10.大海原に眠るあなたへ
視線を外へ向けると、エメラルドグリーンの海が広がっている。
人魚族と海精族の声が混ざり合い、心地よい音色を奏でていた。
見上げれば、世にも不思議な空に浮かぶ島。
鳥人族や天馬族が宙を舞い、青空を賑やかにしている。
多種多様の種族が共生する島の名は、カタラクト島。
この地を訪れた者は、口を揃えてこういうだろう。『楽園』と。
その楽園へ近付いているのは一隻の船。
名はネクトリア号。ティーマ公国の貴族であるセアリアス家が所有する商船。
甲板には白いローブを身に纏った女性が立っている。肩に一羽の炎爪の鷹を乗せながら。
「ヴァルム。ここへ訪れるのも、久しぶりだな」
彼女が語り掛けると、ヴァルムと呼ばれた炎爪の鷹は甲高い声を上げる。
ヴァルムも覚えているのだろう。この地で、自分達の運命が大きく変わったという事を。
彼女の名は、トリス・ステラリード。
世界再生の民の一員としてこの地に混乱を引き起こした彼女を、きっと島は歓迎しないだろう。
それでも、トリスはどうしても訪れたかった。そうしなくてはならないと、兼ねてより考えていた。
……*
「ライル殿、ベリア。ここから先は、私だけで――」
錨を下ろそうとする中、トリスはそう告げようとした。
彼らにとってカタラクト島は、目指している形の完成系と言っても過言ではない。学ぶべき事は多いだろう。
ただ、自分がいてはきっとそれも叶わない。そう考えて、一歩身を引くつもりでいた。
けれど、二人がそれを許してくれるかどうかは別問題である。
「アンタはまーた、気を遣っているのかい」
「ベリア……」
ベリアの吐いた大きなため息が、その場の空気を支配した。
彼女はトリスという人間をよく知っている。
勿論、過去の罪悪感から自分達を巻き込もうとしていない事もお見通しだ。
だからこそ、呆れ果てていた。
「アタイたちとアンタは、立派な仲間じゃないのさ。
アンタがケジメをつけるってんなら、一緒に頭を下げるのが筋さ。
若旦那だってそのつもりだからこそ、ネクトリア号を出してくれたんじゃないか」
ベリアはフンと鼻息を荒げながら、トリスの視界を覆うように立ちはだかった。
彼女の白く美しい体毛は、空と海の美しさにマッチしている。
なんだか、島そのものに叱咤されているようだった。
「ベリアの言う通りだ。私たちが頭を下げたところで、意味はないのかもしれない。
けれど、君が背負うべきものならば一緒に背負わせてはくれないか」
「ライル殿……」
ベリアとは対照的な、優しい声色を奏でるのはティーマ公国の貴族であるライル。
好意を抱いているトリスの力になりたい。その一心で、彼は今回の協力を申し出た。
ベリアやライルだけではない。
ネクトリア号の船員が皆、強く頷いている。
「ありがとう、ございます……」
ミスリアを裏切って以降。トリスは罪悪感に苛まれていた。
それでも、多くの人が手を差し伸べてくれた。
もう、誰も裏切りたくはない。堂々と胸を張って生きていきたい。
迷いなき眼をもって、トリスはカタラクト島へ上陸をする。
精一杯の謝罪と、感謝を口にする為に。
……*
透明な壁の向こうでは、様々な海洋生物が縦横無尽に動き回っている。
海底で暮らす種族が生み出した結晶。海晶体で建てられた建物がなければ、こんな姿は拝めないだろう。
「これは……すごいな……」
海底へ潜った事も含めて、ライルとベリアは未知の世界に感動している。
一方で、トリスはこの神秘的な光景すらも破壊した記憶が蘇っている。
この島の主。蒼龍王と顔を合わせる前から、罪悪感で押し潰されそうになっていた。
「間も無く、蒼龍王様と奥様がお見えになられます」
謁見の間へトリス達を導いた人魚族のマリンが深々と頭を下げる。
彼女の言葉通り、カナロアとセルンが姿を現したのは直後の事だった。
「久しいな、トリス・ステラリード」
「は……!」
人間に擬態した姿で姿を見せた蒼龍王へ、トリスは跪いた。
事実、カナロアを顔を合わせるのはミスリアでの戦い以来。約五年ぶりとなる。
(あれが、蒼龍王――)
トリスと同じように頭を垂れながらも、ライルはカナロアの放つ威圧感に圧されていた。
自分のような小国の貴族と比べるのは烏滸がましいが、やはり器の違いを感じさせられる。
「して、トリスよ。我らは君の謝罪を受け入れるつもりはない」
「……っ」
そう言い放つカナロアの顔を、トリスは見ることができなかった。
覚悟はしていた。自分は多種多様な種族が手を取り合う楽園を破壊しようとしていたのだから。
赦されるはずはない。何より自分は、謝罪よりもスリットの回復を優先してきた。
誠意の欠片さえ、この島へ向けられてはいなかったのだから。
「ま、待ってください!」「せめてトリスの話を聞いてください!」
トリスが奥歯を噛み締めていると、背後から声が響き渡る。
ライルとベリアのものだ。二人はトリスの言葉を聞いては貰えないかと、必死に訴えている。
「ライル殿。ありがとうございます。
けれど、これが私の犯した罪の大きさなのです。
ベリアも、すまない。いつも私を支えてくれているのに」
「トリス……」
そう告げたトリスの表情は、とても穏やかなものだった。
彼女に心残りがあるとすれば、断罪の場に二人を連れてきてしまった事。
やはり、自分一人で来るべきだったと後悔をした。
深い群青に包まれた空間が、その深みも似た重い空気に包まれる。
張り詰めた緊張の糸を切る。いや、緩めたのは蒼龍王の妻であるセルンだった。
「あなた……。もしかして、トリスさんはあなたが赦していないと勘違いしているのではなくて?」
「なに!?」
「えっ?」
彼女の言葉を皮切りに謁見の間に漂う雰囲気が反転する。
驚いた顔から、僅かな焦りを見せるカナロア。目を点にするトリス達。
なんとなく、誤解が生じているだろうと予想していたマリンだけが笑いを堪えていた。
「トリスよ。我らは元より、君を恨んではいない。
君とても世界再生の民に運命を歪まされようとしていたのだ。
矛先を君にだけ向けるのは、間違っている」
セルンの話を受けてカナロアはカタラクト島の総意として彼女への怒りはないと説明をする。
以前の争いは世界再生の民によって引き起こされたもの。
トリス・ステラリードという一個人に対して、恨みを抱くのは正しくないと言う考えだった。
「ですが……!」
しかし、トリスは食い下がる。勿論、彼女もカナロアの言わんとしている事は理解できる。
けれど、実行したのは自分だと言う楔が刺さったままなのも事実だった。
「アメリアといい、ミスリアはどうにも生真面目な人間が多いな」
恨んでいないというのに、引き下がるトリスを前にしてカナロアは眉を下げる。
一方で、彼女の心情も察していた。
きっと不安なのだ。自分の犯した罪の大きさを自覚しているからこそ、見合った答えが欲しいのだと。
「この五年。罪の意識を抱えながらも、君はこの島を訪れなかったな」
「……返す言葉もございません。私はもっと、早く謝罪に訪れるべきでした」
カナロアを口を真一文字に結ぶ。
言い訳のひとつもしないのだから、困ったものだ。
「そういうことを詰めたいわけではない。
君が来られない理由も、罪の意識を抱えていることも全て我の耳には届いている。
その上で、君を赦してやって欲しいとも言われた」
「え……?」
明かされる事実を前に、トリスはただただ驚く事しか出来なかった。
脳裏に浮かぶのは「一体誰が?」という疑問。
尤も、その答えもカナロア自身の口によって明かされていく。
「ミスリアからはミスリアの王妃、アメリア、イルシオンという少年。
それに、シンやフェリー。ピースからも聞かされている。
ああ、そうだ。マレットという発明家や、リタやレイバーンからもだ。
兎に角、凡ゆる人物から君に対して咎めないように懇願を受けた」
「この島を護ってくれた人たちから頼まれたんですもの。
無下になんてできないわ」
「ああ、その通りだ」
談笑するカナロアとセルンをよそに、トリスは言葉を失っていた。
自分の知らぬ間に、皆が必死に掛け合ってくれていた。
トリスは海の底で、言い様のない温かさに包まれるのを感じていた。
「それだけではない。お主は、賢人王の神杖に選ばれた」
必死に嗚咽を噛み殺そうとするトリスへ、カナロアは続ける。
「賢人王の神杖が司る神は、調和と平穏の神。
我もこの島を纏める者として、大海と救済の神と同様に崇めている神だ。
その調和と平穏の神に認められた君の行末を見守りたいと思っている」
カナロアの言葉に偽りはなかった。
事実、彼女の為に多くの人間が動いている。紛れもなく彼女は、自分達と同じ精神を有しているのだ。
その歩みを止めさせるなんて、出来るはずもなかった。
「カナ……ロア……様……」
必死に声を絞り出しながら、トリスは深々と頭を下げる。
またひとつ、確かな温もりを感じながら。
……*
蒼龍王との謁見を終えたトリス達は、カタラクト島の大地を踏みしめていく。
行く先々で、共生する多くの種族に目を輝かせるのはベリアとライル。
トリスは反対に、多くの種族に声を掛けられた。
猫精族、鳥人族、天馬族。
彼らは皆、遠くに住む人間の友人の様子を知りたがっていた。
知る限りの事を話すと嬉しそうにする様は人間と何も変わらず、愛くるしいとさえ思う。
こんな世界を壊さずに済んだのは、皆が懸命に命を燃やしたから。手を差し伸べてくれる者がいたから。
それを理解しているからこそ、トリスはどうしても伝えたかった。
自分に一歩目を与えてくれた人間へ、感謝の言葉を。
……*
夕陽が海をオレンジ色に染め上げる。
昼とは違った美しさを眼に焼き付けながら、トリスは大海と向き合う。
「ジーネス、聞いてくれ」
言葉を送る相手は、かつて共にこの島を訪れた人間。『怠惰』の適合者である、ジーネス。
ピースと再会を果たし、この海で眠っていると聞かされてから、いつかは訪れたいと思っていた。
自分の言葉を彼へ届ける事が、せめてもの礼だと考えていたから。
「お前が命を救ってくれたから、私はこうやって生きている。
素晴らしい出会いもたくさんあった。大切なものを失わずに済んだ。
お前が私を大切にしてくれたから、私も他の誰かを大切に出来たんだと思う。
全部、全部。お前のおかげなんだ。本当に、ありがとう」
だらしの無い男は、自分を導いてくれていた。護ってくれた。
こうして大勢の人に囲まれたのは、彼のおかげだ。
だからこそ、トリスには心残りがあった。
「……お前に礼を返せないことだけが、残念だ」
彼からは与えられるだけで、何も返せなかった。
無念を感じつつ、トリスは踵を返す。
「もういいのかい?」
「ああ、待たせてすまない」
ベリアの問いに、トリスは頷く。
「謝ることは何もないさ。トリスにとって大切な人なんだろう」
「……ありがとうございます。ライル殿」
ライルの言葉に、トリスは頬を緩ませる。
ジーネスへ返せなかった恩は、他の人に返していこう。
彼が救った命は価値のある者だと証明する為に。
「また来るよ、ジーネス」
トリスがぽつりと呟いた瞬間だった。
一陣の風が、彼女の身体を撫でる。
「……!」
「トリス?」
トリスは反射的に自分の尻を両手で覆う。
不意に足の止まった彼女にライルとベリアは首を捻るが、「大丈夫」とだという言葉を受け入れた。
しかし、トリスは後ろを振り向く。
夕焼けに染まる海原を前に、彼女は頬を赤らめていた。
「……この、痴れ者が」
十中八九、偶然に違いない。
そう思いつつも、彼女はこの言葉を送った。
――礼なら先に受け取っているぞ。
そう言って豪快に笑う、だらし無い男の顔が浮かんだから。