17.誕生
妖精族の女王。リタ・レナータ・アルヴィオラ。
彼女はこの小さな村で抱いた感動を、生涯忘れる事は無かった。
産気づくフェリーの様子と、慌ただしく動くイリシャ。
出産が近付いているのを感じる一方で、徐々に満ちていく緊張感に息を呑む。
「リタ、魔術でお湯を用意してくれる?
シンは清潔なタオルと消毒液を持って来て」
「うっ、うん!」
「分かった」
リタがふとシンの顔を見上げると、見慣れた仏頂面の奥に緊張が見て取れる。
彼の意外な一面を見た気がするものの、リタ自身が呆けている余裕を持ち合わせていなかった。
水を飲ませてあげたり、汗を拭いている理由すらよく解っていない。
指示をされたから。絶対に、きちんとやり遂げなくてはならない。そんな考えばかりが、頭の中を駆け巡る。
知識も経験も、全てはイリシャ頼り。自分だけでは、ただのお荷物。
そんな事は解り切っている。だからこそ、リタは彼女の言葉を決して聞き漏らさまいと必死だった。
大切な友人の、大切な子供が生を受ける瞬間を祝福する為に。
(がんばって)
それは『母』になろうとするフェリーへ向けたものなのか、産まれてくる赤子へ向けてのものなのか。
はたまた、大役を務めようとしているイリシャなのか。あるいは、微かに手が震える自分を鼓舞しているのか。
向かう先もはっきりとしないまま、リタは心の中で呟いていた。
「フェリーちゃん、おめでとう」
イリシャがそう告げると、独特の空気を纏った部屋が穏やかなものに切り替わる。
柔らかな笑みを浮かべるフェリーとイリシャ。喜びと安心が入り混じり、上手く表情の作れないシンとリタ。
張り詰めた糸を解すようにして、産声は自身の存在を主張し続けていた。
産まれて来た子供は母親と同じ金色の髪を持つ、とても可愛らしい女の子だった。
「ありがとう、イリシャさん」
ほっとしたように声を漏らしながら、フェリーは自らの愛娘に手を伸ばす。
優しく頬を撫でながら、今度は「ありがとう」と産まれて来た子供へ呟いた。
「フェリー。お疲れ様、ありがとう」
どう声を掛ければいいのか悩みながらも、シンは素直な気持ちを告げる。
フェリーはただただ、嬉しそうに彼の言葉を受け止めていた。
彼女には、ずっと願っていたものがある。
シンと共に、家族を築き上げたいという夢。
幼い頃。アンダルやカンナ達が居て、フェリーは毎日が幸せだった。
同じような幸せを紡いでいきたいという想いを、抱き続けていた。
その第一歩を踏み出した事で、胸が熱くなるのを感じる。
「シン。この子を、産湯に入れてあげて」
「……ああ」
フェリーの頼みに、シンは小さく頷いた。
そっと手を伸ばす彼の元へ、イリシャが赤子をそっと受け渡す。
「おめでとう、シン。あなたとフェリーちゃんの赤ちゃんよ」
恐る恐る赤子を受け取るシン。
両手へと伝わる温もりは、生命の重さを感じさせるには十分だった。
シンはイリシャに教わりながら、ゆっくりと丁寧に産湯へ入れていく。
一生懸命な様子を見ていたフェリーが、頬を緩ませながら赤子へと語り掛けた。
「良かったね。パパに抱っこしてもらえて」
フェリーの言葉にも、シンは反応をしない。
黙々と沐浴を続けている彼を訝しんだイリシャとリタだったが、理由はすぐに判明した。
奥歯を噛みしめ、声を出すまいと抑え込むシン。
開かれた瞳は、涙で潤んでいた。
彼のこんな姿は、見た事がない。
旅をしている間も、戦っている間も。彼は一度たりとも、涙を流さなかった。
初めて見たシンの涙は、祝福に包まれたものだった。
シンの様子は、当然ながらフェリーも気付いている。
自分の身体が元通りになって、シンは笑ってくれた。
自分達の子供が産まれて、シンは涙を流してくれた。
「えへへ」
それが堪らなく嬉しくて、フェリーはまた頬を緩める。
愛する夫と、愛する愛娘。初めてのスキンシップを、彼女はずっと眺めていたいと感じていた。
(良かったね。フェリーちゃん、シンくん)
そして、リタもまた赤子の誕生を心から喜んでいた。
どうか彼女達のこれからが祝福に満ちた日々である事を、愛と豊穣の神へと祈りを捧げる。
……*
シンとフェリーの子。アン・キーランドが生を受けてからの数日。
リタは暇を見つけては、アンの眠るベッドへと足を運んでいた。
「こんにちは、アンちゃん」
顔を近付けて、アンへ挨拶をするリタ。
アンはぱっちりとした目が開かれているが、きっとまだ自分を認識はしていないだろう。
父親と同じ黒い瞳だが、赤子のものとなれば随分と印象が違って見えた。
「リタちゃんは、いっぱいアンのお世話をしてくれるね」
「だって、すっごく可愛いんだもん! 皆が天使だって言うのが、よくわかるよ」
くすくすと笑うフェリーへ、リタは興奮気味に軽く握った拳を上下に振る。
初めて出産から立ち会った赤子の存在は、彼女にとっても特別なものとなっていた。
「アンちゃん。私ね、お母さんのお友達なんだよ。
よかったら、アンちゃんとも仲良くしたいなぁ」
リタはそっと自らの手を、アンの頬へと触れさせる。
そう遠くないうちに、自分は妖精族の里へ帰らなくてはならない。
また口実を見つけてこの子に逢えないだろうか。そんな事ばかりが、頭の中を駆け巡っていく。
「……あっ」
そんなリタの指を、アンが包み込むように握る。
彼女の指よりも遥かに小さな手が包み込まれるその様に、リタは息を呑んだ。
「この子も、リタちゃんと仲良くしたいって」
二人の様子を見守るようにして、フェリーが優しく声を掛ける。
リタに愛娘を抱きかかえるように促すと、彼女はゆっくりとアンを抱き上げた。
「あたしも、シンもね。たくさん友達が出来たからこうして幸せなんだよ。
だからアンも、たくさん友達を作って欲しいな」
自らと同じ色をした愛娘の髪を撫でながら、フェリーはそう告げる。
今感じている幸せは、シンやアンによるものだけではない。
彼女は親友であるリタに、知ってもらいたかった。
「友達……」
フェリーの言葉を、リタは反芻する。
妖精族の里に籠り切りだった自分がここに居るのも、様々な出逢いを通してのものだ。
初めて出来た、妖精族以外の知人。
不老の人間であるイリシャ。魔獣族の王であるレイバーン。
この二人との出逢いは、リタへ大きな変化を齎した。
そして、イリシャが連れて来た一組の男女。
シンとフェリーによって、彼女を取り巻く環境は大きく変わった。
居住特区の設立から始まり、リタにも種族を問わず多くの友が出来た。
自分やストルのように、種族を越えた恋心を抱く者も少なくはない。
妖精族だけで過ごしていた時代が遠い昔のようにも思えるのは、充実している証だろう。
「フェリーちゃんの言う通りだよ。
アンちゃん、たくさん友達が出来るといいね」
自分や親友のように、充実した日々を過ごして欲しいと、リタはアンへ言葉を投げる。
当のアンはというと、リタの腕の中が心地よかったのか。大きな欠伸が、返事の代わりとなっていた。
「あはは、まだ難しいお話だったかな」
リタは苦笑をしながら、アンの背中を優しく叩く。
寝静まったアンの表情はとても穏やかで、やはり天使と呼ぶに相応しいものだった。
イリシャと共に妖精族の里へと帰るまでの間。
アンとの掛け替えのない時間を、リタは過ごしていく。
(友達、かぁ……)
同時にそれは、彼女にひとつの願いを抱かせる。
……*
「それでね、もうほんっとうにかわいかったんだよ!」
妖精族の里へ戻ったリタは、生命の誕生が齎した感動を余す事なく伝えた。
ある時には、如何に愛くるしかったかを言葉で。またある時には、自分がどう接したのかを身振り手振りで。
知ってもらいたくて。忘れたくなくて。兎に角リタは、アンと過ごした日々を語り続けていた。
「もう何回も聞いたよ」
「何回話しても、足りないぐらいかわいかったの!
ベルちゃんも、会ってみたら絶対にわかるよ!」
若干呆れた様子を見せるマレットだったが、リタは全く意に介していない。
それどころか、より鮮明に自分の感動を伝えようとしていた。
「リタったら、もしかするとシンやフェリーちゃんよりアンちゃんのところに居た時間が長かったんじゃない?」
カランコエで過ごした日々を思い返しながら、イリシャがくすくすと笑う。
実際、リタは一日の大半をアンの元で過ごしていた。
例えアンが寝ていたとしても、じっと寝顔を眺めていた。
「そこはシンとフェリーに譲ってやれよ……」
「だ、だって! フェリーちゃんとシンくんもいいって言ってくれたから……!」
呆れる様子を見せるマレットに、リタは慌てて弁明をする。
実際、彼女も初めは遠慮をするべきだと考えていた。
しかし、シンとフェリーが彼女の気持ちを汲んだ。
イリシャ共々、お産の為に訪れてくれた友人が我が子を可愛がってくれている。
その様子が微笑ましくて、好きなだけ一緒に居てくれて構わないと言ったのだった。
「と、とにかく! 皆もアンちゃんに会ってみてよ!
私の気持ちがわかるから!」
「まあ、アイツらが落ち着いたらだな」
「だな。あんまり大勢で言っても、困らせちまうだろうし」
マレットやギルレッグだけではなく、殆どの者が時期尚早だと返す。
勿論、彼女達の主張も正しい。きっとシンとフェリーも、初めての子育てに苦労している最中だろう。
それでも、やはり可愛いものは可愛いのだ。実際に会って、その愛くるしさを確かめて欲しい。
「そ、そうかもだけど……!」
強く拳を握り、リタが力説をする中。
この男だけは、リタの言葉に同調をした。
「うむ! 余も、シンとフェリーの子供には興味がある。
なにせ、友人の大切な子息だからな」
「レイバーン……!」
腕を組みながら、豪快に笑うのは魔獣族の王。
彼もまた、友人の愛娘に強い興味を示していた。
「ほんとに可愛いんだよ!
フェリーちゃんにそっくりで、目もくりっとしてて!」
「そうかそうか!」
自分が覚えた感動を伝える度、レイバーンは深く頷いてくれた。
そんな中で、彼女はフェリーが口にした言葉を思い出す。
「それでね、レイバーン」
アンを見るまで。フェリーの言葉を聞くまでは意識をしていなかった望みが、顕在化していく。
いつかきっと。漠然とそうなると思っていたものが欲しい。
皆が居るにも関わらず。リタは一度息を吐き、レイバーンへと告げた。
「私も……。レイバーンとの子供が欲しい。
ちゃんと、その。結婚をして。それで――」
「リ、リタ様!?」
驚きのあまり、レチェリの声が裏返る。
彼女だけではない。この場に居た者全員の視線が、リタとレイバーンへと集まる。
「おいおい、大胆だな」
ギルレッグに至っては、感嘆の声を上げている。
解っている。リタとレイバーンが、いつかはそうなるだろうと想像するのは誰にでも出来た。
ただ、魔獣族も妖精族も人間より寿命はずっと長い。
本人達が急いでいる様子もなかったので、見守ろうというのが居住特区での暗黙の了解でもあった。
「リ、リタ……」
それがここに来て、急展開である。
周りは勿論、レイバーンさえも驚きで目を見開いていた。
「勿論余も、リタと添い遂げたい。そう願っている。
ただ、聊か焦ってはおらぬか?」
心の内では飛び跳ねそうな程嬉しいはずなのに。
レイバーンは冷静さを装いながら、リタの真意を確かめようとする。
途中でイリシャと目配せをするが、彼女は首を横に振る。相談をされていた訳ではなさそうだった。
「フェリーちゃんが言ってたの。
友達がたくさん出来たから、幸せだって。
アンちゃんにも、たくさん友達が出来て欲しいって」
気恥ずかしそうにしながら、リタは思いの丈を語っていく。
カランコエでの日々を思い返すように。抱いた願いが本物であると確かめるように。
ひとつひとつ、きちんと伝わるようにと言葉を紡いでいった。
「アンの友人となるように、子を宿したいということか?」
「もちろん、友達になって欲しいけど……。ちょっとだけ、違うかな」
レイバーンの問いに、リタは首を振る。
勿論、自分達の子供がアンの友人となってくれれば言う事はない。
けれど、彼女が子を成したいと思った理由は別の部分が大きい。
「私たちは今、フェリーちゃんたちのおかげで一緒に居られているから。
その大切な友達に、見てもらいたいの。私たちの子供を。
二人は人間だから。私たちより、ずっと寿命が短いから……」
「リタ……」
シンとフェリーは二人にとって、大切な友人であると同時に恩人だ。
一方で、種族の壁は越えられない。こうして同じ時間を生きているのは、奇跡のようなものだった。
だから、彼らへ見せられるうちに。自分達も幸せだという事を、きちんと伝えたい。
誰よりも幸福を見届けて欲しい、親友だから。
「――うむ。リタの言う通りだな。
余も、シンやフェリーと会えなくなってから後悔するのは御免だ」
レイバーンが結論を出すまでに、時間は必要としなかった。
彼は元より、リタを愛している。祝言を挙げるのが早まっただけだと、豪快に笑い飛ばして見せる。
「リタ! 余と添い遂げてはくれぬか!?」
レイバーンは膝をつき、大きな手を差し伸べる。
「うん!」
リタもまた、迷いなく自らの手を重ね合わせた。
20年以上も前の話となる。
他種族に対して排他的と評されていた妖精族。
その女王は、魔獣族の王へ恋慕を抱いた。
魔獣族の王もまた、妖精族の女王へと恋をした。
とある人間達により二人の恋心は実り、ひとつの結果を生み出そうとしている。
(よかったわね、リタ)
またひとつ、世界に祝福が満ちる。
昔から二人を見守っていたイリシャは、心の中で呟いていた。