第3話 初めてのお客様は、冷酷無慈悲な氷帝陛下!?
翌朝、ソフィアはふかふかのベッドで目が覚めた瞬間から、激しい後悔と混乱に襲われていた。
(昨日のあれ……夢じゃないわよね……?)
恐る恐る目を開けると、天井の温かみのある木目がやけに現実的だ。暖炉の残り火がパチパチと鳴る音も、窓の隙間から入り込む冷たい空気も、全部ちゃんと“今日”の続きだった。
そして何より、店舗スペースのテーブルの上に置かれたままの『肩こり解消の腕輪』が、昨日の出来事の決定的な証拠として鎮座している。
(氷帝陛下が……うちの店に……来た。しかも、私を専属魔道具師にスカウトして帰っていった)
それだけで胃がキュッと縮み上がる。
ソフィアは冷たい水で顔を洗い、金糸の髪を一つにまとめ、震える手で店の掃除をした。いつも通りに“開店準備”のルーティンをこなすことで平常心を保とうとするが、心臓は早鐘を打ったままだ。
(落ち着いて私。相手は一国の皇帝。無礼があれば即処刑。まずは契約書、絶対に書面での契約書を巻くのよ……!)
昨日の会話を反芻する。
『明日、俺と共に皇宮へ来い』
『労働条件は……すべて、君が決めろ』
条件を決めろと言われても、相手は絶対的な権力者だ。こちらの提示した条件が本当に通るのかすら怪しい。そもそも、なぜあんな高貴な御方が、わざわざ辺境の小さな店まで自分を探しに来たのかが全く分からない。
(あの腕輪が、そんなに大事だったの……?)
ただの、肩こりと冷え性を改善する健康グッズなのに。
開店の札をドアに掛けた直後、街の人が数人、店の前を通りかかった。昨日『靴底のアタッチメント』を買ってくれた鍛冶屋の親方が、大きな手を振って駆け寄ってくる。
「おーい、嬢ちゃん! これ最高だぞ! 今朝の凍った雪道でも全っ然滑らねえ! しかも一晩経っても魔力が切れる気配がねえんだ。嬢ちゃん、一体どんな魔法を使ったんだ!?」
続いて、パン屋の奥さんも『温熱石』を大事そうに抱えて、満面の笑みでやって来た。
「昨夜、湯たんぽ代わりにベッドに入れたら、朝までずーっとポカポカだったのよ! 熱くなりすぎることもないし、最高だわ! これ、銀貨一枚なんて安すぎない!?」
ソフィアは引きつった愛想笑いを浮かべて返す。
「よ、よかったです……。周囲の魔力をちょっと循環させてるだけなので、お気になさらず……」
(街の人に喜ばれるのは嬉しい。すごく嬉しいんだけど……!)
今日の彼女の脳内は、それどころではなかった。
親方と奥さんがホクホク顔で帰っていった、その直後だった。
――ヒュッ。
店内の空気が、物理的にきゅっと締まった。
窓ガラスの結露が一瞬にして凍りつき、美しい氷の紋様を描く。暖炉の火が“揺らいだ”というより、見えない巨大な力によって“押さえつけられた”ように小さくなった。
(来た)
ソフィアが直感した瞬間、カラン、とドアベルが鳴り、静かに扉が開かれた。
昨日と同じ、月光を編んだような銀髪。昨日と同じ、絶対零度の蒼い瞳。
ただし今日は、昨日よりもさらに厄介な状況だった。
護衛がいる。
分厚い外套の下に剣を隠した、恐ろしく体格のいい男たちが二人、アレクシオスの背後に影のように控えていた。無言。だがその視線は鋭く、店内の広さ、出入り口、窓の位置、そして不審物がないかを瞬時に把握している。
明らかに、辺境の小さな雑貨屋を訪れる布陣ではない。
その中央で、氷帝アレクシオスが静かに足を踏み入れた。
その瞬間、外の街の喧騒がスッと遠のいた気がした。圧倒的な覇気が、空間そのものを支配している。
ソフィアの身体が、蛇に見すくめられた蛙のように固まる。
(ど、どうしよう。まず礼。最上級の礼だよね。土下座は違う? 違うけど、でも……!)
限界を超えた緊張により、ソフィアの前世の『社畜の反射神経』が暴走を始めた。
理不尽な重役や激怒したクライアントに詰められた時と同じ、胃の痛みと冷や汗。
ソフィアは、カウンターから飛び出すと、ほとんど反射的に深々と頭を下げた。
「へ、陛下……! お、おはようございます! 昨日はご挨拶も早々に失礼いたしました! 本日はわざわざ足をお運びいただき……いえ、これはしがない小間物屋の開店準備でして……その……」
言葉が完全に迷子になっている。
(まずい。テンパりすぎて何言ってるか自分でも分からない)
しかし、アレクシオスはソフィアの混乱など気にする様子もなく、無表情のままゆっくりと店内を見回した。
棚に並ぶ温熱石、靴底具、携帯用ランプ、簡易防犯結界の札。
どれも、王都の高級魔道具店なら鼻で笑って見向きもしない“日用品”ばかりだ。
だが――アレクシオスの視線が、棚の一角でピタリと止まった。
そこには、昨日見せた『肩こり解消の腕輪』と、同系統の魔力調整具がいくつか並べられている。
ソフィアにとっては、ただの健康グッズ。
しかし、アレクシオスにとっては――命綱。
彼は静かに歩み寄り、一本の腕輪を手に取った。
大きな手のひらに乗せるだけで、彼の強大な魔力に呼応し、腕輪の内側に刻まれた緻密な魔力式が淡く、しかし力強く光り始める。
それを見た背後の護衛の一人が、「あっ……!」と短く息を呑んだのが分かった。
「……これだ」
アレクシオスの声は低く、ひどく掠れていた。
ソフィアは、恐る恐る口を開く。
「あ、あの……それ、肩こりにめちゃくちゃ効きます。あと、冷え性の改善にも……」
場違いすぎる説明をしてしまった自覚はある。
護衛の男たちの顔が、一斉に「は?」というように引きつった。
(だよね!? 皇帝陛下に向かって肩こりグッズの営業してる私、絶対終わってるわよね!?)
ソフィアが心の中で頭を抱えた、その時。
アレクシオスは、笑うでも怒るでもなく、ただその腕輪をギュッと握りしめ、ソフィアを見た。
その蒼い瞳が、昨夜よりもずっと、ずっと切実だった。
「店主。もう一度だけ確認する」
「は、はい……」
「この系統の『魔力制御具』を作ったのは、間違いなくお前だな」
「……はい。私が、昨日の夜に作りました。効果が弱いようでしたら、すぐに直しますが……」
ソフィアが頷いた瞬間。
アレクシオスの広い肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。まるで、何年も何年も張り詰めていた鋼の糸が、ようやくたわんだみたいに。
そして、次の瞬間だった。
バサッ、と外套を翻し。
アレクシオスは、突然、ソフィアの目の前で片膝をついたのだ。
小さな辺境の店の、粗末な木の床に。
他でもない、絶対の権力を持つ氷晶帝国の皇帝が。
「へっ……?」
ソフィアの目が見開かれる。
護衛の一人が「へ、陛下!? こんな平民の小娘に……!」と慌てて一歩踏み出しかけたが、アレクシオスが鋭く片手を上げてそれを制した。
彼は、ソフィアの傷だらけの手を、両手でそっと包み込んだ。
あまりに丁寧に。壊れ物に触れるように、大事そうに。
冷気を纏っているはずの彼の手が、なぜかひどく熱を帯びているように感じた。
ソフィアの喉が鳴る。
(え、え、え、何これ!? 処刑の新しい儀式!? それとも新手の詐欺!?)
アレクシオスは、膝をついたまま、まっすぐにソフィアを見上げる。
蒼い瞳が、雪原の奥底のように深く、静かな熱を孕んでいた。
「……ずっと、探していた」
昨日と同じ言葉。だが今日のそれは、もっと重く、祈りのような響きがあった。
「数ヶ月前、裏市場に流れた一つの“ガラクタ”が、俺の命を救ったんだ」
ソフィアの脳内で、単語が激しく衝突する。
裏市場? ガラクタ? 命を救った?
「え……私、裏市場になんて卸した覚えは……」
「無自覚か」
アレクシオスは苦く笑った。
「お前がどこかで二束三文で売った物が、転売を重ねて裏市場へ流れる。そういうことはよくある。だが、問題はそこじゃない」
彼は、ソフィアの手を握ったまま、もう片方の手で腕輪を掲げた。
「これは、暴走する魔力を完全に制御し、中和する国宝級のアーティファクトだ。しかも、従来のものとは比べ物にならない精度で、術者の魔力を“一切削らずに”最適化して整える」
ソフィアはぽかんとした。
(いや、だから、肩こり解消グッズなんだけど……?)
「……あの、それ、つけると腕が軽くなるやつです。血流じゃなくて、魔力流を良くしてるだけなので」
ソフィアが恐縮しながら言うと、背後の護衛たちが「こいつ、陛下の命綱をマッサージ器扱いしてやがる……」と顔を覆って震え出した。
しかし、アレクシオスは真剣そのものだった。
「お前には腕が軽くなるだけかもしれない。だが、俺にとっては……命が軽くなるんだ」
ソフィアの背筋が、ぞくりとした。
皇帝の言葉は、決して比喩ではない。文字通りの、重い事実だった。
「俺は、生まれつき氷の魔力が強すぎる。放っておけば自らの臓器すら凍りつき、暴走すれば周囲の街一つを死の灰ならぬ『死の雪』で覆い尽くしてしまう。だから、それを抑えるために常に代償を払ってきた」
そう言いながら、アレクシオスは自分の胸元、シャツの胸元を少しだけ開いて見せた。
そこには、古びてどす黒く変色した、金属の枷のような装置が直接肌に打ち込まれていた。
(あれが、今までの制御具……!?)
金属はひび割れ、刻まれた魔力式はショートして焦げた跡がある。限界が近いのは、素人目にも明らかだった。
「これのせいで、俺は常に激痛を伴い、夜もろくに眠れなかった。魔力を抑え込むために、自分の命を削り続けていたんだ」
アレクシオスは再び腕輪を見る。
「だが、偶然手に入れたお前のその腕輪を身につけた夜だけは、違った。痛みが消え、呼吸が楽になり……俺は十年ぶりに、朝まで安らかに眠ることができたんだ」
その一言に、ソフィアの胸がちくりと痛んだ。
――眠れた。
ソフィア自身が、昨日馬車の中で「最高の自由」として噛みしめたばかりの言葉だ。
眠れない苦しみ。休まらない身体。それがどれほどの絶望か、過労死を経験したソフィアには痛いほど分かった。
アレクシオスは、ソフィアの荒れた手を、祈るように額に押し当てた。
「だから、探した。俺の痛みを消してくれた、この温かい魔法を編んだ者を」
彼の声が、わずかに震えている。
「俺は、君に礼がしたい。……いや」
蒼い瞳が、切実な熱情で揺れた。
「俺は、二度と君を失いたくない」
ソフィアの心臓が、大きく跳ねた。
(だめだだめだ! 社畜の勘が全力で警戒しろって言ってる! こういう「君しかいないんだ!」っていうのは、絶対に残業代ゼロで過重労働させるための常套句……!)
「あ、あの! 私はもう、地下室に閉じ込められて無給で働くのは絶対に嫌です! 睡眠時間二時間なんてまっぴらごめんですからね!」
反射的に叫んでしまったソフィアに、アレクシオスは目を丸くし、そしてひどく痛ましそうな顔をした。
「……お前を迫害したという祖国は、そんな狂った環境で君を働かせていたのか。……やはり、俺が直々に滅ぼしておくべきだったな」
「えっ」
「安心してくれ。ここで働け、とは言わない」
「……え?」
「君の生活を壊さない形で、協力してほしい。君が望むなら、この店もそのままにしておいて構わない」
ソフィアは言葉を失った。
“生活を壊さない”。
そんな大前提で仕事の話をする人間を、ソフィアは前世のブラック企業でも、今世の王立研究所でも、一度も見たことがない。
沈黙するソフィアに代わり、護衛の一人がたまらず口を開いた。
「……店主殿。陛下は、今朝方も魔力暴走の発作の兆候がおありでした。ですが……貴女のその腕輪を装着してから、信じられないほど魔力が安定しておられるのです。どうか、どうか陛下を救ってはいただけないでしょうか」
ソフィアは、アレクシオスの手の中にある腕輪を見る。
(そんな……)
自分が“廃材で簡単に作った”物で、人の命が救われる。
その事実が、少し怖い。
怖いけれど、同時に、心のずっと奥のほうで、小さく温かいものが震えた。
(認められた……の?)
祖国では“無能”と呼ばれた。
魔力ゼロの寄生虫だと蔑まれた。
自分のやっていることは、自己満足のガラクタいじりだと言われた。
なのに。
一国の皇帝が、膝をつき、頭を下げるようにしてまで、私を必要としてくれている。
アレクシオスはゆっくりと立ち上がり、改めて真っ直ぐにソフィアを見た。
「今日、皇宮へ来い。形式はどうでもいい。君の望む条件をすべて書面で保証しよう。……来てくれるか」
ソフィアは唇を噛み締めた。
(行くべき? 行かないべき?)
理性の端っこは「権力者に関わるとろくなことがない」と逃げろと言っている。
でも、逃げたら、この腕輪の効果が切れた時、彼はまたあの痛々しい枷で命を削るのかもしれない。
そして何より――。
(労働条件を、自分から提示できる。そんな美味しい話、逃すわけにはいかないわ!)
法務部顔負けの社畜の魂が、そう力強く囁いた。
ソフィアは、深く、長く息を吸い込んだ。
「……わかりました。お受けします。ただし、私から絶対に譲れない条件があります」
護衛たちがゴクリと息を呑み、緊張に身を強張らせる。
アレクシオスは、少しだけ目を細めた。
「言え。金か、領地か」
ソフィアは、はっきりと言い放った。
「私は、毎日定時で帰ります! 残業しません! 徹夜しません! 休日出勤もしません! 有給休暇は完全消化します!」
「…………」
皇帝と護衛たちが、あっけにとられたように沈黙する。
やがて、氷帝の口元が、ほんのわずかに、しかし確かに弧を描いた。
「……良い」
一拍置いて、彼は力強く言い切る。
「むしろ、そうしろ。君がこれ以上その身をすり減らすことなど、俺が許さない」
ソフィアの胸が、じわっと熱くなった。
彼の言葉は、経営者としての単なる許可ではなく、皇帝としての絶対の『命令』だった。
“休め”という、初めてもらう優しい命令。
ソフィアは、最後に付け加える。
「それと、私のこの店は続けたいです。ここが、私の手に入れた大切な“生活”なので」
アレクシオスは迷いなく頷いた。
「続けろ。君の城は、俺が軍を動かしてでも守り抜こう」
(いや、軍は動かさなくていいんですけど)
ソフィアは心の中でツッコミを入れつつ、その場で腕輪をもう一本、綺麗な箱に入れた。
「……これ、持っていってください。今日の分の、替えの腕輪です」
アレクシオスがそれを受け取る手が、少しだけ震えていた。
「代金は?」
ソフィアは一瞬迷い、ニッと笑って言った。
「……後で、契約書の『特別顧問料』に乗せて請求させていただきます」
アレクシオスは短く頷き、踵を返した。
扉の前で立ち止まり、振り返ってソフィアを見る。
「ソフィア」
名前を呼ばれた瞬間、背筋がピンと伸びた。
「……はい」
「お前は、無能などではない。俺にとっての、世界でたった一つの至宝だ」
たったそれだけ。
それだけなのに、ソフィアの視界が不意に滲んだ。
扉が閉まる。
店の中の空気が、ふっと緩む。暖炉の火が元の勢いに戻り、外の街の平和な音が戻ってくる。
ソフィアは、しばらくその場から動けなかった。
(……皇宮に行くの、やっぱり少し怖い)
(でも)
(定時で帰れるなら、やってみる価値はあるわよね)
ソフィアは、胸の前で拳を小さく握った。
(私は、もう二度と壊れない。正当な対価をもらって、幸せになってやるんだから!)
そう心の中で宣言しながら、彼女は店の札をパタンと裏返した。
『臨時休業』
これから皇宮に行くのは、権力者からの理不尽な“呼び出し”ではない。
対等な、ビジネスの『契約交渉』だ。
その認識が、彼女の足取りを少しだけ強く、そして軽くした。




