16.新たな生命に祝福を
遠いふたつの地点を結ぶ、複雑な魔術の刻まれた装置。
魔術大国ミスリアの魔術師であるオリヴィア・フォスターが独自に研究を行い、仲間達と共に造り上げた魔導具。
国や種族の垣根を超え、知識と技術を終結されたこの魔導具は、距離の壁を瞬く間に飛び越えていく。
革命にも等しいこの技術は世界に多大な恩恵を与えるだろうと、存在を知る者は確信していた。
とはいえ、懸念されている点があるのも事実だった。
気兼ねなく移動が他国へ移動できるという有難味の裏側に存在する、侵略行為に利用されないかという不安。
挙げられた問題は何も、国家間の話に限った話ではない。個人レベルの扱いについても、同様の懸念が残っている。
犯罪者の侵入経路、もしくは逃走経路として使われたのでは堪らない。
故に現状では転移魔術の存在、魔導具を設置する場所を知る者は限られている。
大まかな指針としては、魔術大国ミスリアと良い関係を築けている両国のごく一部。
二点の内、片方はミスリアへ設置する管理体制が取られていた。
ただひとつの、例外を除いて。
その地の名は、カランコエ。魔導大国マギアに存在する、小さな村。
一度滅んだこの地が復興する際。小人族によって建設された教会の地下に、魔導具は設置された。
行先はミスリアではなく、妖精族の里。使用が許されるのは、静脈から得た情報が認められた者のみ。
国王ですら、この転移魔術を通して妖精族の里へ向かう事は出来ない。
それでも、マギアの国王であるロインはこの存在を認めた。
無理もない。彼はむしろ、その存在を願った立場なのだから。
カランコエと妖精族の里を結ぶ転移装置は、謂わば恩賞だった。
何者でもないが故に、歴史に名を残す事のない英雄達へ、絆を深めた仲間との時間を沢山作って欲しいという願い。
シンとフェリーも、王の善意を謹んで受け入れた。彼らにとって、願ってもない申し出だったから。
……*
時間が止まっているかのような静寂。樹の香りから一転、鼻腔を擽るのは土の匂い。
瞼をゆっくりと持ち上げると、普段見ている景色とは全く違うものが広がっている。
この場所は知っている。シンとフェリーが結婚式を挙げた教会の隠し部屋だ。
妖精族の里からカランコエへ向かう転移魔術が正しく作動した証でもあった。
「ほんと、転移魔術さまさまだよね」
通常なら何日も掛かる道程を一瞬で終える事が出来る。
改めて凄いものを開発したものだ、リタは感嘆の声を漏らした。
「本当、ベルちゃんたちには感謝しないとね」
イリシャもまた、同様の感想を抱いていた。
転移魔術があるからこそ、自分達はフェリーのお産に立ち会える。
きちんと二人が幸せを享受している姿を、この目で確認できるのだから。
「さあ、ふたりのおうちへ行きましょう」
「うん、そうだね」
周囲に人の気配が無い事を確認し、イリシャとリタは教会を後にする。
アルフヘイムの森と違い、直接浴びせられる日光は眩しくも歓迎してくれているように感じた。
「前に来た時よりも、村の人が増えてるね」
周囲を見渡しながら、リタがぽつりと呟く。
訪れたのは結婚式以来だが、明らかに家や人の数が増えている。
「二人も、とても頑張っているものね」
シンからはロインやオルガルが主導となり、カランコエの復興に尽力をしてくれていると聞かされている。
勿論、力を貸してくれるのはマギアだけではない。
妖精族の里やミスリアからの協力によるものも、決して少なくはない。
これも転移魔術と同じだ。彼らが旅の中で紡いできた絆の強さによって、今に至る。
「私は、この村の雰囲気大好きだよ。
妖精族の里と同じで、なんだか落ち着くもん」
カランコエでは、リタもわざわざ長い耳を隠そうとはしない。
多くの種族や、様々な人が集まるこの村では、決して珍しい光景ではないからだ。
「ええ、わたしもよ」
イリシャも、リタの言葉を肯定する。
昔訪れた時と何ら変わらない空気を纏うこの地を、彼女も気に入っていた。
日々積み重なっていく、小さな幸福。あらゆるものを受け入れる、おおらかな風土。
カランコエが身分や種族を気にする必要のない、ありのままで居られる村へと育っていくのはもう少し先の話となる。
……*
「イリシャさん! リタちゃんも! 来てくれてありがとう!」
腰まで伸びた金色の髪を揺らしながら、満面の笑みで来客を歓迎する。
共に妖精族の里で過ごしていた時と何ら変わらない、太陽のような笑顔で出迎えるフェリー。
「フェリーちゃん、久しぶり!」
「すっかり、大人っぽくなったわね」
「えへへ。そうかな?」
照れくさそうに頬を掻くフェリーだが、どことなく嬉しそうにしている。
僅かに大人びた雰囲気と、出産を控え大きくなったお腹は彼女の時計の針が正しく進んでいる事を証明していた。
ただ、こうやって笑みを浮かべると自分達の記憶に居るフェリーの印象となんら変わりはない。
「二人が来てくれて、本当にうれしいよ」
変わらない二人の姿に、フェリーは懐かしさを覚える。
彼女達が笑顔を見せてくれた事で、自分と同じように幸せな日々が続いているのだと実感できた。
「私もだよ!」
「そうね。リタはずっと、フェリーちゃんに会うのを楽しみにしてたもんね」
「もう、言わないでよ!」
イリシャがくすくすと笑う一方で、リタは少しだけ恥ずかしそうにする。
そんな光景がとても愛くるしくて、フェリーはにこやかに二人のやりとりを眺めていた。
「あたしも会いたかったから、すっごく嬉しいよ。
それに、わからないことばかりだからイリシャさんが居てくれると心強いし」
フェリーが自らのお腹を優しく撫でると、二人の視線が誘導される。
新たな生命を育む友人の姿は、まさしく『母』のものだった。
「任せて、フェリーちゃん。わたしたちが、無事に赤ちゃんを取り上げて見せるわ」
イリシャもまた、彼女の幸せを心から喜んだ。
シンとフェリーには感謝してもしきれない。大切な夫の心を、救ってくれたのだから。
せめてもの礼という訳ではないが、この赤子は自分が何としても取り上げたい。
そんな願いが、彼女の足をカランコエへ向かわせた。
「うん。ありがとう、イリシャさん」
『母』としての先輩を、フェリーも頼りにしている。
こうして妖精族の里から飛んできてくれた事は、本当に嬉しかった。
「でも、本当に……。こんなに大きくなるんだね」
そんな二人のやり取りをよそに、リタが声を漏らす。
妊婦を見るのは初めてでない。妖精族の里で見た事があるにも関わらず、記憶よりもずっと大きなお腹に驚きを隠せなかった。
それは彼女が、初めて『母』になるという意味を意識した証なのかもしれない。
「触ってみる?」
「いっ、いいの!?」
「もちろん。この子も、リタちゃんに挨拶したいと思ってるよ」
「そ、それじゃあ……」
フェリーの提案を前に、リタの声が思わず裏返る。
正直、興味はあった。触れて見たかった。けれど、言っていいものかと気後れしていた。
心を見透かされたような気もしたが、嬉しい申し出にリタは首を縦に振る。
生唾を呑み込みながら、ゆっくりと伸びていくリタの手。
全神経を集中させながら、掌がフェリーのお腹へと触れる。
「ママとパパのお友達がごあいさつに来てくれたんだよ」
お腹の曲線に沿ってリタが手を動かしている最中。
フェリーはお腹の子へ語り掛ける。
胎児が彼女の言葉を理解しているのかは定かではない。
ただ、呼びかけへ応えるように。フェリーのお腹は確かに動いた。
「い、今! 動いたよ!」
意識していないと気付かないような微かな動きにも関わらず、リタは目を輝かせる。
フェリーの身体に間違いなく新たな生命が宿っている。そう思うだけで、胸に込み上げてくるものがある。
「うん。この子も、リタちゃんに逢えて嬉しいみたいだよ」
「私も嬉しいよ!」
フェリーのお墨付きをもらい、リタの頬は益々緩んでいく。
代わってイリシャがお腹を撫でている間も、リタは己の右手を左手で包み込むようにして握り締めている。
この感触を一片たりとも逃したくはない。それだけの感動が、彼女の中で広がっていた。
……*
再会の喜びが落ち着いてくると、リタ達は他愛もない話を続けていく。
妖精族の里にいる皆は相変わらず元気だと伝えると、フェリーが嬉しそうな笑みを浮かべていた。
フェリーの方はというと、最近は専ら裁縫と編み物の練習をしているらしい。
かつてカンナが自分にしてくれたように、産まれてくる子の服を作りたいと思いを馳せていた。
積る話をひとつずつ消化する度に、家の中に笑い声がこだまする。
フェリーの頬がひとつ緩む度。リタはカランコエに来て本当によかったと、心から感じ取っていた。
間も無く『母』になるフェリーと同様に、『父』となろうとする男が現れたのはそんな最中の出来事だった。
「イリシャ、リタ。来てくれたのか」
素っ気ないながらも、どこか安堵した声を漏らす黒髪の男の名はシン・キーランド。
彼もまた、イリシャとリタがこの村へ訪れる事を心待ちにしていた。
「シン。久しぶり」
「シンくんも、元気そうだね」
「ああ。見ての通りだ」
シンの風貌は、以前からあまり変わった印象が見受けられない。
彼の性格を考えると、戦いが終わった後も身体を鍛え続けていたのだろう。
違いがあるとすれば、笑顔が零れるようになったぐらいか。
それがとても良い事なのは、フェリーを見ていればよく解る。
「シン、おかえり」
「ただいま、フェリー」
夫の帰宅に、フェリーの声が一際弾む。
そんな彼女の気持ちが子供にも伝わったのか。シンが彼女のお腹を撫でると、胎児は一層元気な姿を彼の掌へと伝える。
「これだけ元気だと、今すぐにも産まれそうだな」
「そうだね。あたしも、早くこの子に逢いたいな」
フェリーはそっと、自分の手を重ねる。
漸く掴んだ幸福を手放さないようにしている姿は、イリシャやリタにとって微笑ましいものだった。
「焦らなくても、すぐに逢えるわ。それまでの間、よろしくね」
「うん! こちらこそ!」
シンとフェリーは顔を見合わせ、小さく頷く。
準備は万端だと胸を張るイリシャの姿が、とても頼もしく見えた。
久しぶりにイリシャやリタと共に過ごす日々は、妖精族の里で過ごしていた頃を思い出す。
出産までの間、フェリーはとても穏やかな日常を過ごしていく。
ほどなくして、シンとフェリーの間に待望の第一子が生まれる。
母親と同じく金色の髪を持つ、とても可愛らしい女の子。彼女の名は、アンと名付けられた。
アンの存在が、リタの心を大きく動かす事。
それによって、妖精族の里である騒動が起きるとはこの時点では誰も想像だにしていなかった。