)報告書をでっち上げていた主任研究官は、弾かれたように立ち上がり、机の上のインク瓶を派手に床へ叩き落とした。


「何だと!? そんなはずがあるか! 自動補正システムはどうなっている! 今月の定期調整は終わっているはずだろう!」


そこまで叫んで、主任研究官はハッと息を呑み、言葉を失った。


定期調整。

それは本来、宮廷魔道士数十人がかりで一ヶ月かけて行うべき、国を揺るがす大事業だ。

しかし、ここ数年は違う。


毎夜、手作業で。

無給で。

誰にも見向きもされない深夜に、たった一人で。

――ソフィアが、やっていた。


主任研究官の肥え太った背中を、氷のような冷や汗がツーッと伝い落ちた。


「……ソフィアは。あの女は、今どこにいる……?」


答えは分かりきっている。だが、認めたくない。口に出せば、それが致命的な現実になってしまうからだ。


「ソフィア様は……三日前の夜会で、王太子殿下より婚約破棄と、国外追放を言い渡されました」

「……」

「現在、国内にはおられません。彼女の行方は誰も……」


若い研究員が、震える声で事実を突きつける。

主任研究官の顔面が、恐怖と絶望で見る見るうちに引きつっていった。


「……ソフィアの代わりは。誰が、あの複雑怪奇な中枢陣の魔力調整を見ているんだ!」

「そ、それが……マリア様が『真の聖女である自分の魔力さえ流し込めば、結界など簡単に維持できる』と仰って、本日の昼間に中枢核へ適当に魔力をぶち込んでいかれまして……」


「馬鹿かあああああっ!!」


主任研究官の絶叫が、地下室に響き渡った。


「結界中枢は繊細なガラス細工と同じだ! そこに強大な魔力を考えなしに叩き込めば、回路がショートして内部崩壊を起こすに決まっているだろうが! 今すぐマリア様を呼べ! 王太子殿下にも至急の使いを出せ! 国が滅ぶぞ!!」


◇◇◇


その頃。

王宮の豪奢な私室で、義妹のマリアはご機嫌な鼻歌を歌いながら、巨大な鏡の前に座っていた。


念願だった邪魔な姉を追い出し、王太子レオンの正式な婚約者という地位を手に入れた彼女は、今まさに人生の絶頂にいた。

周囲を囲む取り巻きの侍女たちは、マリアの豊かな金髪を梳きながら、甘い言葉でひたすら機嫌を取っている。


「まあ、これでようやく、マリア様が次期王妃として公式に発表されるのですね。本当に喜ばしいことですわ」

「ええ。あの陰気で魔力もからっぽなお姉様とは違って、マリア様はまるで光の女神のように眩しいですもの。殿下もマリア様にメロメロでいらっしゃいますし」


マリアは満足げに扇を広げ、ふふっと優越感に浸った笑いをこぼした。


「当然よ。私にはこの国で一番の『聖女の魔力』があるんだもの。王妃にふさわしいのは私よ。お姉様なんて、地下で泥遊びをしているのがお似合いのガラクタ――」


バンッ!!


マリアの言葉を遮るように、私室の重厚な扉が蹴破られるような勢いで開かれた。


「マ、マリア様!!」


駆け込んできたのは、研究所の使いの者だった。

貴族の令嬢の私室に許可なく踏み込むなど、平時であれば即座に不敬罪で投獄される暴挙だ。しかし、男の顔にはそんな礼儀作法を気にする余裕など一切なかった。


「結界が……王都の結界が、崩壊し始めています! 至急、地下の中枢核へお越しいただき、聖女様の魔力で結界の安定化をお願いいたします!!」


マリアは目を丸くし、次いで不機嫌そうに柳眉を逆立てた。


「えっ、何それ。そんな大げさなことで、私の部屋に泥靴で踏み込むなんて非常識ね」

「大げさではありません! すでに王都の結界石が十カ所以上割れ、街のインフラ魔道具が次々と停止し、パニックが起きています! このままでは数日で王都に魔物が――」

「だーかーらー!」


マリアはバンッと化粧台を叩き、金切り声を上げた。


「そんな裏方の泥仕事は、研究所のあんたたちが適当にやっておきなさいよ! 私は明日、殿下と観劇に行く約束があって、ドレスの準備で忙しいの! お姉様がやってたみたいに、適当に線を繋ぎ直しておけばいいじゃない!」


「マリア!!」


今度は、廊下の奥から怒号が飛んできた。

ズカズカと部屋に入ってきたのは、王太子レオンだった。

いつも完璧にセットされている金髪は乱れ、王族としての優雅な余裕は完全に消え失せている。


「殿下ぁ……! この無礼な男をどうにかして――」

「黙れ! 街の状況を聞いていないのか!」


レオンの怒鳴り声に、マリアはヒッと肩をすくめた。


「水路が停止し、灯りが消え、城壁の結界石が次々と割れている! 民衆は魔物の襲撃を恐れて暴動寸前だ! ……お前が、ソフィアの代わりに結界を維持できると言ったのだろうが!」


マリアは瞬きを繰り返し、引きつった笑いを浮かべた。


「わ、私は……その、昼間にちゃんと魔力を注いでおきましたし……」

「それでこの有様だ! 言い訳はいい、今すぐやれ! お前のその無駄にでかい魔力で、結界を元に戻せ!」


有無を言わさぬレオンの剣幕に、マリアは青ざめながら震える手で自身の杖を握りしめた。


結界維持の光景なら、嫌というほど見てきた。

ソフィアが隈を作って地下で地味な作業をしている間、マリアは涼しい顔でそれを見下ろし、「私ならもっと簡単にできるのに」と嘲笑っていたのだ。


(そうよ、真似すればいいだけ。私には有り余る魔力があるんだから、あの無能な姉にできたことが、私にできないはずがないわ!)


マリアは半ば引きずられるようにして研究所の地下へ連れて行かれ、明滅を繰り返す『結界中枢核』の巨大な魔力陣の前に立たされた。


彼女は大きく息を吸い込み、これ見よがしに派手な杖を高く掲げた。


「光よ! 聖なる女神の加護よ! 私の魔力を以て、この結界を満たしなさい!!」


膨大な魔力がマリアの杖から放たれ、中枢陣へと注ぎ込まれる。

まばゆい光が地下室を照らし、周囲の研究員たちが「おおっ!」と期待の歓声を上げた。


――しかし。

光が収まった後。


中枢陣の刻印は、光を取り戻すどころか、さらにバチバチと不吉な火花を散らし、魔力はどこへともなく霧散してしまった。

魔力循環のラインは繋がらず、結界はピクリとも――動かない。


「……え?」


マリアの顔が、絶望に引きつる。


「ど、どうして!? 私の魔力は完璧に注ぎ込んだはずよ!」


主任研究官が、頭を抱えて呻き声を上げた。


「……駄目だ。魔力を力任せに注ぐだけでは、ショートした回路をさらに破壊するだけだ……。お前には、マリア様には、根本的な『修復』の技術が何一つない……!」


マリアはヒステリックに叫んだ。


「そんなはずないわ! 私は聖女なのよ! 国で一番の魔力を持っているのよ!? お姉様みたいな、魔力ゼロの無能にできたことが、どうして私にできないのよ!!」


レオンは、愕然とした顔で、次々と光を失っていく中枢陣の刻印を見つめていた。

刻印のラインは、まるで命の糸が切れるように、パツン、パツンと音を立てて途切れていく。


「……何でだ。ソフィアは何をやっていた。魔力がないのに、どうやってこの巨大な結界を維持していたんだ」


その瞬間。

地下室の階段を、軍靴の足音を荒げながら駆け下りてきた男がいた。

王国軍の最高戦力である、魔道士団の団長だ。普段は氷のように冷静な歴戦の猛者が、今は軍服を乱し、顔面を蒼白にして叫んだ。


「殿下!! 緊急の解析報告です!!」

「何だ、言え!!」


団長は息を整える暇もなく、手の中の魔力記録紙をレオンの前に突きつけた。


「過去十年間の、結界陣の維持記録を魔力残滓から詳細に解析しました! ……殿下、我々は根本的な勘違いをしていました。この結界は、研究所の自動補正機構などで動いていたのではありません!」


レオンの眉が大きく跳ね上がる。


「は? どういうことだ」


団長の声が、恐怖と畏敬で震えていた。


「ソフィア様です。ソフィア様が、毎夜毎夜、ご自身の指先と絶望的なまでの労力を費やして、この巨大な結界式を『手作業で編み直して』おられたのです!」


「なっ……」


「空気中の微弱な魔力をミリ単位で知覚し、ショートしかけた回路をバイパスし、ズレた刻印を瞬時に再計算して修正する……。そんな神業のような環境魔力の完全制御を、彼女はたった一人で、十年もの間、無休でやり遂げていたのです!! だから、この国は今日まで無事だった!」


重く、冷たい沈黙が、地下室にドスンと落ちた。


レオンの喉が、ヒュッと乾いた音を立てる。


「……そんな、馬鹿な。彼女の魔力はゼロだと、お前たちが計測器で……!」

「計測器が、彼女の異次元の技術を測りきれなかっただけです! 彼女の技術は、ただ魔力を放出するだけの我々とは次元が違う、大精霊にも等しい奇跡だった。……彼女がいなければ、この結界はあと『三日』も持ちません!」


三日。

一週間どころか、たったの三日。


その無慈悲な数字が、王太子の顔から最後の血の気を完全に奪い去った。


「……三日で、国が滅ぶと?」


団長は、力なく首を振った。


「正確には、王都の機能が完全に死滅します。結界が消滅すれば、周辺の森から魔物が無数に雪崩れ込みます。農地は毒に侵され、浄化装置が止まった水路からは未知の疫病が広がるでしょう。……我々魔道士団の武力だけでは、民の命を防衛しきることは不可能です」


レオンの膝が、ガクンとわずかに震えた。

自分が三日前の夜会で、「不要なガラクタ」「無能な寄生虫」と罵り、公衆の面前で切り捨てた女。

それが、実はこの国の『心臓』そのものだった。


マリアは、杖を取り落とし、唇を噛みしめてボロボロと涙をこぼした。


「嘘よ……だって、だって、あんな地味で陰気なお姉様が……この国の心臓だなんて、そんなの絶対にありえないわ……!」


主任研究官が、床にへたり込み、嗄れた声でうわ言のように呟く。


「俺たちは……一体、何という恐ろしいことをしていたんだ」


国の至宝とも言える天才を、カビ臭い地下室に押し込み。

睡眠時間を削らせて壊れるまで無償で使い潰し。

その成果を自分たちの手柄として横取りし、「魔力ゼロの無能」と鼻で笑っていた。


笑っていた自分たちが、今、死の恐怖に震えている。


レオンは、ギリッと血が滲むほど歯を食いしばり、顔を上げた。

その目には、後悔ではなく、保身のための醜い執着が燃えていた。


「……探せ」

「殿下?」

「ソフィアを探せ!! 国境を越えたのなら、近隣諸国に密偵を放て! 何としてでも連れ戻すんだ! 今すぐだ!!」


団長が、ためらいがちに、しかし冷徹な事実を口にする。


「しかし、殿下。彼女に婚約破棄と国外追放という最大の侮辱を与えたのは、殿下ご自身です。今さら頭を下げたところで、彼女が素直に応じる保証などどこにも……」


「応じさせるに決まっているだろう!!」


レオンは狂ったように叫び、己の拳を壁に叩きつけた。


「俺が直接迎えに行ってやる! 王太子妃の座でも、金でも、爵位でも、なんだってくれてやる! 前のように、いくらでも甘い言葉で騙して繋ぎ止めてやる!! ……俺の国のために、彼女は戻らなければならないんだ!!」


その言葉のあまりの自分勝手さと空虚さに、地下室の空気はさらに冷たく凍りついた。

軍人である団長も、研究員たちも、誰一人として肯定の返事をしなかった。


(遅すぎる。何もかもが、あまりにも遅すぎる)


パツン……。

結界核の刻印のラインが、また一つ、虚しい音を立てて消滅した。


遠く、王都の空の上で、魔物の不気味な鳴き声が響き始める。


――愚かな国は、滅亡のカウントダウンが始まって、ようやく気づいたのだ。

自分たちが嘲笑って捨てた“ただのガラクタ”が、実は、自分たちが生きるために絶対に手放してはならない『たった一つの心臓』であったことに。

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