15.私の両親
妖精族の里が存在する、アルフヘイムの森。
広がる森林の奥地には、妖精族の番いが暮らしている。
彼らが行なっているのは、日課である瞑想。
目を閉じると、瞼を透過する木漏れ日だけが視界に映る。
長い耳が、葉の擦れ合う音や小鳥の囀りを捉える。
澄んだ空気の奥では、果実や草木の香りが鼻腔を擽る。
妖精族特有の強い魔力は、森の中へと溶けていく。
こうして二人は、森との一体化を果たしていく。
敬愛する愛と豊穣の神へ祈りを捧げながら、精神をより神へと近付けていく。
微動だにしないまま、時間は過ぎていく。
日課の終わりを告げたのは、程よい空腹感だった。
「そろそろ、食事にしましょうか」
視界に覆い被さる銀色の髪を掻き分けながら、妖精族の女性はそう告げた。
「ああ、そうだな」
彼女の言葉を受けて、男の妖精族は瞼を持ち上げる。
数時間ぶりに見る彼女の姿を前に、男はぽつりと呟いた。
「今日も君は美しいな」
「ありがとう。貴方こそ、今日も素敵よ」
女は照れる事なく、喜びをそっくりそのまま返した。
男が「言わせたみたいになってしまったな」と頬を掻くと、彼女は軽く微笑んでみせた。
「そういえば、光の精霊の声が聴こえたわ」
「君もか。僕は土の精霊が教えてくれた」
アルフヘイムの森に存在する数多の精霊と会話をしたいのであれば、通常ならば依代を必要とする。
永きに亘る時間を森との対話に費やしてきた二人だからこそ、可能な芸当だった。
「どうしましょうか?」
重力に沿って、銀色の髪が地面へと伸びていく。
女は小首を傾げ、男の判断に委ねる事を選んだ。
いいや。問いに意味はない。
きっと彼も、自分と同じ答えだと理解しているから。
「帰ろう。妖精族の里も、随分と賑やかになっているようだ」
男の返答は、予想通り。そして、期待通りのものだった。
女は僅かに頬を緩め、頷いた。
「そうしましょうか。久しぶりに、愛娘の顔も見たいものね」
「そうだね」
アルフヘイムの森に漂う澄んだ空気を肺に取り込みながら、妖精族の番は立ち上がる。
刹那、ぐうと腹の虫が鳴ると二人は顔を見合わせた。
「分かっているわ。まずは、腹ごしらえからよね」
「……かたじけない」
これも十分にやるべき事だと、女がくすくすと笑う。
男は気恥ずかしそうに頭を掻きながらも、そこには穏やかな空気が漂っていた。
……*
刻は凡そ、三ヶ月ほど遡る。
妖精族の族長を務めていた一人でもあるストルが、ミスリアへ発ってから二年が経過しようとしていた。
「……つっかれたぁ」
太陽が真上へ上がると同時に机へ突っ伏す少女。
彼女の名はリタ。妖精族の女王であり、神器のひとつでもある妖精王の神弓の継承者。
机に顔をへばり付かせたまま、彼女は窓の外を眺める。
硝子の向こう側では、和気藹々とした声が聴こえていた。
ここは妖精族の里に造られた居住特区。その中でも、子供達を預かっては世話をしている館。
妖精族も、人間も、小人族も、魔獣族。多種多様な種族が入り組むが、誰も首を傾げたりはしない。
種族の壁を越えて友情を育む様を感じられるこの場所が、リタは大好きだった。
「みんな、楽しそうでいいなぁ」
尤も、今のリタが羨む理由はそれだけではない。
あの無邪気な輪の中に自分も混ざりたい。その間だけでも大嫌いな書類仕事を忘れられるからという現実逃避が、幾分かの割合を占めている。
「はいはい。おつかれさま」
そんな彼女の心境を理解しながら、イリシャはくすりと笑みを浮かべた。
子供達に振る舞っているものと同じ、お手製のおやつを振る舞う事で気持ちだけでも安らいで貰おうというイリシャなりの気遣いだ。
「イリシャちゃん、ありがとう!」
元より彼女の味付けが気に入っているリタは、瞬く間に頬を机から引き剥がす。
先刻までの苦労と疲労を忘れるかの如く、甘味に舌鼓を打っていた。
「もう。毎日毎日、忙しくてくたびれちゃうよ」
お腹が膨れて気が緩んだのか、リタの口から愚痴が漏れる。
再び頬を机にへばり付かせそうな彼女を奮い立たせる為。イリシャはグッと拳を握ってみせた。
「もうひと踏ん張りよ、リタ。フェリーちゃんのところへ行くんでしょう?」
「……うん、そうだよね! フェリーちゃんと会うためだもん、がんばらないと!」
激励の効果は覿面で、リタは瞬く間に元気を取り戻した。
無理もない。今回、フェリーと会うのは特別なのだ。
母になる日が近付いた彼女の、お産を手伝おうというものなのだから。
「フェリーちゃん、本当にお母さんになるんだよね。
なんだか、こっちまでどきどきしちゃうよ」
「リタは最近、そればっかりね」
「だって! 絶対かわいいよ!」
興奮気味のリタを前に、イリシャは苦笑する。
親友の幸せをまるで自分の事のように喜ぶのは、特別な存在だという証左でもあった。
何よりフェリーは家族が欲しいと願っていた。
念願が叶い、幸せに満ちた彼女に会う事自体も楽しみだった。
「フェリーちゃんは、どんなお母さんになるんだろうね」
「そりゃあ、毎日可愛がるんじゃないかしら。フェリーちゃんだけじゃなくて、シンもね」
「あはは。シンくんも、たくさん甘やかしそうだもんね」
同じ想像をしていたと、リタは笑みを溢す。
シンもフェリー同様。あるいはそれ以上に、家族に愛情を注ぐ様は容易に想像が出来る。
二人の子供は、たくさんの幸せが待ち受けている。生まれる前から、リタはそう確信していた。
「我が子は可愛いもの。仕方ないわ」
「イリシャちゃんもそうだったんだ」
「ええ。わたしだけじゃなくて、ユリアンもね」
自分が子供を授かった時の事を思い返しながら、イリシャはしみじみと語る。
いつもとは逆の立場で、リタは懐かしむ彼女の話に頷いていた。
親と子の織りなす、深い情愛の世界。
どれだけ時間を巡っても変わらない、大切なもの。
その輪がどれだけ尊いかを、リタは感じ取っていた。
「そういえば、リタのご両親はどんな人なの?」
そんな話を続けていたからか。
イリシャがリタの両親について尋ねるのは、半ば必然でもあった。
「私のお父さんとお母さん?」
「ええ、まだ会ったことがないから。どんな人なのか気になっちゃって」
妖精族の里に住むようになってしばらく経つというのに、イリシャはリタの両親を見た事がない。
亡くなったという話は聞いていないので、居住特区外に住んでいるのだろうと彼女は考えている。
故に、リタの返事を聞いた時は気まずそうな表情を見せていた。
「うーん。私も50年は会ってないからなぁ。
今はどんな感じなのか、わからないんだよね」
「……ごめんなさい、軽率だったわ」
「ちょっ! 違うって! 別に仲が悪いわけじゃないよ!」
イリシャが何を考えているかを察したリタは、慌てて否定をする。
「もうずっと森に籠ってるってだけだよ」
「アルフヘイムの森に?」
「うん。お父さんとお母さんは熱心な愛と豊穣の神様への信奉者だから。
祈りを捧げるのに、集中出来る環境に居るだけだよ」
リタも熱心な愛と豊穣の神の信奉者だと、イリシャは感じ取っていた。
そんな彼女にここまで言わせるのだから、相当なものなのだろう。
「お母さんが先代の女王だったんだけど……。
私が妖精王の神弓に認められて、女王を継いだら二人してすぐに出掛けちゃったの。
まあ、元々族長会議とかも好きじゃなかったしね」
当時を思い返すようにして、リタは少しだけ困ったような笑みを浮かべる。
「リタは寂しくなかったの……?」
思わず訊いてしまったのは、自分がかつて大切な家族に辛い思いをさせてしまったからだろう。
幸い、妖精族は長寿だ。もしも取り戻せる時間があるのであれば、協力をしたいとイリシャは考えた。
「うーん……。そんなに、寂しいと思わなかったかなぁ。
妖精族は長寿だから、会おうと思えば会えるし。
私は妖精族の里で遊びたかったしね。
それに、お父さんとお母さんは本当に仲が良くてね。一緒について行ったら、ずっとイチャイチャしてるのを見せつけられちゃうよ」
イリシャの心配をよそに、リタ本人は両親に悪感情を抱いてる様子はなかった。
それどころか、仲睦まじい両親の姿を見せつけられるのをむず痒く感じている節さえ見受けられる。
尤も、レイバーンとのやりとりを見るに確実に影響を受けているようではあるが。
「そう。リタがよければ、いいのだけれど」
「イリシャちゃんは心配性だね。
大丈夫だよ、私は十分愛情を注いでもらったから。
それに妖精族の里に残ったからみんなに逢えたんだもん。私は今の生活で、十分に幸せだよ」
リタの言葉に偽りはない。
もしも本当に自分の事が心配ならば、両親はきっと置いては行かなかっただろう。
神器に認められる程にまで育ててくれたからこそ、安心して修行に出たのだ。
そして、リタもひとり残ったからからこそ運命に導かれた。
最愛の男性や、掛け替えのない友人との出会いは彼女に祝福を齎した。
勿論、イリシャとの出会いもそのひとつだ。
「そっか……」
流石は愛と豊穣の神を信仰してるだけの事はあるというべきか。
心からの笑顔を見せるリタに釣られ、イリシャは頬を緩める。
久しぶりに両親へ思いを馳せ、リタ自身も心を安らげていた。
しかし、いくら妖精族が長寿といえど時間の流れはみんなと同じだ。
いつまでも思い出話に花を咲かせる訳にはいかない。
「って、私のお父さんとお母さんのことは置いておいて。
早くカランコエに行って、フェリーちゃんがお母さんになるのを手伝わないと!」
このままほっこりとしていたのでは、いつまで経ってもフェリーの元へは向かえない。
母になろうとする親友の力になるべく、リタは再び机に積まれた書類へと向き合っていく。
「そうね、さすがに書類を溜め込んだままだとまずいわよね」
邪魔をして悪かったと、イリシャが席を立とうとする。
だが、その裾はリタの手によってがっちりと掴まれていた。
「一人にしないで……。なんなら、イリシャちゃんも手伝って……」
下唇を噛み締め、涙目になりながらリタは訴える。
彼女にとってはそこいらの魔物より、積み上げられた紙束の方がよほど凶悪に見えるのだろう。
「駄目よ。そろそろ子供たちのご飯も用意しなきゃだし、その書類は居住特区じゃなくて妖精族のものでしょう?
わたしじゃ手伝ってあげられないわ」
「うぅ……」
無情な宣告に、リタはがっくりと項垂れる。
退屈な書類仕事は、一切やりたいと思えない。けれど、やらなくてはならないという義務感が彼女のモチベーションをギリギリのところで保たせる。
「ほら、リタのご飯も用意しておくから。
晩ご飯は、みんなで食べましょう? だから、それまではお仕事を頑張りましょう」
「うぅ……。ありがとう、イリシャちゃん……」
遠い目標地点の前に、まずは近くの中継点を目指そう。
イリシャの気遣いに感謝しながら、リタは眼前の書類と激しい格闘を広げていた。