22.交錯する想い(前編)
法導暦0521年。
イルシオン・ステラリードは今日も悪を断つべく、剣を振るっていた。
魔術大国ミスリアに根付いている悪意の種を、ひとつ残らず消し去る為に。
困っている人々からひとつでも笑顔を取り戻す為に。
それが自分を護ってくれたクレシアに出来る、唯一の恩返しだと信じて。
彼女と共に目指したものを、彼は今も真っ直ぐと見据えている。
その中には、一握りの後悔も添えられていると自覚しながら。
……*
早朝の訓練場。イルシオンは、顔を洗おうと井戸を求める。
王都近くの洞窟で見つかった魔物の巣を駆逐するまでは良かったものの、いかんせん時間がかかりすぎた。
終えた頃には既に空は明るく、結果的に誰よりも早く顔を出す事となる。
(ね、眠たい……)
自室へ戻るまで気力は保つだろうかと一抹の不安を覚えた時。
突如、弾む様な声と一枚のタオルがイルシオンへと差し出される。
「イルさんっ! お疲れさまです!」
「イディナか、助かる」
イルシオンは受け取ったタオルで、顔に残った雫を拭き取っていく。
白いタオルの隙間から視線が重なると、イディナは少し照れ臭そうに俯いていた。
彼女と知り合って4年。
イディナは18歳。イルシオンは22歳になっていた。
初めて逢った時よりは大人びているが、まだあどけなさは残っている。
尤も、精神的には大きく成長しているだろうが。
少なくとも、当時の自分と比べるとイディナは落ち着いてるとイルシオンは感じていた。
「イディナは今から訓練か?」
「はいっ!」
「そうか、頑張れよ」
「はい!」
イルシオンが問うと、イディナは八重歯を見せながら返事をする。
こういうやり取りは出逢った頃から何も変わっていない。ある意味では、安心感を与えてくれる。
「イルさんは、これからお休みですか?」
「そうだな。魔物の討伐で朝まで掛かってしまったからな……。
さすがに、一度眠ろうと思う」
どうやら話している最中に欠伸が出てしまう程、疲れているようだ。
最近は少し根を詰めすぎたきらいがある。ここいらで一度、身体を休める必要があると感じていた。
「休まないと、ヴァレリア先生に怒られちゃいますもんね」
欠伸をするイルシオンを見て、イディナはくすくすと笑う。
このまま無理をしようものなら、きっとヴァレリアに「自己管理も仕事のうちだ」とどやされるのが目に見えている。
「ヴァレリア姉は怒らせると怖いから、勘弁して欲しいところだな」
「あはは」
怒られる様がありありと浮かぶのか、イルシオンは眉を下げた。
ヴァレリアは先の戦いで妹を二人喪っている。
更に言えば末っ子のクレシアは死して尚、イルシオンを護り抜いた。
だからだろうか。
ヴァレリアは他の誰よりも、イルシオンの身を案じているのだ。
イルシオンも彼女の気持ちを理解しているからこそ、あまり無茶をして困らせたくはなかった。
「すぐにゲンコツが落ちてくるし、説教も長いからな。
アレはヴァレリア姉の悪いところだと思わないか?」
……が、あくまでそれは心内の話。
露骨に気を遣う事はイルシオンもヴァレリアも望んではいない。
だから、こうやって愚痴混じりの軽口を漏らす事だってある。
「あ、あはは……」
「イディナ?」
イディナだって、ヴァレリアの愛弟子だ。
よく分かっているだろうと同意を求めようとしたところで、彼女の表情が強張っている事に気付いた。
「あのう、イルさん……」
言いづらそうにする彼女の様子を見て、イルシオンは全てを察した。
繰り返すようだが、気を遣いすぎないようにと愚痴混じりの軽口を漏らす事は珍しくない。
ただ、当然ながらそれが本人の耳に入る場合だってある。
今、この瞬間の様に。
「ほぉう。なら心配をかけないようにしてくれないか?」
「ヴァ、ヴァレリア姉……」
イルシオンが恐る恐る振り返った先には、両腕を組んでじっと睨みつけるヴァレリアの姿があった。
元々長身の彼女が更に怒気を含んでいるのだから、その威圧感は相当なものだ。
「お前の仕事が早いのは結構だが、もう少し慎重にやれって言ってるだろ!
無理と無茶は、最終的に自分に返ってくるんだよ!」
間髪入れずに始まるヴァレリアの説教。
朝の目覚ましかと思うほどの声量が、訓練場に響き渡る。
「……すまない、ヴァレリア姉。でも、近くの村に住む人たちは困っていただろう。
一日でも早く解決をしてやりたかったんだ」
彼女の忠告を聞き入れながらも、イルシオンは反論をする。
解っている。自分が多少の無茶をしている事ぐらいは。
それでもイルシオンは、一日でも早く脅威を取り除きたかった。
かつて抱いていた英雄症候群などではない。皆が力を合わせて護った世界を、誰もが享受して欲しいから。
きっとクレシアなら、呆れた様子を見せながらもついて来てくれる。
今でも彼女を想っているからこそ、イルシオンは自然と身体を動かしていた。
あの日々を噛み締める様に。
「ったく。だったら、せめて今日はゆっくり休め」
イルシオンは眠たそうではあるが、見た限りでは怪我をしている様子はない。
その点は流石だと言いたいところだったが、無茶をしている以上は素直に褒められない。
頭をガシガシと掻きむしりながら、ヴァレリアはイルシオンへ休息を促す。
「ああ、ありがとう。ヴァレリア姉」
「そん代わり、明日はビシバシ行くからな。覚悟しておけよ」
「……ああ。イディナも、またな」
「はい、イルさん。また明日」
とはいえ、ヴァレリアは気遣いこそしても甘やかしたりはしない。
不穏な言葉に若干の寒気を感じつつも、イルシオンは訓練場を後にした。
「……ったく。アイツは本当に」
イルシオンが居なくなると同時に、ヴァレリアから大きなため息が漏れた。
恐らくは無理や無茶をする彼に対する心配と、無事に帰って来た事に対する安堵だろう。
「イルさんは、優しいひとですから」
一方のイディナは苦笑いをしながら、ヴァレリアを宥める。
彼女もそれを知っているからこそ、納得をしてくれるはずだ。
そう想っていたイディナだが、ヴァレリアからは意外な反応が飛び出る。
「まあ、アタシが言いたいのはイルだけじゃないけどな」
「えっ?」
きょとんと、目を点にするイディナ。
彼女の反応にヴァレリアはもう一度大きなため息を吐き、人差し指を彼女へと突きつけた。
「イディナ、お前もだ。イルの帰りが遅いからって、ずっと起きて待っていただろう」
「あの、それは、ええっと……」
まさかバレていたとは思わず、イディナは吃ってしまう。
ヴァレリアの指摘通り、彼女も眠れぬ夜を明かしていた。
それは単にイルシオンの身を案じた祈りの時間として消化された。
彼の無事を紅龍王の神剣を造ったとされる焔と清浄の神へ願う。
自分の願いが届いたかは定かではない。
けれど、無事なイルシオンに再会出来た事が答えだと感じていた。
「そんなに心配なら、お前もついて行けばよかったんだ」
「ぼくもそうしたいですけど……」
ヴァレリアの言う通り、イディナは本当なら自分も連れて行って欲し伊藤考えている。
けれど、邪神との戦いからイルシオンは自分を戦いへ同行させた事はない。
初めは力不足からだと考えた。
けれど、騎士見習いから正式に騎士となった今でも彼は自分を連れてはいってくれない。
先刻のように、会話は普通に交わせるのに。
言葉にできないもどかしさが、イディナの胸の内には募っていた。
自らの胸元をギュッと抑えるイディナを前に、ヴァレリアは再び頭を掻いた。
ヴァレリアにとって、イディナは可愛い弟子だ。ずっと稽古をつけていたのだから、自ずと彼女の気持ちにも気付いていた。
イディナはイルシオンに好意を抱いている。
けれど、イルシオンが彼女を同行させないからか、後一歩が踏み切れないでいるようだった。
(あっちもこっちも、世話がやける)
側から見ている身としては、じれったい。
ここは背中を押してやるかと、ヴァレリアは一肌脱ぐ事を決めた。
「あのな、イディナ。イルは案外バカだぞ。
じーっと奥ゆかしくしても何も進まんから、好きなら好きって伝えた方が楽だ」
「すっ……!」
今まで誰にも打ち明けていなかった本心が実はバレていた。
その事実はイディナに大きな動揺を与える。
焦るあまり反応そのものが答え合わせになると考える余裕すら、彼女は持ち合わせていなかった。
「イルだって、イディナに好かれて嫌とは思わないぞ?
素直に気持ちを伝えるのも、悪くないと思うけどな」
ヴァレリアは当てもなく、イディナに愛の告白を促している訳ではない。
彼女はイルシオンの事も子供の頃から知っている。彼の性格を把握しているからこそ、分は悪くないと踏んだ。
それに、イルシオンのようなタイプは自分を大切にする理由が必要だ。
家庭を持てば必然的にそうなってくれるだろうという願いも込められていた。
「……無理ですよ」
「どうしてだ?」
しかし、イディナの反応は芳しくない。
ヴァレリアはイルシオンからの好意に自信がないのかと尋ねるが、彼女は首を横に振る。
「イルさんは五大貴族で、ぼくは平民ですよ。身分が違いすぎます」
「そんなのは――」
「気にしなくて良い」と言えない自分が、ヴァレリアはもどかしかった。
イディナの言う通りだ。平民を娶る貴族は稀に見かけるが、側室として迎える事が多い。
五大貴族の本妻が平民というのは、恐らく前例がないだろう。
それこそ、ストルのように妖精族だと話が違ったかもしれないが。
何より自分がそれを促した事により、間接的にステラリード家の力を弱める工作をしたと勘繰られてしまう。
王族や他の五大貴族はイディナの働きを知っているからこそ、理解を示してくれるだろう。
問題はその威光が届かない場所での話。
自分たちの影響が及ばない場所で傷付くのは、他でもないイディナ自身だった。
それでも。
ヴァレリアは、身分の違いで諦めてほしくは無かった。
身ひとつで騎士を目指し、見習いの立場で必死に戦って来た彼女を知っているから。
吸血鬼族との戦いではイルシオンを支えてくれた。
最後の決戦では、フィロメナを護ろうとしてくれた。
マギアから来たオルガルやオルテールだって、力を貸してくれたきっかけを作ったのはイディナだ。
彼女は自分が思っている以上に、この国に貢献してくれている。
権力だけを振り翳す醜い貴族よりも余程、イルシオンに相応しいとさえ考えている。
「イディナ、あのな……」
だから、彼女を支えるのは自分の役目だ。
ヴァレリアがそう伝えようとした時。イディナはもう一度、口を開いた。
「それに、イルさんの心にはクレシアさんがいます。
ずっと見ているから、分かるんです。イルさんが、どれだけクレシアさんを大切にしているかを」
突然出て来たクレシアの名に、ヴァレリアは言葉を失った。
クレシア・エトワールはイルシオンにとっても、ヴァレリアにとっても大切な存在だ。
イディナ自身は面識を持たないが、どんな女性だったかは想像がつく。
命の全てでは足りない。尽きても尚、愛する男性を護った。
彼女がいたからこそ、今のイルシオンがいるのだと。
「イルさんの心の中で、きっとまだクレシアさんは生きています。
だからぼくが入る場所は、残ってませんよ」
「イディナ……」
少しだけ物悲しそうな笑顔を見せるイディナ。
ヴァレリアはイルシオンとクレシアの事を考えてくれている彼女へ、それ以上何も言えなかった。
「でも、もっと強くなればイルさんの横に立てる日が来るかもしれませんから!
ヴァレリア先生、今日もご指導お願いいたします!」
「あ、ああ」
しんみりとしか空気を嫌ったのか、イディナはぐっと拳を握る。
どこかもどかしさを抱いたまま、ヴァレリアは首を縦に振る。
せめてこの願いは自分が叶えてあげられる様にと。
他には誰もいないと思われた、早朝の訓練場。
イディナとヴァレリアはこの会話が聴かれているとは、露にも思ってはいなかった。




