4-24 妖精騎士異聞〜ノンシュガー・グリーンティーは甘くない〜
大学三年生の天ヶ崎光宗が夏休みを利用して一人旅に来たのはシンガポール。東南アジアの常夏の国に、期待を胸に訪れた彼を襲ったのは謎の男たちだった。
よくわからないことを言われるままに拘束され、存在を消されそうになった彼を助けたのは――蒸し暑いこの街で氷を生み出し、風を操る男の二人組。スリーピースを着こなしたサミュエル・ホークストンとアロハシャツが似合うマノア・ウェービー。
彼らは〝妖精騎士〟。それは人間でありながら妖精に認められ、妖精を守るために戦う、妖精のための剣。そして、シンガポールで蔓延る妖精の鱗粉を不当に利用した謎の飴――〝幸運の誘惑〟を追っていたのだった。
パァン、と頬を張る音が、廃屋に響いた。
「痛ってぇ……」
埃っぽい暗い室内の中央で、天ヶ崎光宗は椅子に縛り付けられていた。鉄錆の味が口内に広がり、ペッと血を吐き捨てる。
日本から飛行機で約七時間。東南アジアの常夏島にして一つの国家であるシンガポールに夏休みを利用して遊びに来たはずだった。過去に家族旅行で海外に行ったことはあれど、一人旅は初めて。どんな経験ができるかと不安とわくわく感で心躍らせながら降り立ったというのに――シンガポール一日目、昼。周囲を取り囲むのは、一目で鍛えていると分かる体躯のアジア人の男が五、否六人。その後ろで、なよっとした青年が困ったように光宗を見ていた。
「いやあ、こんなに可愛らしい〝妖精騎士〟に手は上げたくないんですけどね?」
ありふれたラフな服装で、ドロップタイプのピアス飾りを弄びながらこれ見よがしにクスリと笑う。胡散臭いサングラスを外し、Tシャツにつるを引っかけるさまは遊び人のようだった。流暢に口から滑り出す英語は、ヨーロッパ出身のような発音の癖がない。
「何いってんだ、あんた」
「すっとぼけがお上手で。妖精のための剣、妖精の騎士?」
「はぁ?」
何言ってんだこいつ。
怪訝だと表情筋すべてを活用して訴えかける光宗に、こつ、こつと足音を響かせながら一歩ずつ近寄る男。目の前でじっと見降ろす焦げ茶の目がすうっと細められ、低めのポニーテールにまとめた黒髪をぐいっと掴んだ。
「いッ!」
「綺麗な髪だよね。いかにも妖精好きしそうだ」
否応なしに突っ張る頭皮に、呻き声が漏れる。小さい頃からヘアドネーションやらなにやらで、最早伸ばし切っていることに慣れてしまった長髪。痛みに口を歪めて顔を背ければ、髪を離した手で乱雑に顎を掴まれ。
「ぐぁ、ぅ」
至近距離で交わる視線。あらわになった喉仏が、唾を飲み込んで上下する。無理やり覗き込むように合わされた焦げ茶の瞳は、底のない沼のように淀み冷え切っていた。
「〝幸運の誘惑〟に嫌悪感を示したのはお前だけなんだよ」
「だ、から……あんた! 何の、話を」
俄かに響く、ドガァン、という破壊音。それを皮切りに廃屋の入口があった方角が騒がしさを増していく。
「主上、客人来了」
「あーあ、もうタイムリミットか。お迎えが早いなあ」
パッと手を離され、ようやく気道に酸素が巡っていく心地で肩で呼吸をする光宗。息も絶え絶えに男を見上げれば、サングラスを掛けなおしてひらりと手を振る。
「それじゃ一足先に失礼するよ。――不留痕迹」
「是的!」
喧噪から逃れるように男が姿を消せば、残されたのは拘束されたままの光宗と戦闘訓練を受けているであろう出で立ちの男たち。入口の方を警戒する者、自動小銃を準備する者といずれも戦いの準備をする中で一人。サングラスの男と唯一会話交わしていた、戦闘部隊のリーダー格と思われる男が光宗の周りをぐるりと迂回すると、背後に回る。
「……な、んだよ、ッぐ」
無言でチョークスリーパーを掛けられ、先程とは比べ物にならないくらいに絞められる。
「カ、はッ、ぅ」
椅子に縛り付けられたまま持ち上げられ、自重でさらに締めあげられる首。塞がれた気道、行き場のなくなった二酸化炭素と送られてこない酸素にくらりと意識がふらついて目を閉じる。ああ、最後に緑茶が飲みたかったな。ばあちゃんの、急須でいれてくれた甘みのある温かい緑茶が。血が上ったままの顔が赤く上気して、常夏の暑さの中で肌寒さを感じる。
いや、肌寒さなんでものではない。正真正銘に、寒い。
ありえない感覚にうすらと目を開ける。ぼやける視界でなんとか焦点を合わせれば、崩れた倉庫の壁を乗り越え入って来るスリーピースを着こなした青年が一人。
彼を中心に広がる、霧のような薄靄。
かつーん、かつーんと足音が響く度に光宗を襲う寒気が増していく。
「不要来!」
自動小銃を構えた男が、銃口を向けながら叫ぶ。それに青年は足を止めると。
「人質を発見。救出します」
独り言ちるように呟いて。
ためらいもなく、踏み出した一歩。
「凍れ」
パァンパァンと爆ぜる火薬。連続して鳴るつんざく銃声が落ちかけの光宗を鼓膜を刺す。
フッと首を絞めている男の力が緩み、少しだけ意識が浮かびあがる。
見えるのは、青年の足元から聳える大きな氷の盾。
そして彼を中心放射状に凍った床に、太ももまでがっちり氷漬けにされた屈強な男たちの姿。
平均最低気温が二十五度の、この常夏の島ではあり得ない光景だった。
「は、……幻覚、かよ」
「い~や、現実なんだよなあ、コレが」
「什么人!?」
響いた声に、リーダー格の男が耳元で叫ぶ。
さらにその後ろにいたのは、アロハシャツに身を包んだ日焼けと大柄な体躯が特徴的な髭面の男。
「いくぞ、オラッ!!」
間髪入れずに振りかぶられた拳は、不自然な風の動きを纏い加速しながら炸裂。
本人は数メートル身体を宙に舞わせて吹っ飛んでいく。
その勢いに巻き込まれた光宗は、括り付けられた椅子ごと地面に投げ出された。受け身を取れずに打ち付けられた肩や腰が痛むが、呻き声も最早かすかだ。
「すまん! やべ、巻き込んじまった。おーい、ダイジョウブか?」
「ダイジョウブか、だって?」
身体を締め付ける圧迫感がなくなり、縄が解かれただろうことを感じる。しかし、光宗はもう限界であった。そこそこ長時間のフライト、初めての一人旅のワクワク感、見知らぬ土地でよくわからないまま拘束され、打たれ、チョークスリーパー。挙句の果てに目の前で繰り広げる銃撃戦。
「ダイジョウブじゃ、ねーわ……!!」
「おお、い、おい!? すまん、サミュー! 落ちた!!」
* * * * *
湿った空気と、植物の青い匂い。そしてドドドドドドドドドと滝の流れ落ちる音がする。
「ん、う」
しぱしぱと瞬きをしながら身体を起こせば、ベンチで寝かされていたらしい。植物園だろうか、ガラス張りのドームの中で草木が整備されながらも生い茂っている。観光客だろうか、スマートフォンを片手に写真を撮っている人の姿が多い。
「……起きたか」
声がする方を向けば、青年が優雅に足を組んで隣のベンチに座っていた。その服装は、先程倉庫でおぼろげにみたスリーピースと似ている。
「あんた。さっき助けに来てくれたヤツ?」
「嗚呼。サミュエル・ホークストン」
サミュエル、と名乗った青年は、表情を変えず切れ長の瞳から何の感情も見えない碧眼が覗いている。
「サミュエルでいい」
「あーっと、サミュエルさん。助けてくれて有難うございました」
光宗がそう言いながら頭を下げると、無言で差し出される見覚えのあるボディバッグ。
「俺のヤツ!!」
「中身を確認しておくといい」
一も二もなく受け取る。使い古し具合も、合成皮革に付いた傷跡も間違いなく光宗のものであることを示しており、確かにあの謎の男たちに拘束された際に取り上げらえたものだった。中身をみれば、幸運なことに持ち物全部が一つとして欠けずに残っている。パスポートやお金、スマートフォンもである。
「よかった、マジで助かった……!!」
つくづく、シンガポールに来てすぐ取っていた宿にスーツケースを預けておいて良かったと嘆息した。
「あ! 起きてるじゃねーか! サミュ、なんで呼んでくれなかったんだよ~」
明朗快活な声で割って入るのはアロハシャツの男。見間違えようがない、この二人組は確かに光宗を助けに来た二人組らしい。
「別に帰って来るところだっただろう」
「あ、あの!! お二人とも、俺の代わりにあのクソ野郎たちをぶん殴ってくれて有難うございます!!」
「ふはっ!! どういうお礼だよそれ~。あ、オレはマノア・ウェービーね」
「名乗ってなかった、すんません。俺、天ヶ崎光宗って言います」
軽く自己紹介をしながら、握手を交わす。どこか不愛想なサミュエルに対して、マノアは朗らかかつ友好的な雰囲気を纏ったシンガポールの気風を体現したかのような男だった。
「日本人か。何をしにシンガポールへ?」
そう言いながらサミュエルはどこからか取り出してきたペットボトルのお茶を光宗に差し出す。グリーン・ティーとパッケージに書かれたそれは、どうやら緑茶らしい。未開封なことを確認した上で、喉が渇いていたのもあり有難く頂戴する。
「今、夏休みで大学が休みだから、一人旅に。シンガポールにしたのは、ばあちゃんに勧められたからだな」
「そっかそっか。じゃあどうしてミツムネはアイツらに掴まってたんだ」
「分からない。けどなんだっけ、〝妖精騎士〟とか、〝幸運の誘惑〟とか言ってたな……」
思い出しながら話す光宗の言葉に、サミュエルとマノアの顔が強張る。それに気が付くことなく、ぱき、と無事空いたペットボトルの蓋を外して口を付ける。
ペットボトルを傾け、緑茶を含めば――広がるのは、殺人的な甘さ。
「あっっっっっま!! んだこれ?!」