19.譲れず、譲らず
ずっと抱き続けていた願いが、現実のものとなる。
居住特区を歩けば、祝福の声が鼓膜を撫でる。自分が笑顔を振りまくより先に、周囲の笑顔が視界に映る。
リタと婚姻を結ぶと約束した瞬間から、レイバーンの胸の中には幸せで満ちていた。
だからこそ、余計に心苦しいと感じてしまった。
風に乗って運ばれる剣呑な雰囲気と、リタの沈んだ声が漂うこの空間が。
何とかしなくてはならない。
その一心で、レイバーンは自らの腕を精一杯に伸ばした。
驚くイリシャやレチェリも、眉を顰めるダスクの存在さえも彼は正しく捉えられてはいない。
それでも。リタが安堵の表情を浮かべたという事実だけで、己の行動が正しいものだと確信をしていた。
……*
「レイバーン……」
「リタ、心配無用だ。後は余がこの者と話をつけようではないか」
「う、うん」
ダスクは妖精族の血を。特に高位妖精族のものを高潔だと考えている。
故に、他の妖精族よりも排他的な考えを持つ。
魔狼族と鬼族の混血であるレイバーンは、彼にとって最も受け入れ難い存在だろう。
話し合いの末に納得をする可能性は極めて低い。リタは本能的にそう感じていた。
「レイバーン、ごめんね……」
それでも。彼女はレイバーンへ縋る事を選んだ。
この問題は自分独りのものではない。二人で乗り越えていかなくてはならない。
最愛の男性がそう考えていてくれていると、感じ取れたから。
「レチェリも、リタのために声を上げてくれたことを嬉しく思うぞ」
「ですが、結局私は何の力にも……」
レイバーンの笑顔とは対照的に、レチェリの表情が暗い。
説得に至らないどころか、危うくダスクの挑発に乗ってしまうところだった。
事態の悪化が避けられたのは、彼が来てくれたからだ。
「言ったであろう。声を上げてくれたことが嬉しいのだ!
おかげで余は、この者と真っ直ぐに向き合うことができる」
「……そう言っていただけると、光栄です」
だが、レイバーンは決して笑顔を崩さない。
周囲の様子を窺えば分かる。居住特区に住む事を選んだ妖精族が、レチェリに肯定的だと。
彼女は間違いなく与えてくれたのだ。魔獣族の王に、勇気を。
「……全く、笑った顔にも品が感じられない。
妖精族とはまるで違う。所詮は蛮族か」
「余としては、上手く感情を伝えられているつもりなのだがな」
安堵の空気を壊すように、ダスクが呟く。
レイバーンが自分よりも遥かに小さな妖精族と向き合うと、再び緊張感が周囲を支配した。
(さて、このような説得……。いや、交渉になるのだろうか。
どちらにせよ、余はあまり得意でないのだがな)
妖精族は聡い。自分がただ想いをぶちまけた所で、事態は好転しないだろう。
それこそ他種族との溝を深めてしまえば最悪だ。「不慣れだから」で済ませられる問題ではない。
(シンなら、どうするだろうか)
レイバーンの脳裏に浮かぶのは、友人の姿。
リタがフェリーへ子供を見せたいと語った時。彼もまた、同じ情景を思い浮かべていた。
生まれも育ちも、種族すらも違う友人へ自分達の未来を見て欲しい。
その願いを叶える為に。レイバーンはシンの行動にヒントを求めた。
共に過ごし、背中を預け、時には旅もした親友。
いつも眉間に皺を寄せながら、彼が考えていたものを理解しようと努める。
しかし、そう上手くは行かないとレイバーンが気付くまでに時間は必要としなかった。
(……考えてみれば、あやつはいつも銃口を向けていた気がするぞ)
彼の記憶は正しい。シン・キーランドはその仏頂面と銃口を武器に相手と渡り合ってきた。
どこからどうみても交渉の類ではない。真似でもしてみれば、事態が悪化するのは明らかだった。
とても参考にはならないと冷や汗を流すレイバーン。
一方で彼は気付く。シンのやり方ではなく、考え方そのものに。
(そうか。シンはいつも必死だったのだ。
強引な手段を用いたとしても、成し遂げたいものがあったから)
彼は何よりもフェリーを大切に想っていた。
その上で、仲間や友人。邪神さえも、救いたいと願っていた。
大切なものを何ひとつ譲りたくない。その姿勢を貫いたからこそ、彼は幸福を掴む事が出来たのではないか。
(余にとって、譲れないものは――)
そう思えた時。レイバーンは自然と答えを導き出す事が出来た。
同時に、ダスクの行動に違和感を覚える。後は言葉にして、確かめるだけだった。
「レイバーン……?」
「む。すまぬ、少し考えごとをな」
口を噤んだレイバーンへ、不安な表情を覗かせるリタ。
それほど長く沈黙していたつもりはないのだが、彼女に心配をかけてしまうようでは未熟と評する外ない。
レイバーンは彼女の笑顔が好きだ。
一刻も早く取り戻す為に、彼は妖精族の老人へと語り掛ける。
「ダスク殿。お主は女王の、リタの幸せを願っているのか?」
「当然ではありませんか。ですから、高位妖精族の後継者さえ残していただければ、貴方との婚姻を――」
「嘘だな」
女王の幸せを願わないはずがない。
そんな事も解らないのかと小馬鹿にするダスクを、レイバーンは一蹴した。
「お主のように、他種族との関わりを避ける妖精族は少なくない。それぐらいは余も知っている。
何せ居住特区が出来るまで、ストルにはとても邪険に扱われていたからな」
今では遠い昔のように感じられる。
ストルもまた『排他的な妖精族』を絵に描いたような存在だった。
けれど彼は自分とリタの仲を認め、居住特区を認め、更には人間の女性に恋をした。
誰しも、見識が広がれば考え方も変わる。
彼は妖精族という枠組みから一歩を踏み出し、変わった。
「ストルのように私たちにも心変わりをしてもらおうと頭でも下げる気ですかな?
今更、里を棄てた者の名を挙げたとしても意味はありませぬぞ。
そもそも、リタ様とストルでは立場が違う。我々には高位妖精族の導きが必要なのですから」
「違う。ストルは妖精族の里を棄てたわけではない。
それに余が伝えたいのは、ストルが寛容になったことではない。
寛容になる前も、その後も。決して変わらなかったことがあると伝えたいのだ」
「ほう。それでは、教えて頂けますかな?」
獣風情に、妖精族の何が理解できているというのか。
見下した態度を隠そうともしないダスクだったが、レイバーンは動じない。
ありのままに感じた事。純然たる事実を彼へと告げる。
「ストルは、真にリタの幸せを常に願っていたことだ」
魔獣族を邪険に扱っていたのは、リタの身に万が一が起きてはならないから。
居住特区が出来ていこう、引き離される様な事は起きなかった。
それはリタの幸せを願う気持ちは不変だった証明に他ならない。
ただ、彼の思うリタの幸せ。彼の考え方に沿ってその形が変わっただけだ。
「……っ」
リタは思わず、両手で口元を覆った。
彼が過保護だったのは、自分を心配してくれていたから。
今なら解る。小言ひとつにも、愛があったのだと。
「何を言うかと思えば! 私もストルも、同じですぞ!」
「いいや、違うのだ。お主はリタ・レナータ・アルヴィオラではなく、高位妖精族しか見ておらぬ」
次の瞬間。ダスクの顔が強張ったのをレイバーンは見逃さなかった。
図星を突かれた老人の表情からは焦りと怒りの色が露わになっていく。
「私の主張が間違っているとでもいうのか!?
高位妖精族の存続は、妖精族の総意だ!」
台詞とは裏腹に、明らかな動揺の含まれた声色。
緊張から発せられる汗の臭いに、魔獣族の王が気付かないはずはなかった。
「間違っているかどうかを判断するのは、余ではない。ましてや、お主でもない。
だが、妖精族の総意というのであれば、お主はどうして居住特区へ現れたのだ?」
「えっ……」
「そうか、族長会議……!」
益々顔を歪めるダスク。唖然とするリタ。
レイバーンの言葉の意味をいち早く察したのは、レチェリだった。
「レチェリの言う通りだ。妖精族は定期的に、族長が集まっているではないか。
居住特区に好意的でない者は、お主だけではないのだろう。
ならば、リタと余の結婚で意見が割れるのは必至だ。それなのに、お主は会議で声を上げることをしなかった」
違和感に対する仮説をひとつ立てる。
真偽は相手の反応で感じ取れる。そうすると、次に続ける言葉に力が宿る。
望んだものへ、少しだけ手が伸ばせる。
「ストルがそうであったように、他の族長もリタの幸せを望んでいるからだ。
お主だけがリタではなく、高位妖精族に固執をした。
だから、止める手段は居住特区に現れるしかなかったのだ。良くないものだと、印象付けるために」
言葉を重ねながら、レイバーンは遠く離れた地で過ごす友人の姿を思い浮かべた。
彼は、シン・キーランドはこうやって生きて来たのだと。
自分よりもずっと若く、ずっと早くに寿命を迎えるはずなのに。
まだまだ人間から教わる事が多いものだと、苦笑をした。
「……そうだとしてもだ! リタ様は高位妖精族の末裔だ!
その高貴なる血が途絶えた後に過ちだったと気付いても、もう遅いのだ!
取り返しがつかない! 私の考えが、間違っているというのか!?」
(退かぬか……!)
聡い妖精族が、粗暴な魔獣族に心中を言い当てられる屈辱を前にしても、ダスクは退かない。
退いてしまえば、高位妖精族の血は途絶えてしまう。
ここから先は、互いが主張をぶつけ合うしか道は残されていない。どんな強硬策に出るか解らない。
レイバーンが警戒を強めようとした矢先。
闖入者により自体は一変する。
「ダスク。貴方は間違っているわ。主張も認識も、何もかも」
「誰なのだ……!?」
まるで鳥の囀りのように美しく響く声を、レイバーンは知らない。
しかし、その場にいた妖精族。リタやダスク、レチェリにとっては聞き覚えのある声だった。
「この声は――」
「うそ……」
反射的に全員の視線が、声の主へと集まっていく。
視線の先には美しい銀色の髪を靡かせる女性と、彼女に寄り添う男性の姿。
髪の隙間から尖った耳を覗かせた事から、妖精族だと認識をしたのも束の間。
リタの口から発せられる正体に、レイバーンは驚きのあまり目を見開いた。
「お母さん!? お父さんまで!?」
「おっ――」
「お母さん、お父さん!?」
リタの両親を前に、レイバーンとイリシャが顔を見合わせる。
互いに顔を見合わせる仕草が、自分は初対面であると伝えあっていた。
尤も、彼ら以上にリタやダスクは驚きを隠せないだろう。
何せ愛と豊穣の神へより深く祈りを捧げると、50年は里へ姿を出していない。
妖精族にとっても、大事件であるのは間違いなかった。
「久しぶりね、リタ」
そんな状況をどこ吹く風と言ったところか。
リタの母。エリアナは周囲の空気を意に介する事なく、柔らかな笑みを浮かべていた。
「と、突然どうしたの!?」
「そうね。可愛い娘の顔を、久しぶりに見ないといけないかなって思ったのよ」
エリアナの後ろでは、夫であるウィレスが頷く。
あまりにも唐突で奔放な両親に、リタは呆気にとられる。
一方で、みるみる顔が青ざめていく者が一人。
つい先刻までリタを丸め込もうとしていた妖精族の男。ダスクだ。
「ところで、ダスク。高位妖精族がどうとか、力説してくれていたようだけれど?」
「そ、それは……。その……。高位妖精族の血を、リタ様の代で途絶えないようにするべく……」
エリアナの透き通った声を前にして、ダスクは身体を小さく丸めながらぼそぼそと声を漏らしていく。
蘇るのは古の記憶。彼女が女王を務めていた際に叩きこまれた主従関係が、否が応でも身体を強張らせる。
「貴方にとって高位妖精族は、そんなに大切なものなの?」
「と、当然です! 妖精族には、高位妖精族の導きが必要なのですから!」
「私の娘に、望まぬ子を産ませようとしてまで?」
その言葉には、明らかな怒気が含まれていた。
エリアナの剣幕だけではない。後ろて佇むウィレスからも、同様の威圧感が発せられている。
「お、お言葉ですが……! 我々妖精族は、高位妖精族によって導かれてきました。
多くの時間を注いで、紡いで来たこの伝統をそう簡単に覆せるでしょうか……!?
万が一、妖精族の歴史が途絶えてしまえば! 愛と豊穣の神様にも、申し訳が立ちませぬ!」
しかし、ダスクにも譲れないものはある。
これまで妖精族を導いてきたのは、紛れもなく高位妖精族だ。
簡単に諦められるような、そんな軽い存在ではない。
エリアナは愛と豊穣の神に強い信仰心を抱いている。
その名を出されれば、決して無視は出来ない。ダスクにとっても、最後の賭けだった。
「つまり、貴方は愛と豊穣の神様へ強い信仰を持っているからこそ、高位妖精族の血を途絶えさせたくはない。
リタへそう訴えているということなのね?」
「え、ええ! 無論です! 愛と豊穣の神様あってこその、我々妖精族なのですから!」
「お母さん!」
期待した反応を前にして、ダスクは青ざめた顔に血が通い始める。
対照的に、まずいと感じたリタは思わず身を乗り出してしまう。
「リタ、心配はいらない。母さんに任せておくんだ」
「お父さん……?」
何としても母を説得しなくてはならないと焦る娘を止めたのは、父であるウィレス。
彼の眼差しは何も心配する事はないのだと、愛娘へと語り掛けていた。
ウィレスの言葉に嘘はない。
彼らはこの状況下に於ける前提を、壊す為に現れたのだから。
「確かに、私たち妖精族は愛と豊穣の神様に導かれてここまで繁栄してきたわ」
「そう、そうですとも!」
強く頷くエリアナの姿に、ダスクは確かな手応えを感じていた。
あと一押しで、リタとレイバーンの結婚を止められる。自分は正しいのだと、思い込んでいた。
今、この瞬間までは。
「なら、リタがこの殿方と結婚することに何も問題はないわ」
「は……?」
エリアナから発せられた言葉は、ダスクの耳を素通りしていく。
聞こえてはいるが、受け入れられない。頭の中を整理するよりも早く、彼女は続く矢を放っていた。
「リタは妖精王の神弓の継承者よ。正真正銘、愛と豊穣の神様に認められた妖精族の女王。
レイバーンさんと恋仲になってもそれは変わらない。だったら、もう答えは出ているじゃない」
「やられた」とダスクが感じた時には、もう遅い。
彼が自分の主張を押し通すのであれば、妖精族を想っての発言ではなくては筋が通らない。
最も手軽な方法としては、信仰する神である愛と豊穣の神の名を用いる事。
エリアナが狙っていたのは、まさにその愛と豊穣の神の名前だった。
それが強烈な反撃になると気付く事なく、ダスクはまんまと彼女の望むままに口を滑らせたのだ。
「それを貴方は、高位妖精族さえ産んでくれればいい?
私の娘を、随分と軽い女だと見積もってくれていたようね」
「そ、それは……」
穏やかな言葉遣いから一転。
次第に、エリアナの言葉が重苦しくなっていく。
張り付いた笑顔の奥に潜んでいるのは、確かな怒りだった。
「と、まあ。ここまでにしておきましょう。
貴方を糾弾することを望んでいる者など、ここにはいないでしょう。
何より、これから話すことは貴方にも大きな意味を持つでしょうから」
「は……?」
このまま怒りが爆発するのかと思われたが、意外にも彼女は落ち着いている。
肩透かしを喰らったような気分になるダスクだが、まだ油断は出来ないと気を引き締める。
何より、最後の一言が気になる。
リタだけではなく、自分にも利の在る言葉。その心当たりが、ダスクにはない。
尤も、それは彼の想像力が足りないだけだった。
いいや、ダスクだけではない。この場に居る誰もが、予想だにしていない答えを彼女は持ち合わせていたのだから。
「リタだけが高位妖精族の末裔ではなくなるわ。
私、赤ちゃんを授かっているの」
本心ではずっと伝えたくて堪らなかったのだろう。
満面の笑みで、エリアナははっきりと言い放った。
「――は?」「えっ……」
突然の宣言に広がる波紋は、ダスクだけが対象ではない。
特に先代女王であるエリアナを知る妖精族達さえも、言葉を失ってしまう。
「おっ、お母さん!? ほ、ほ、本当なの!?」
当然、リタの動揺はこの場の誰よりも大きく。その衝撃は計り知れない。
父と母の顔を交互に見ながら、何度も瞬きを行い、母に再度答えを求めた。
「ええ。リタ、貴女はお姉さんになるのよ」
「え、えええぇぇぇぇぇっ!?」
そんなリタの反応を楽しみながら、エリアナは首を縦に振る。
声が枯れるまで叫んだあとも、空いた口が塞がらない。
妖精族の女王。リタ・レナータ・アルヴィオラは、ただただ状況に呑み込まれていた。




