25.彼女が真に願うもの
侍女を手で制し、自ら紅茶を淹れる淑女。
ミスリア五大貴族が一家、エトワール本家夫人でありヴァレリアの母。セシルの姿がそこにはあった。
「もう、この子ったら。普段は全然帰って来ようとしないのに、来るとなったら連絡のひとつもくれないんだから」
わざとらしく眉を顰めながらも、どこか品格を漂わせる。
やはり娘が顔を見せてくれたのは嬉しいのだろう。言葉とは裏腹に、セシルの声は弾んでいた。
「いや、だから。アタシもそれなりに忙しいんだって」
「はいはい、騎士団長様だものね。立派に成長してくれて、お母さんは嬉しいわ」
「~~っ。いつまでも子供扱いしないで欲しいんだけど……」
弁明するヴァレリアと、彼女の言い分を軽く受け流すセシル。
眼前には騎士団長の顔とは違う顔をする師の様子が広がっている。
勇ましい様子とは全く違う、どこか可愛げのあるヴァレリアをイディナは眺めていた。
もしかすると、これを話のタネにする事も出来たのかもしれない。
けれど、今のイディナにその余裕はない。
不意に招かれた貴族の屋敷。それも五大貴族のものだというのだから緊張もひとしおだった。
「あら、イディナさん? もしかして紅茶はお嫌いだったかしら……?」
「いっ、いえ! いただきますっ!」
物憂げな表情を見せるセシルに、イディナは罪悪感を抱いてしまう。
折角、自分の為に紅茶を淹れてくれたのだ。飲まない方が余程失礼だ。
反射的に背筋を伸ばしながら、彼女は紅茶を喉へと流し込む。
「わちゃっ!?」
「イディナさん!?」
ただ、カップに注がれた紅茶はまだ熱を持っている。
それは不用意だったイディナの口内を瞬く間に侵食し、灼けるような痛みを彼女へ与えた。
口から逆流させなかったのは、意地に近かった。
部屋を汚してはいけない。無礼な真似を働く訳にはいかない。
その一心で、イディナは口に含んだ紅茶をそのまま飲み干す。
舌は勿論、喉から食道に掛けてがヒリヒリと痛む。
紅茶の通った即席を、イディナはその身で体験していた。
「だ、大丈夫か……?」
「は、はい」
隣ではイルシオンが心配そうに声を漏らす。
またも反射的に彼の方を向こうとしたイディナだったが、今度は自らの意思によって顔を逆方向へと動かした。
(し、失礼な態度を取っちゃった……)
尤も、その行動さえもイディナは後悔をしている。
膝の上へと乗せた握りこぶしに、自然と力が込められていく。
解っている。イルシオンはこれぐらいで腹を立てたりはしない。
次に笑って顔を合わせれば、きっと何とかなるはず。
けれど、出来ない。どこか気まずくて顔を合わせ辛い。
ヴァレリアの提案でラットリアへ移動している間もどこかぎこちなく、ヴァレリアを介さなくては上手く話せない。
これがイルシオンとイディナの現状だった。
自分はイルシオンに好意を抱いている。
イルシオンもまた、自分に好意を抱いてくれていた。
端から見れば、これ以上ないぐらいの両想いだ。
恋する乙女であれば、完璧に等しい状態。
なのに、イディナは決して浮かれる事が出来なかった。
イルシオンは五大貴族が一家、ステラリード家の次期当主。
平民である自分とは、決して身分が釣りあわない。
そして、イルシオンにはクレシア・エトワールという想いを馳せる相手が居た。
死して尚、彼を護りきった稀代の魔術師。彼女が生きて居れば、きっと自分など見向きもされなかっただろう。
何度も何度も、自分へと言い聞かせた諦める為の方便。
自分の中で納得していたそれが、明るみに出てしまった状態にイディナはただただ気まずさを覚えていた。
(イディナを困らせてしまっているな……)
尤も。決してその感情はイディナからイルシオンへの一方通行ではない。
彼もまた、イディナへ対してある種の申し訳なさを覚えていた。
彼女は騎士団の中でも、とっておきのムードメーカーだ。
決闘まで挑んでくるディダの事を思えば、人気の高さが窺える。
事実、イルシオン自身も彼女にどれだけ救われたか解らない。
そんな彼女から笑顔を奪っているのが、他でもない自分なのだから困ったものだ。
クレシアを護りきれなかったという精神的外傷。
何より、彼女を愛していると公言しながらイディナへ好意を抱いてしまったという事実。
イルシオンもまた、思い通りにいかない自分の感情に困り果てていた。
そして何より、二人を困惑させているのは現状だ。
ヴァレリアに連れられ、ラットリアのエトワール家へと招待されてしまった。
言われるがままに同行したのは良いものの、彼女の真意がなにひとつ解らない。
「――それで、ヴァレリアちゃんの用件は何なのかしら?
わざわざ、イルシオン君とイディナちゃんまで連れてまで」
コトリと、ソーサーとカップの重なる音が部屋に響く。
とても小さな音だったにも関わらず、イルシオンとイディナの鼓膜はそれを正確に捉えた。
またしても反射的に、二人の背筋がピンと伸ばされる。
「ああ――」
対照的に、二人を連れて来た張本人であるヴァレリアは落ち着いた様子だった。
セシルと全く同じ所作でカップをソーサーの上に重ねると、彼女はあっけらかんとした表情を見せる。
「イルの奴がイディナを好きなんだけど、コイツがヘタレててさ。
いつまでもクレシアを理由に逃げ回ってるから、ちょっとムカついて連れて来た」
「ヴァレリア姉!?」
動揺を隠せず、立ち上がるイルシオン。
若干。若干ではあるが、そんな予感はしていた。
わざわざエトワール家へと連れていくのだから、クレシアに関わる事だろうと。
ただ、まさかここまで苛立ちを露わにされるとは思っても見なかったが。
「あと、イディナもイルシオンを好きなんだけど同じくヘタレてるんだ。
貴族じゃないからだとか、イルがクレシアを引き摺ってるからだとか。
いつまでもグダグダしてるからこっちにもちょっとムカついてる」
「ヴァレリア先生!?」
同じく動揺したイディナが、イルシオンと全く同じ挙動を見せる。
思わず吹き出してしまうヴァレリアだったが、二人にとってはそれどころでは無かった。
「あら、そうなの」
仕草。声色。表情。どれをとっても、イルシオンはセシルの感情を読み取る事が出来なかった。
ヴァレリアの告発によって生まれた動揺と、自身の胸の内にある後ろめたさが彼の中から正常な判断を奪っている。
ひとつだけ言い切れるとするならば、良い気をしているはずがないだろう。
自分はクレシアの母である彼女へ、「世界で一番愛している」とまで言ったのだ。
イディナへ惹かれている自分を赦せるはずがない。
「イルシオン君」
「……はい」
静かに自分の名を呼ぶセシルを、イルシオンは正面から受け止めようと決めた。
息子のようとまで言ってくれた女性の気持ちを裏切ってしまった。その罰は受けなくてはならないのだから。
「クレシアはね。あれで結構やきもち焼きなのよ。
イディナさんに惹かれていると知れば、嫉妬しちゃうかもしれないわね」
「ぅ……」
返す言葉もないと、イルシオンは口を噤む。
確かにクレシアは、アメリアやオリヴィアの話をしている際も不機嫌だったような気がする。
「けれどね。あの子は本当に君のことが好きだったのよ」
「はい……」
セシルがひとつ言葉を紡ぐ度に、クレシアとの記憶が蘇る。
込み上がってくるのは、罪悪感。向けられた先は、クレシアとイディナ。
こんな唐変木を好いてくれた二人に、自分は傷付ける事しか出来ていない。
こんなことなら自分は、ディダに敗けておくべきだったのかもしれない。
本当に自分の事しか考えていない、最低な奴だと自嘲したその時だった。
「だから、イルシオン君は幸せにならないと駄目じゃない」
「……え?」
真意が汲み取れないイルシオンは面を喰らってしまう。
セシルから語られたのは、自分の幸福を案じる声だった。
「君が悩んでいるのは、クレシアのことを想ってくれているからでしょう?
きっとあの子も嬉しく思っているはずよ。
だけどね、それを理由にして自分の幸せを諦めちゃうのならあの子は悲しむわ。
クレシアは絶対に、イルシオン君の幸せを願ってる。これだけは、間違いないから」
イルシオンは言葉を失う。
彼女への気持ちを理由に全てを蔑ろにした自分が情けない。
セシルの言う通りだ。クレシアは誰かの不幸を願うような娘ではない。
「そう、ですね。クレシアならきっと――」
知っていたはずなのに、理解していなかった。
誰かに言われて漸く気がついた。
生かしてくれた彼女の為にも、自分は幸せになる義務があるのだと。
(クレシア、すまない。……ありがとう)
イルシオンは涙が零れ落ちるのを止められない。
ひとつひとつの雫がクレシアへの情愛を示しているかのように。
彼は、胸の内に秘めていた想いを吐き出していた。
「分かってもらえたようでよかったわ」
セシルが告げると、イルシオンは小さく頷く。
上げられた顔から、迷いや戸惑いの類は見られない。
その姿を見て、セシルは優しく微笑んだ。
「……さて、と」
イルシオンの方は、気持ちに整理がついた。けれど、もうひと仕事残っている。
そう言わんばかりに、セシルはイディナへと向き合う。
「イディナさんはもう少しだけ、私に付き合ってもらえるかしら?」
「え? はっ、はいっ!」
先ほど彼へ向けたと同じ、包み込むような微笑みの矛先が向いた。
その事実に驚きながらも、イディナは三度背筋を伸ばす。
「ヴァレリアちゃん。イディナさんのこと、少し借りるわね」
「ああ、母上の好きにしてくれ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
含み笑いを見せるヴァレリアと、微笑みを絶やさないセシル。
セシルに連れられ、戸惑いを隠せぬままイディナは部屋を後にした。
……*
「ここは……」
セシルに連れられたのは、広い部屋だった。
窓から庭が眺められるように設置されたベッド。
机の上には彫金を行う為の道具が綺麗に並べられている。
すぐに理解した。ここは、クレシアの部屋なのだと。
「気付いているかもしれないけれど、クレシアの部屋よ」
時をほぼ同じくして、セシルが呟く。
想像通りの答えを前にして、イディナは改めて部屋を見渡した。
彼女が亡くなってから四年が経過したとは思えない程、手入れの行き届いている。
きっとクレシアだけではなく、グロリアの部屋もそうなのだろう。
もしかすると、ずっと王都へ出たままのヴァレリアの部屋さえも。
娘達に対する愛情の深さが垣間見え、イディナは頭が下がる思いだった。
「イディナさんにも、これを見てもらいたくてね」
「これは……?」
「クレシアが、イルシオン君のために書き留めていたものよ」
セシルが引き出しから取り出したのは、一冊のノート。
かつてイルシオンにも見せた、クレシアの想いが綴られた大切な記録。
「クレシアさんが……」
パラパラとページを捲り、彼女の遺したものへ内容に目を通す。
イルシオンを護る為に考案された魔術付与の術式と、彼への想いが書き綴られている。
イディナはクレシアと面識を持っていない。
にも関わらず、理解できた。彼女がイルシオンをどれだけ強く、深く、大切に想っていたかを。
「ね? あの子ったら、イルシオン君のことが大好きでしょう?」
「……はい」
苦笑をするセシルに釣られて、イディナは笑みを溢した。
イルシオンの言っていた通りだ。クレシアが護ってくれていたからこそ、彼はこうして生きている。
そして、気が付いた。自分の好きなイルシオンは、クレシアとの日々によって生まれたのだと。
「だからね、イディナさん。私はイルシオン君には幸せになって欲しいの。
こんな無関係なおばさんが口出しすることじゃないって分かってるけど……。
どうか、お願い。彼を、幸せにしてあげてください」
「セ、セシルさん! 顔を上げてください……!」
突然の出来事に、イディナは面を喰らってしまった。
五大貴族の夫人が、平民である自分へ深々と頭を下げている。
畏れ多い状況にたじろぎながらも、彼女はセシルの言葉を真摯に受け止めた。
「ぼくにどれだけのことが出来るのか、まだ自信はありません。
でも、精一杯。ぼくなりに、イルさんを幸せに出来るように頑張りたいです」
イディナの心から、後ろ向きな気持ちは消えていた。
当たり前だ。それらしい理由を並べて諦めた所で、悔いしか残らない。
何より、イルシオンが自分の事を好いてくれていた。
それからも逃げていては、彼をずっと真摯に想っていたクレシアに対しても失礼極まりない。
「ぼくも……。クレシアさんに逢ってみたかったです。
逢って、お話をしてみたかったです」
「もしかすると、喧嘩になっちゃうかもしれないわね。
あの子、イルシオン君のことになると譲らないから」
「それでも、話してみたかったです」
きっとクレシアは、自分の知らないイルシオンの姿を沢山話してくれる。
自分もまた、彼女には見せないイルシオンの顔を教えてあげられたかもしれない。
同じ男性を好きになったのだ。仲良くなれるはずだと、強く思う。
イディナは、古ぼけた一冊のノートに誓う。
彼女が全てを賭してでも護り抜いた愛する男性を、幸せにしてみせると。
それが自分なりの、クレシアへの恩返しなのだと信じて。
……*
「セシルさん、それにヴァレリア姉も。苦労を掛けました」
「ぼくも、大変ご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げるイルシオンとイディナ。
ただ、二人とも言葉とは裏腹に気持ちは吹っ切れたようだった。
「ウチのことは気にしなくていい。それに、どっちかっていうとこれから本番だろ?
イディナの親御さんにも、ちゃんと説明しなきゃならないんだからな」
「あ! そうでした!」
悪戯っぽい笑みを浮かべるヴァレリア。
彼女の言う通り、ラットリアにはイディナの実家がある。
報告はおろか挨拶すらせずに王都へ帰るというのは、聊か礼節に欠ける行動だ。
「分かってる。ちゃんと、イディナのご両親にも話すよ」
「イルさん……!」
イルシオンは迷う事なく、イディナの実家へ向かうと告げた。
突然の事にイディナの両親は驚くかもしれない。
特に彼女の父親は、イディナを溺愛しているのだから尚更だ。
それでも、きちんと筋は通すべきだとイルシオンは考える。
貴族である自分が平民である彼女を弄んでいるなどと、万が一にも思われたくない。
自分のこの気持ちは真剣なのだと伝えると同時に、認めてもらいたい。その一心で。
「そうかい。頑張れよ」
「二人とも、またいつでも遊びに来てね」
「はい、是非!」
ヴァレリアとセシルに見送られながら、イルシオンはイディナと共にエトワール家を後にする。
近くて遠かった二人の距離が縮まる姿に、ヴァレリアは穏やかな表情を浮かべていた。
この瞬間までは。
「――ところで、ヴァレリアちゃん」
和やかな気持ちから一転。
僅かに低くなったセシルの声に、ヴァレリアの背筋がピンと伸びる。
「イルシオン君とイディナちゃんが上手く行くように背中を押すのはいいけれど。
ヴァレリアちゃん本人はどうなのかしら?」
「ア、アタシ? ほら、アタシは騎士団長としての責務がいろいろと……」
顔を引き攣らせながら、決して目を合わさないように目線を動かし続けるヴァレリア。
ムッとした表情で、セシルは彼女の顔を見上げ続けた。
「忙しいのはいいけれど、そろそろ縁談のひとつの受けてくれないかしら?
お母さん、イルシオン君よりずっと心配しているのよ」
「いやぁ、今はそれどころじゃないっていうか……」
「いっつもそうやってはぐらかしてるじゃない!」
イルシオンやイディナが居る時には見せなかった、強い圧がヴァレリアを襲う。
娘を二人喪い、残った長女がいつまでも独り身で居るというのだから口を出さずには居られないのだろう。
セシルの行いは、あくまで娘を想っての行動である。
それを理解してるからこそ、ヴァレリアも強くは出られない。
「そりゃあ、お母さんもある程度は好きにするべきだと思うわよ?
だけどね。エトワール家の次期当主という立場も忘れちゃダメでしょう?」
(ああ、やっぱりこうなるよなぁ……)
実家に帰れば縁談の話になる事は解り切っていた。
それでも帰ったのは、イルシオンとイディナの為だ。
「ヴァレリアちゃん、聞いてるの? お母さんも、真剣なんだから!」
「はいはい、聞いていますよ」
セシルの小言を上の空で聞きながら、ヴァレリアは二人の未来が良いものである事を祈る。
少なくとも、自分のこの犠牲が無駄にならないようにと切に願っていた。




