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第1話 過労死OLの覚醒と、最高の退職(追放)宣言

王立魔道具研究所の地下第三階層は、昼夜の概念が存在しない場所だ。


ひんやりとした石造りの壁面には、青白い光を放つ魔光石が等間隔に埋め込まれている。しかし、その光は冷たく、空気を温めることはない。むしろ、地下特有の淀んだ冷気が、ドレスの薄い生地を通して肌を刺してくる。


その薄暗い空間の中央で、伯爵令嬢であるソフィア・アルヴェーンは、冷たい石の床に膝をついていた。


彼女の目の前には、王都全体を覆う巨大な防御結界の『中枢陣』が広がっている。

床一面に複雑に刻まれた幾何学模様。その溝を埋めるように走る銀色の線――魔力伝導糸が、微かに明滅しながら結界へと魔力を送り込み続けている。


「……ここ、ほんの少し……ズレてるわね」


ソフィアは小さく呟き、ひび割れた指先で極細の銀線を摘み、編み直す。

彼女の傍らに置かれた魔力量計測器の針は、ピクリとも動かない。「魔力ゼロ」を示したままだ。


魔力がないのに、なぜ結界のメンテナンスができるのか。

それは、ソフィアが空気中に漂う微弱な魔力マナを、己の指先と緻密な計算式だけで物理的に編み上げるという、常軌を逸した技術を持っているからだ。


だが、そんな神業を理解できる者は、この研究所にはいない。


『魔力もないくせに、結界に触るな』

『どうせ形だけ整えているフリだろう』


周囲の研究員たちは、今日も遠巻きにソフィアを嘲笑っている。


寝不足で視界がぐらりと揺れた。

最後にベッドで眠ったのはいつだったか。もう三日は徹夜が続いているはずだ。美しいはずの金糸の髪は脂と汗で貼りつき、目の下には濃い隈が落ちている。

指先は銀線で切れて細かな傷だらけだ。とても、貴族の令嬢の手ではない。


それでも、ソフィアは手を止めるわけにはいかなかった。


止めれば、この国を守る結界が綻び、魔物が王都に雪崩れ込んでくる。

王家が威信をかけて誇る絶対防御の要。その実態は、いつの間にかソフィア一人の“サビ残”によってギリギリ維持されているという、自転車操業のような状態だった。


無給。

休日なし。

平均睡眠時間、二時間。


「ソフィアお姉様ぁ、まだそんなガラクタいじりをしているんですかぁ?」


不意に、甘ったるい声が上から降ってきた。

重い頭を上げて振り返ると、そこには過剰なほどフリルがあしらわれたドレスを着た少女が立っていた。

義妹の、マリアだ。

侯爵家の血を引く彼女は、その豊富な魔力量から“可憐な聖女”として持て囃され、この研究所の広告塔として君臨している。


「今夜は王宮で大切な夜会ですよ? 王太子殿下もいらっしゃるというのに、こんな地下で泥遊びなんて……本当に陰気で、みっともない」


マリアは扇で口元を隠し、クスクスと笑う。

ソフィアは反論する気力すら湧かず、再び視線を結界式へと戻した。


マリアはふん、と鼻を鳴らし、取り巻きの研究員たちへわざとらしく囁く。

「魔力ゼロの無能なのに、プライドだけは高いから、こうして仕事をしているフリをして居座るのよ。本当に、国のお荷物でかわいそうよねぇ」


かわいそう。

その言葉の使い方は、明らかに間違っている。


ソフィアの胸の奥に、怒りとも悲しみとも違う、どろりとした鉛のような疲労感が沈澱していく。


(……今日も、定時には帰れない)


いや、そもそもこの研究所に「定時」という概念など存在しないのだ。


「ソフィア! まだ終わっていないのか!」


足音荒く地下階段を駆け下りてきたのは、研究所の責任者である主任研究官だった。恰幅の良い体を揺らし、苛立ちを隠そうともしない。


「今夜は夜会だと言っただろう! お前は伯爵令嬢であり、第一王子であるレオン殿下の婚約者だ。少しは王家の体裁というものを考えろ!」


「……体裁、ですか」


ソフィアの口から、乾いた声が漏れた。

体裁。その言葉を守るために、彼女はどれほどのものをすり減らしてきたのだろう。


「早く上がれ! ドレスと化粧係は用意させてある。殿下が“お前の顔を見たい”と仰っているんだ。これ以上、殿下を待たせる気か!」


それはお願いではなく、絶対の命令だった。


ソフィアは、結界式の最後の結び目をギュッと締め直す。

今夜、この糸がほんの少しでも緩めば、明日には街の防壁が崩れ落ちるだろう。だが、それを彼らに説明したところで無駄だ。ここでは、国の危機よりも「夜会の体裁」の方が重んじられるのだから。


ゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、視界が激しく明滅した。

床が波打ち、天井の魔光石がぐるぐると回る。


「ソフィア様!?」


誰かの焦った声が遠くで聞こえたが、ソフィアは意地で足を踏ん張った。

ここで倒れてはいけない。倒れたところで、誰も休ませてはくれない。休めないのなら、倒れる意味がない。


――意味。

その単語が、ソフィアの重い頭の片隅に、妙に引っかかった。


◇◇◇


王宮の大広間は、地下室とは対極にあるような、眩しすぎる空間だった。


天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、昼間のような光をフロアに落としている。色とりどりのドレス、きらびやかな宝石、むせ返るような香水と極上の料理の匂い。

音楽団が奏でる優雅なワルツに合わせ、貴族たちが歓談の花を咲かせている。


ソフィアは侍女たちに無理やり着せられた豪奢なドレスを纏い、髪を結い上げられていた。

鏡に映ったのは、確かに“伯爵令嬢”の姿だった。しかし、厚塗りの化粧でも隠しきれない目の下の濃い隈と、落ちくぼんだ頬が、彼女の過酷な現実を雄弁に物語っていた。


「――ソフィア」


その声に、ソフィアはビクッと肩を震わせた。

大階段の上から、一人の青年が降りてくる。

輝くような金髪に、サファイアのように青い瞳。誰もが振り返る完璧な容姿を持つ“光の王子”――第一王子、レオン・ヴァルディス。


ソフィアの、婚約者だ。


「殿下……」


ソフィアがふらつく足でカーテシー(挨拶の礼)を取ろうとした瞬間、レオンは冷ややかな笑みを浮かべて言い放った。


「君、相変わらず酷い顔色だね。研究所でまた寝ていなかったのか? 令嬢として、あまりにもみっともない」


場を和ませる冗談のつもりなのか、彼の言葉に周囲の貴族たちが愛想笑いを浮かべる。

しかし、ソフィアの胸には冷たい刃が突き立てられたような痛みが走った。


「……申し訳ありません。結界の調整が長引きまして――」


「結界、結界と。君はそればかりだな」


レオンは呆れたように手を振った。


「そんな裏方の泥仕事は、下働きの研究員にでもやらせておけばいいだろう。君の役目は、婚約者として美しく着飾り、僕の隣で微笑むことだ。なぜそれが分からない?」


役目。

その言葉が、ソフィアの胃をきゅっと締め付ける。


ソフィアが何かを言い返す前に、レオンの腕に、白いドレスの少女が甘えるように絡みついた。


「殿下ぁ、お待たせいたしました」


義妹の、マリアだった。

まるで自分が正当な婚約者であるかのように、レオンの腕に胸を押し当てて見上げている。周囲の貴族たちの視線が一斉に集まり、下世話な興味の熱を帯びた。


「マリア……?」


ソフィアの喉が、ひゅっと鳴る。

マリアはレオンにうっとりとした視線を送った後、わざとらしくソフィアの方を向き、同情を装った声で言った。


「お姉さま、いつもお疲れ様です。研究所でこき使われて、本当にかわいそう。でもね、殿下には……殿下の隣には、もっと“ふさわしい”方が必要なのよ」


ふさわしい。

その言葉の真意を、ソフィアは嫌でも理解させられた。


レオンは重々しいため息をつき、広間に響き渡る声で宣言した。


「ソフィア。ここで、はっきりさせよう」


音楽団の演奏が止まり、大広間の喧騒が潮を引くように静まり返る。


「君は――魔力がカラッポだ」


ざわっ、と波のような囁きが広がる。


「おまけに研究所での仕事も遅く、何一つ目ぼしい成果を上げていない。控えめに言っても無能だ。……そんな国のお荷物を、次期王妃として迎えるわけにはいかない」


ソフィアの耳の奥で、ドクン、ドクンと嫌な音が鳴り始める。


「殿下……お待ちください。私は毎日、一人で結界の維持を――」


「維持? 笑わせるな」


レオンは冷酷に言い捨てた。


「君がいなくても、結界は正常に機能しているじゃないか。つまり君は必要ない。君が毎日やっているのは、ただの自己満足の“無駄な作業ガラクタいじり”だ」


周囲の貴族たちが、一斉に頷く。

研究所の主任研究官までもが、当然だという顔でレオンに同調している。


マリアが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて追撃する。


「それにね、お姉さま。これからの結界は、真の聖女である私の有り余る魔力で守っていくことになったの。だからもう、無能なお姉さまが無理をする必要はないのよ?」


無理。

無理をしていたのは、誰のためだ。

誰が、この国を――。


「よって、決断を下す!」


レオンの声が、決定的な一撃となって降り注いだ。


「ソフィア・アルヴェーン! 貴様との婚約は破棄する! さらに、貴様をこの国から追放とする! 我が王国に、無能な寄生虫を養う余裕はない!」


断罪の言葉が、シャンデリアの光を反射して鋭く突き刺さる。

その瞬間、ソフィアの膝から完全に力が抜けた。


全身の血の気が引き、心臓が凍りつく。視界が急速に暗転していく。


――ああ、これで終わりだ。


普通の令嬢なら、絶望のあまり泣き叫ぶか、気絶していただろう。

しかし。


限界を超えたソフィアの脳内で、バチンッ、と何かが弾ける音がした。


◇◇◇


『終電、もうないよね? タクシー代出ないけどよろしく』

『明日も朝イチでクライアントの無茶振り対応だから、徹夜で仕様書直しといて』

『有休? 何言ってんの? リリース前なのに空気読めよ』

『やる気ある? できないなら辞めれば? 代わりはいくらでもいるんだから』


チカチカと点滅する蛍光灯の白い光。

デスクに山積みにされたバグだらけの仕様書。

冷え切ったコンビニ弁当の匂い。

胃を焼くようなエナジードリンクの味。


キーボードの上に突っ伏した頬が、ひどく冷たかった。

息が上手く吸えない。胸が締め付けられるように痛い。モニターの文字が霞んで見えない。


それでも、背後の席の上司が苛立たしげに言う。


『あと三日、死ぬ気で耐えればリリースだから。手、止めないでね』


耐えれば?

何を?


――耐えた先に、何があるというの?


その答えは、永遠の暗転だった。


◇◇◇


ソフィアの目が、カッと見開かれた。


「……あ」


口から漏れた声は、あまりに間抜けな響きだった。

彼女の内側に雪崩れ込んできた記憶は、あまりにも鮮烈で、理不尽で、残酷で――そして、今の状況と恐ろしいほどにリンクしていた。


(そうだ、私……前世、日本のブラックIT企業でデスマーチの末に過労死した、社畜OLだったわ……!)


サビ残、徹夜、休日出勤のフルコンボ。

理不尽な上司の罵倒に耐え、身を粉にして働き、最後はデスクで心臓が止まって――死んだ。


(……死んで異世界に転生したのに、またブラック労働してたの!? バカじゃないの私!!)


ソフィアは、弾かれたように顔を上げた。


目の前には、豪奢な王宮。

嘲笑う貴族たち。

見下してくる傲慢な婚約者。

勝ち誇る性悪な義妹。


そして、彼らが突きつけてきた「国外追放」の宣告。


――国外追放。

ソフィアの、いや、元・社畜OLの脳内で、その言葉の定義が急速に書き換えられていく。


追放=クビ。

クビ=会社都合の退職。

退職=……自由!!!


(えっ……これ、合法的に辞められる最高の退職理由では!?)


心の底から、歓喜の笑いが込み上げてきた。

今までの二度の人生の中で、間違いなく一番の朗報だった。


「……ふ、ふふっ」


静まり返っていた大広間に、ソフィアの笑い声が響く。

泣き崩れるはずの令嬢が突然笑い出したことで、会場の空気が異様なものに変わった。


マリアが不気味なものを見るように目を丸くする。

「お、お姉さま……?」


レオンが不快げに眉をひそめた。

「……気でも狂ったか」


ソフィアは、ゆっくりと背筋を伸ばした。

三徹明けの身体は相変わらず鉛のように重い。視界もまだ少し揺れている。

だけど、心だけは羽が生えたように軽かった。


(これで、もう徹夜で結界のメンテをしなくていい!)

(カビ臭い地下室に閉じ込められなくていい!)

(休日出勤、ゼロ! サビ残、ゼロ! パワハラ上司もどきの婚約者ともおさらば!)


控えめに言って、天国じゃないか。


ソフィアは、この日一番の、満面の笑みを浮かべた。


「承知いたしました、王太子殿下」


その声は、会場の隅々まで届くほどに澄み切っていた。

予想外のあっさりとした返答に、レオンが少しだけ面食らった顔をする。


「……ほう。随分と素直だな。自分の無能さをようやく認めたか」


ソフィアは笑顔のまま、首を横に振る。


「いいえ。つきましては、清算をお願いしたく存じます」


「清算?」


「はい。過去十年間の、王立魔道具研究所における私の労働に対する正当な報酬です。未払い分の残業代、休日出勤手当、深夜労働割増――それから、劣悪な環境下での危険手当と、精神的苦痛に対する補償金ですね」


大広間が、ざわっ、と大きく波立った。

華やかな貴族の夜会で、「残業代」や「手当」といった生々しい単語が飛び出すなど、誰も想像していなかったのだ。


ソフィアは、さらに畳み掛ける。


「加えて、一方的な婚約破棄に対する慰謝料。公衆の面前での不当な名誉毀損に対する賠償金。国外追放に伴う準備費用、移動費、及び新天地での生活再建費の全額負担を要求します」


レオンの顔色が、みるみるうちに赤黒く染まっていく。


「ま、待て! 貴様、何を言っている! 伯爵令嬢の分際で、そんな下賤な金の話を――」


「下賤?」


ソフィアは小首を傾げた。


「では、殿下。私が過去十年間、毎夜身を削って結界を維持しなかった場合、この王都は何日無事でいられたとお思いですか?」


その冷ややかな問いに、答えられる者は誰もいなかった。

レオンは言葉を詰まらせ、研究所の人間たちは一斉に目を逸らす。


ソフィアは淡々と、しかし毅然とした態度で続けた。


「私は、私の命を削った労働に見合う対価を請求しているだけです。……労働者の、当然の権利ですから」


マリアが、慌ててレオンの腕にすがりつきながら口を挟んだ。


「お、お姉さま! みっともないわ! お金に汚いなんて、貴族の恥よ! 結界なら、真の聖女である私が――」


「あら、そう。じゃあ聖女様、明日から一人で結界のメンテ頑張ってね」


ソフィアはにこやかに、バッサリと切り捨てた。


「私は本日をもって、退職クビになりますので」


“退職します”。

前世で何度喉まで出かかって、飲み込んできた言葉だろう。

実際に口に出してみると、その響きはたまらなく甘美だった。


レオンが、ついに堪えきれずに怒鳴り声を上げる。


「ソ、ソフィア! 貴様は追放だ! 国を追われる罪人に払う金など一銭もないわ!」


ソフィアは、すっと一歩引き、完璧なカーテシー(礼)の姿勢をとった。

見た目は優雅な伯爵令嬢の所作。しかし、レオンを見据えるその目は、修羅場をくぐり抜けてきた『歴戦の社畜』の鋭さを持っていた。


「追放されるからこそ、先払いで一括請求させていただきます。退職後の未払いトラブル(踏み倒し)は御免ですので。明日の朝一番で、財務部へ請求書をお持ちしますわ」


会場が、完全に凍りつく。

ソフィアは最後に、毒気を抜かれたように立ち尽くす元婚約者と義妹へ向けて、花が咲くような笑みを向けた。


「――それでは皆様。最高の退職理由をいただき、心より感謝申し上げます。ごきげんよう!」


そう言って、ソフィアはドレスの裾を翻し、一切の未練なく背を向けた。


背後でレオンが何かをわめき、マリアが悲鳴のような声を上げ、貴族たちがどよめいていた。

しかし、その騒音はもう、ソフィアの耳には届かない。


彼女の頭の中を占めているのは、たった一つの希望だけだった。


(よし。まずは明日の昼まで、死ぬほど寝よう!)


カビ臭い地下室の床ではなく、清潔で柔らかいベッドで。

誰にも、何にも起こされることなく。


ソフィアは、スキップでもしそうなほど軽い足取りで、大広間を出ていった。


――この時、彼女が捨てた『ガラクタ』が、数日後に祖国を滅亡の危機に陥れることなど、誰も知る由はなかった。

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