14.ユリアン、聞いて
妖精族の里が存在するアルフヘイムの森。
人間の済む地域よりも遥かに高い魔力濃度により、樹々は大きく成長している。
そんな中。
まだこの世界に顔を出したばかりの、初々しい芽が存在している。
周囲の仲間に追い付くべく、肥沃な大地に育てられている毎日。
そこには一人の女性の、強い愛情も注がれている。
「ユリアン、聞いて」
彼女の名はイリシャ・リントリィ。
神々の祝福を受けたこの世界の特異点である事を知る者は居ない。
与えられたのは不老の肉体と、強い運命。
彼女が世界に齎したものは、世界を救う為の切っ掛け。
一方で何も知らないイリシャ自身は苦悩を抱え、時には悲劇を生んでしまった。
今しがた口にしたのは、彼女にとって掛け替えのない男性の名前。
ユリアン・リントリィ。イリシャの夫であり、フェリーの内側に潜んでした不老不死の正体。
彼はイリシャとの離別を受け入れられなかった。
故に、求めてしまった。彼女と同じ時間を生きる術を。
『魂』だけの存在となり、大勢の生命を移り渡っていく中で。
ユリアンの精神はゆっくりと、しかし確実に蝕まれていった。
愛する妻、イリシャと逢う。ただそれだけを求めて。
その最中で、ユリアンはシンとフェリーから家族と故郷を奪った。
イリシャは自分を責めた。二人から大切なものを奪ったという事も、優しかったユリアンを変えてしまった事も。
元のユリアンに戻って欲しかった。その為に、イリシャは自らの命を賭してまで訴えた。
彼が積もらせた気持ちに向き合う為。彼に自分の想いを向き合ってもらう為に。
フェリーの中から消える間際のユリアンは、自分の愛した男性そのものだった。
嬉しくて、愛おしくて、切なくて。もう二度と逢えないという事実を、イリシャは噛みしめた。
それから半年。
彼の残したものが、再びイリシャの前へと姿を現す。
「この間ね、シンとフェリーちゃんから連絡があったの。カランコエに戻ったって。
皆、喜んでたわ。『早く手伝いに行かなきゃ』って。逢う口実が欲しかったのよね」
イリシャが語り掛けるのは、この世に顔を出したばかりの新芽。
フェリーを通して、ユリアンの魔力が注がれていた木の実から生まれた、新たな命。
芽は何も語ってはくれない。
けれどイリシャは、そよ風に揺れる様にユリアンの姿を重ねた。
彼はいつもこうやって、自分の話に耳を傾けてくれていたから。
「勿論、わたしも逢いたかったわ。大切な友人だもの、当然よね」
真っ白な紙の上を、筆が走っていく。描かれるのは、風に靡く新芽。
かつてユリアンと出逢った際、彼がしていたように。イリシャもまた、この芽の姿を記録しようと決めていた。
悠久に等しい時間の中で、彼を感じられる時間だから。
……*
「ユリアン、聞いて」
それからイリシャは、暇を見つけてはにこの地を訪れた。
様々な事を彼に聞いて欲しかった。同じ時間を共有したかったから。
「この間ね、芸術の国へ行ったの。
わたしたちの家があった場所へ」
筆を走らせながら、イリシャは語り掛ける。
葉が増えた苗は、より大きく風に靡いている。
「流石にもう古いから、わたしたちの家は残ってなかったわ。
でもね、建て替えられただけだったの。あの場所で、まだ薬屋は開かれているの。
ずっとずっと。わたしたちの宝物が、あそこで紡がれているのよ」
どうしてもユリアンに伝えたくて、イリシャは苗の元へと訪れた。
涙声を滲ませながらも、イリシャははにかむ。
自分達の子孫が、思い出の地をずっと大切にしてくれている事が嬉しくて堪らなかった。
彼も同じように喜んでいると信じながら、彼女は筆を走らせた。
……*
「ユリアン、聞いて」
しばらくして、イリシャはまた苗の元へと訪れる。
苗はまだまだ華奢だけれど、確実に成長を遂げている。
「この間ね、シンとフェリーちゃんの結婚式があったの。
二人とも、本当に幸せそうだったわ」
仲間達の厚意により建てられた教会は、まとまりのない見た目をしている。
それでも、込められた想いは伝わるのだから不思議なものだ。
「たくさんの人が来てくれたけれど、一番前の列は空席だったから訊いてみたの。
そしたら、何て言ったと思う? シンの家族や、アンダルとその奥さん。
それにユリアン、あなたや邪神の席まで用意していたみたい。
例え来られなくても、見て欲しかったからだって」
思い返しては、目頭が熱くなる。
シンとフェリーの二人で相談して決めた事だという。
「わたし、本当に嬉しかったの。
上手じゃないけれど、ユリアンにも見て欲しくて描いてきたの。
あなたへ届くと、いいのだけれど」
取り出されたのは歪な教会を背景に、花婿と花嫁を描いた絵。
その一枚は、苗の成長を描いたスケッチブックに挟まれていた。
……*
「ユリアン、聞いて」
青々と茂る若木へ、イリシャは語り掛ける。
既に背丈は彼女より高い。アルフヘイムの森が如何に肥沃な大地であるかが、よく解る。
「シンとフェリーちゃんにね、子供が生まれたの。
可愛い女の子で、名前はアンちゃんっていうの。
お産の時はね、わたしが手伝ったのよ」
少しだけ得意げになりながら、イリシャは胸を張る。
葉の重なる音が返事に聴こえて、彼女は頬を綻ばせた。
「少しだけ、アルを産んだ時のことを思い出しちゃった。
シンやフェリーちゃんに負けないぐらい、わたしとユリアンも喜んでいたわね」
遠い昔のはずなのに、忘れられない。忘れるはずもない。
いつまでたっても色褪せない大切な記憶。
ずっと胸に秘めていたかもしれないその記憶が取り出せた事を、イリシャは嬉しく思う。
……*
「ユリアン、聞いて」
また一段と育った木へ、イリシャは手を添えた。
掌を通して伝わるのは、確かな命の鼓動。
「この世界のことをもっと知りたいからって、ピースくんが旅に出ちゃったの。
そしたらコリスちゃんが動揺しちゃって。時々は帰るって言ってるのに、寂しいのよね」
苦笑しながら、イリシャは語り掛ける。
口に出さずとも動揺が伝わる彼女の様は、背中を押さずには居られなかった。
「だから、ピースくんに連れて行ってもらうようにお願いしちゃった。
ベルちゃんも賛同してたから、ピースくん少しだけ複雑な顔をしていたけどね」
コリスからピースへ。ピースからマレットへ。
好意の矢印は、見事にマレットで止まっている。
どんな形の決着になるかは解らないが、もう少し時間が掛かりそうだ。
「ミスリアの方では、アメリアちゃんとフローラちゃんが旅に出たみたいだし。
皆、この世界が大好きなのね」
イリシャはそっと、木へ自らの体重を預ける。
芯の通った幹は、彼女の華奢な身体をしっかりと受け止めた。
「ユリアン、ありがとう。この世界を護ってくれて」
彼女の言葉に応えるかの如く。揺れる葉が、一筋の道を創り出す。
暖かな木漏れ日が、イリシャを優しく包んでいた。
……*
「ユリアン、聞いて」
今日も今日とて、イリシャは樹の元へと訪れる。
ユリアンへ聞いてもらいたい話は山ほどあるのだから、当然だ。
「リタとレイバーンにもね、子供が出来たの。
妖精族の里のみんな、もう大騒ぎよ」
そう言いながらも、イリシャは嬉しそうだった。
一歩を踏み出す前からずっと友人だった二人が、子供を授かる。
こんなに嬉しい事はないと、終始笑顔で樹へと語り掛ける。
「シンやフェリーちゃんも、アンちゃんに友達が出来るって喜んでたわ。
産まれたら、ユリアンにも見せてあげるようにお願いするわね」
ユリアンは、息子だけではなく周囲の子供にも好かれていた。
生来の子供好きである彼ならきっと喜んでくれるはずだと、イリシャは声を弾ませていた。
……*
「ユリアン、聞いて」
いつものようにイリシャが語り掛けると同時に、閃光が樹を照らす。
次の瞬間。鮮明に描かれた樹の姿が、写し出されていく。
「これはね、写真って言うのよ。ベルちゃんが、ピースくんの知識とサーニャちゃんの能力を元に造った魔導具みたい。
見た通りに絵が出来上がるみたいで、びっくりしちゃった」
じっと写真と樹を見比べながら、その出来栄えに唸る。
それでも彼女は、筆を手に取った。
「もちろん写真も素敵だけれど、絵も負けていないわ。
線の一本描くたびに、あなたとの思い出が蘇るんだもの」
そう言って彼女は、真っ白なキャンパスに筆を走らせていく。
彼との思い出を噛みしめながら、今日も彼女は描いていく。
「でも、今のあなたもはっきりと残しておきたいから。
写真も一緒に、挟んでおこうかしら」
悪戯っぽく舌を出しながら、イリシャは再び閃光を焚く。
描かれた写真には立派な樹と、銀髪の女性が写し出されていた。
……*
それから先も、イリシャは事あるごとへ語り続ける。
魔力濃度の高い肥沃な大地で立派に育つ樹木。
その姿は、イリシャとの思い出を溜め込んでいるようにも見えた。
彼女からの言葉をただのひとつさえも取りこぼさないよう。抱きかかえるように。
描かれた樹の絵は、数えきれない程になっていた。
いくら話しても、話足りない。深い情愛が、そこには込められている。
そして法導歴0589年。
彼女は大木となった樹の元へと現れる。
両脇に、二人の子供を連れながら。
「ユリアン、聞いて」
優しく微笑みながら、広げた両手をポンと押す。
その動きに合わせて一歩を踏み出したのは、双子の兄妹。
艶やかな黒髪は、とある青年を連想させる。
偶然ではない。幼いながらも、その顔立ちには確かな面影が感じられた。
「シオン! シオン・キーランド!」
「フィ、フィンです!」
緊張をしながらも、腹の底から出された声は妖精族の里へと響き渡る。
眼前の大木もまた、葉音で双子の来訪を歓迎した。
「ほら。妖精族の里にも、カランコエと同じ樹があるでしょ?
世界でふたつだけの、特別な樹なのよ」
「ほんとだ!」「こっちも、おっきい!」
イリシャがそう告げると、シオンとフィンは眼を輝かせていた。
「これも、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんがやったの?」
「ええ、そうよ。二人はね、いろんな人を笑顔にしてきたの」
「すっげー!」
フィンが小首を傾げると、イリシャは微笑みながら肯定をした。
大好きなひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの話が聞けたからか。益々、双子の目が輝いていく。
「それでね、わたしはこの樹がとっても大好きなの。
二人にも、好きになってもらいたいな」
「うん、わかった!」「フィンね、この樹だいすきだよ!」
無邪気に笑う双子の姿がとても愛おしくて。
イリシャはそっと腰を下ろしながら、二人の頭を撫でる。
視線の先には、育ち切った大木が聳え立っていた。
「ユリアン。この子たちはね、シンとフェリーちゃんの曾孫よ。
二人もね、自分たちが愛したものを紡いでいったの」
イリシャはどうしても、シオンとフィンを紹介したかった。
悠久の刻を生き続ける中で、見つけた答えを聞いてもらう為に。
「わたしね、昔は自分の体質が怖かった。けれど、今は違うわ。
こうやってみんなが紡いでいくものを見られるって、とても幸せだって気付いたの。
これも、あなたが聞いてくれるからよ。ありがとう、ユリアン」
幾重にも重なり合う葉が、美しい交響曲を奏でる。
イリシャがまた頬を緩めると、周囲を閃光が照らしていた。
「わあ……」「きれいだね!」
写真を覗き込むようにして、シオンとフィンが感嘆の声を上げる。
まだ幼い双子と、銀髪の女性。背景には、皆を支えるように聳え立つ大木が写っている。
「旅の思い出よ。大切にしてね」
「うん!」
イリシャの言葉に、双子は満面の笑みで応えた。
それがとても嬉しくて、イリシャは筆を取る。
「じゃあ、次はわたしがみんなを描くわね」
「イリシャちゃんが描くの?」「写真よりきれい?」
「それはちょっと……。難しいかな」
無垢な問いに苦笑を浮かべるイリシャ。
一本一本。この瞬間が永遠に残りますようにと願いながら、彼女は筆を走らせていく。