18.高貴なる血
リタとレイバーンが正式に婚約を結んだという話題は、瞬く間に里中へと広がった。
居住特区に暮らす妖精族や魔獣族は大いに喜び、小人族や人間も盛大に祝おうと張り切っている。
アルフヘイムの森に存在する湖。
日課でもある愛と豊穣の神への祈りを終えたリタが顔を上げる。
「私、本当に結婚するんだ……」
発言を振り返る時間に比例して、リタの顔は火照っていく。
ぽつりと呟いた言葉の意味は、理解している。
だからこそ嬉しさと気恥ずかしさと、待ち遠しさが押し寄せているのだから。
子供が欲しいと訴えた時に、レイバーンは二つ返事で頷いてくれた。
周囲が醸し出す温かい雰囲気に包まれた時も、くすぐったいながら嬉しかった。
「――嬉しいな」
レイバーンと一緒なら、きっと幸せな家庭を築けるだろう。
その日が訪れる事をリタは心待ちにしていた。
しかし、彼女は気付いては居なかった。
二人の門出を良しとしない者が、少なからず存在している事に。
……*
「リタ様。よろしいですかな?」
「ふぇ?」
昼下がりの妖精族の里。
いつものようにイリシャの元でクッキーを頬張っていたリタは、予期せぬ来訪者に驚いていた。
真っ白な髪を三つ編みでまとめた老人が、杖で身体を支えながらリタの元へと訪れる。
彼は妖精族を束ねる族長の一人かつ、最年長の男。名をダスクと言う。
「ど、どうしたの?」
リタは慌てて口の中に残るクッキーを飲み込んだからか、口の中の水分が一気に失われてしまう。
それでも、水分を補給しようという思考には至らなかった。
無理もない。彼が居住特区に現れた事など、一度もないのだから。
ダスクは頭の固い、妖精族こそが至高の種族と信じる者。言わば『排他的な妖精族』なのだから。
「なに。偶然、近くを通りかかったものですからな」
(わざとらしい……)
彼があからさまな嘘を吐いた事に、リタは眉根を寄せる。
族長会議での発言からもよく解る。ダスクは妖精族以外の種族を快く思っていない。
そんな彼が態々、居住特区に足を踏み入れた。
その事実に、リタは気を引き締める。
「ここが、リタ様が他種族と共に創り上げた場所ですか」
「そうだよ。皆で力を合わせて、一緒に過ごしているの」
鑑定。いや、審査をするように。ダスクは居住特区を見渡していく。
見知らぬ男の舐め回すような視線に訝しむ者もいたが、この地は訪れる者を邪険に扱ったりはしない。
何よりリタも居るので安心だと、彼の存在を気にするものは居なかった。
「なるほど。妖精族以外の種族もよく溶け込んでいらっしゃる。
これがリタ様の望まれた、共生というやつですかな」
「そうだよ。皆が力を合わせて、一生懸命暮らしているの」
「存じておりますとも。魔獣族の王や、小人族の王。
更には人間たちも精力的に働いてくれていると。いやはや、少し前からは考えられない光景ですな」
「……」
なんだか嫌だ。
若干の含みを感じる男の言葉に、リタの表情が険しくなる。
口では褒めていても、恐らく本心からのものではない。
あくまでアルフヘイムの森を貸している。そんな傲慢さを隠しきれていない。
言葉を交わす度に、胸の奥にしこりが生まれていく。
どうか誰も、この会話を耳にしないで欲しい。
「――ですが、リタ様はもう少しご自身の立場をお考えになった方がよろしいかと」
ダスクが彼女の元を訪れた理由を語り始めたのは、リタがそう思った矢先の事だった。
そして、その言葉は彼女にとって到底受け入れ難いものでもあった。
……*
「ダスク殿が!?」
見慣れぬ妖精族の来訪者。
その特徴を聞いたレチェリは、思わず席を立った。
インクの入った小瓶が倒れ、書類が黒く染まっていく。
やってしまったと眉を顰めるが、心情的にはそれどころではなかった。
「何か問題があるのか?」
珍しく慌てる彼女の姿に、ルナールが訝しむ。
大前提として、この地は妖精族の里だ。妖精族が訪れる事に何の問題があるというのだろうか。
「……ダスク殿は妖精族の族長の一人で、非常に保守的な方だ。
この居住特区の存在も、快く思ってはいない」
苦虫を噛み潰したような顔で、レチェリはそう告げる。
共に生きる他の種族には、決して聞かせたくはなかった。
「つまり……」
会話の流れから、ルナールもある程度の事情を察する。
妖精族の女王と魔獣族の王が婚姻を結ぶタイミングで動いたのだ。
他に理由は考えられなかった。
「ええい、くそっ!」
逡巡を重ね、レチェリは己の頭を掻き毟る。
彼女は知っている。リタがどれだけレイバーンを愛しているかを。
何人たりとも侵してはならない、その気持ちを護るべく。
かつて自分が壊そうとしたものを護る為。気付けば彼女の足は、リタの元へ向かうべく動き始めていた。
……*
「立場って……。私は妖精族の女王で、レイバーンは魔獣族の王だよ。
身分とかの話をしているのなら、何も問題は――」
「そういう話をしているわけではありません」
反論しようとするリタを、ダスクは淡々と制する。
彼が見ている景色は、居住特区の者達とは根本的に違うものだった。
「でも、リタたちにとっては大切な話ではないのですか?
少なくとも、居住特区にとっては必要なことです」
やり辛そうにしているリタが見ていられなくなったのか、イリシャが控えめに手を挙げる。
妖精族の話に口を挟むまいとしていたが、このまま二人で会話をさせてはいけない。そんな気がした。
「その居住特区も、妖精族の力あってのこそだと理解されていないのか?」
呆れたように大きなため息を吐くダスク。
イリシャへ送った視線には、他種族を見下す様がありありと感じられる。
「愛と豊穣の神様がこのアルフヘイムの森を見守ってくださっているからこそ、あなたたちは豊かな暮らしを享受できているのだ。
ならば妖精族にとって必要なことこそが、居住特区に必要なことなのではありませんかな?」
違う。それがイリシャの抱いた、率直な感想だった。
居住特区に住む者で、妖精族に感謝している者はいないだろう。
けれど、それは共生の上で相手を尊重するという意味合いだ。
ダスクのように一から十まで妖精族のお陰だと考えている者はいない。
けれど、居住特区に顔を出さない妖精族にとってはダスクの言い分こそが正しいのだろう。
かつてのストルの悪い部分を濃縮したような老人をどう説得すればいいのか判らず、イリシャは頭を悩ませる。
「わ……私は! 居住特区での暮らしは妖精族の力だけじゃないって知ってるよ!
みんなが居てくれたから。力を合わせてくれたから、こうして笑っていられるって!」
「ですから、先ほどから仰っているでしょう。その礎は、妖精族にって齎されたものだと」
決して交わらない主張を重ねる度に、リタの表情からは焦燥の色が濃くなっていく。
二人の口論に胸を痛めながら、イリシャにはひとつの疑問が浮かんでいた。
これほどまでに妖精族を絶対視しているというのに、どうしてダスクは居住特区へ現れたのか。
結婚を反対するだけならば、味方が居るであろう族長会議の方が効果は期待できるだろうに。
直後。その疑問は、ダスク本人によって解消される事となる。
リタにとっては、到底受け入れ難い内容として。
「リタ様は、もう少し自分の御立場を理解された方がよろしいかと」
「しているからこそ、種族の垣根を越えようとしているんだよ!」
「そうではありません」
またも大きなため息を吐きながら、ダスクは首を左右に振る。
リタとの口論に加え、わざとらしい動作は周囲の目を集め、否が応でも注目を浴び始めていた。
妖精族だけではない。魔獣族も、小人族も、人間までもが二人の会話に引き寄せられる。
それはリタが慕われている証明なのだが、この状況に於いては逆効果だった。
「私が言いたいのは、貴女はただの妖精族ではない。
高位妖精族の末裔だという自覚を持っていただきたいということなのです」
高位妖精族。
その響きが告げられると同時に、周囲の空気が張り詰めた。
かつて愛と豊穣の神の寵愛を受けたとされる、妖精族の直系。
妖精族にとっては、もっとも高貴で貴重な血筋。
「リタ、あなた……。高位妖精族だったの!?」
「そうだけど……。ただ血筋がそうだってだけで、私も他の妖精族と何も変わらないよ」
驚嘆の声を上げるイリシャに対して、リタは口を尖らせた。
厳密には、高位妖精族と妖精族に於いて種族の差は無いとされている。
現にリタは、これまでの時間を同じ妖精族という意識で過ごしてきた。
「それはリタ様がご自身の価値を理解していないだけです。
我々妖精族からすれば、高位妖精族の血が途絶えるとすれば先人に申し訳が立ちませぬ。
今まで皆で見守りながら、紡いで来たものなのですから」
ダスクの言葉には、これまで以上の感情が乗せられていた。
同時にイリシャは悟る。彼が態々、居住特区に現れた理由を。
妖精族だって、リタの性格は把握している。
言い出したら聞かない反面、同胞を大切に想っている。
故に彼は仕向けたのだ。「結婚をするには、あまりにも障害が大きい」と思うように。
リタだけではない。居住特区の皆に認識をさせる為に、仕方ないという空気を作り上げたいのだ。
高潔な血を絶やす事を望んでいる者など、ここには一人もいないのだから。
「ま、待って! それでもリタの未来は、リタが決めるべきだわ」
それでも。一番大切なのはリタの気持ちだ。
血筋以上に軽んじてはならないものが在ると主張するイリシャだったが、ダスクには通用しない。
「おや。貴女なら理解できると思ったのですがね。
何故かは解らないが、貴女も人の理から外れた存在だ。
その意味を理解しているからこそ、流浪の旅を続けていたのでしょう?」
「っ……」
痛い所を突かれたと、イリシャは口を閉ざす。
彼の言う通りだ。自分がどう思っていようと、周囲も同じ認識をしてくれるとは限らない。
イリシャ自身、万が一が恐ろしくて家族の元を離れる決断をしたのだから。
「で、でも。私はレイバーンと……」
しかし、リタにも譲れないものがある。
ずっと想い続けて来た相手と添い遂げる。子を成す。
親友と同じ時間を生きている今だからこそ、見てもらいたい。
その願いに間違いなど、ひとつも存在していない。
顔を俯かせ、垂れた前髪がリタの表情を隠す。
これ以上追い詰めるのは逆効果になりかねない。レイバーンと駆け落ちでもされれば、全てが水泡に帰してしまう。
「リタ様、ご安心ください。
私とて、レイバーン殿との恋路を邪魔しようとしているわけではないのです」
ある程度の負荷は与えた。
頃合いと見たダスクは、自身の思い描いた筋書きへと誘導するべく、リタへ提案を施す。
「え……」
リタの顔が上がる。瞳の奥には、僅かな希望を宿している。
大丈夫。何もかもが上手く行く。ダスクは彼女の眼を見て、確信をした。
「ええ。リタ様が高位妖精族の子さえ成していただければ、何も問題はございません。
存分に、レイバーン殿との幸せを享受してくださいませ」
ダスクの目的は、あくまで高位妖精族の血を残すという一点に尽きる。
しかしそれは、レイバーンではなく妖精族との子を宿せという意味だ。
とんでもない事を口にしたものだと、イリシャの身の毛がよだつ。
「え、あ……」
「リタ!」
想像していなかった要望に狼狽するリタ。イリシャはそんな彼女へ、そっと寄りそう。
同じ女として、ダスクの提案は受け入れられない。
何としてもリタに拒否をさせようとした時だった。
「ダスク殿! そんなことが、認められるはずないだろう!」
人混みを掻き分けて現れたのは、半妖精の女性。
レチェリが周囲に響き渡る程の声量で、ダスクの暴走を止めようと姿を現す。
「……なんだ。誰かと思えば、風見鶏の女ではないか」
尤も、ダスクは彼女の存在をまるで意に介していない。
鬱陶しい羽虫を追い払うような、蔑むような視線を彼女へと送る。
「リタ様とレイバーン殿の仲を裂こうとした貴様が、私の提案に異を唱えられる立場にあると思っているのか?」
「っ……」
ダスクにとって、かつて妖精族を危機に晒したレチェリは見下す対象となっていた。
ただ、この状況に於いて彼女は有能な駒となり得る。リタの背中を押す、最後の一手として。
「それに今ではすっかり、意見を真逆に変えているようではないか。
人間の血がそうさせるのか? それとも、母の血か?
どちらにせよ、やはり混ざりものは――」
「キッサマ……!」
敢えて逆上するよう、レチェリの出自を侮辱するダスク。
レチェリは、リタの求めている可能性を担っているという自覚を持っている。
引き下がってはならない。声を上げなくてはならない。
レチェリが自らの怒りを正当化しようとした矢先。
彼女の眼前に、鼠色の巨大な腕が差し出される。
「そう言った話なら、余が聞くべきだろう」
「レイ、バーン……」
魔獣族の王、レイバーン。
リタが想いを寄せる者が、この場を収めるべく姿を現した。