1.残された時間は
法導暦0517年。
魔術大国ミスリアを発端とした、悪意によって生まれた人造の神を巡る戦いは終結した。
世界の各地で大きな爪痕を遺す一方、同時に多くの国や種族を越えた絆が生まれた。
妖精族の族長を務める男性、ストルもその中の一人である。
彼はこの戦いを通して、何者にも代えがたい経験を得た。そして、自らの価値観を大きく変えた。
排他的で、他の種族が何をしようとまるで興味を持たない。
かつて、妖精族の印象を問われればそう答える者が多かった。
ストルも例外ではない。むしろ、その筆頭のような存在だった。
だが、今は違う。
いつしかストルの傍では人間や魔獣族、小人族までもが当たり前に闊歩する。
昔の彼からすれば、考えられない状況。
けれど、ストルは過去の自分へ教えてあげたかった。
彼らを拒絶する必要などない。皆と共に居る事の尊さを、心地よさを、思うがままに受け入れるべきだと。
それは自分にとって、大きな一歩となるから。
……*
邪神との戦いを終えた、運命の日。
決着がついたその瞬間。
「終わりましたね……」
「ああ、そうだな」
緊張感から解放されたのか。オリヴィアはふっと顔を綻ばせた。
口にすれば、きっと気を悪くすると思いつつも。
汗と血と泥で汚れている彼女の姿を、ストルはとても美しいと感じた。
どれだけの無茶を強いられたか。どれだけ無謀な戦いに身を投げたか。
それでも彼女は決して諦めず、希望を繋いだ。
オリヴィア・フォスターはいつもそうだ。
理知的であるかのように見せかけて、最終的に持ち出すのは根性論だ。
だが、きっとそれは正しい事なのだろう。
そうでなければ新たな魔術を開発するなどという、地道な作業が出来るはずもない。
転移魔術を生み出すまでの間、ストルは数えきれないほどの失敗を経験した。
途中から参加した彼でさえも、そうだったのだ。
兼ねてより独りで構想を練り続けていたオリヴィアは、その何倍も心を挫けそうになっただろう。
それでもオリヴィアは歩みを止めなかった。
躓いても、立ち上がる。俯かずに、前だけを見据える。
妖精族に比べ、人間の寿命は遥かに短い。
だからなのだろうか。ひとつの事に、強い情熱が注がれる。
彼女を間近で見ていると、それがいかに尊いかを思い知らされる。
いつしかストルは、オリヴィアを美しいと思うようになった。惹かれていたのだ。
生まれた感情が恋心だと自覚するまでに、そう時間は必要としなかった。
共に魔術の研究をした仲間は、オリヴィアだけではない。
マレット、ピース、ギルレッグ、テラン。時にはシンやリタも協力をしてくれた。
でも、ストルにとってオリヴィアは特別な存在なのだ。
彼女が好きだという気持ちに、嘘はつけなかった。
人間の時間は、妖精族よりもずっと短い。
尻込みしている時間はない。
一年か二年。そう遠くないうちに、彼女へ気持ちを伝えよう。
はにかむ彼女の横顔を眺めながら、ストルは決心を固めていた。
だが、ストルは思い知る事となる。
時の流れは彼が考えているよりも、遥かに早く進むという事を。
……*
「あだまいだいです……」
祝賀会の翌日。
オリヴィアは頭を抱えながら呟いた。
彼女はあまり酒に強くない。けれど、酒そのものは好きなようだ。
大抵が呑んだ後に後悔をして禁酒宣言をするまでが一連の流れなのだが、生憎続いた様を見た事が無かった。
「大丈夫か?」
「ありがとうございます……」
ため息混じりに近付くながら、ストルは彼女へ水を差し出す。
礼と引き換えに受け取ったオリヴィアが、冷えた水を喉の奥へと流し込む。
脈打つ喉がなんだか色っぽく感じて、ストルは思わず視線を逸らしてしまった。
「どうかしたんですか?」
「いや……」
きょとんとするオリヴィアへ、そっけない返事をする。
直後。気を悪くしていないだろうかと後悔したストルをよそに、オリヴィアは首を傾げていた。
「ストル。昨日は楽しかったですか?
わたしは……。言うまでもないですね」
「ああ、楽しかったよ。オリヴィアほどではないだろうがな」
「あ、ひどいですね」
言葉とは裏腹に、オリヴィアは照れくさそうに笑みを浮かべる。
彼女は酔った勢いからか、それとも性分なのか。あらゆる人に絡んでいた。
研究熱心な彼女のことだ。きっと様々な種族の操る魔術から、新たな見聞を得ようとしていたのかもしれない。
ストルの考えすぎかもしれないが。
戦いは終わったが、研鑽の日々は終わらない。
妖精族の里へ帰れば、また新たな研究が始まるだろう。
自分も見識を広げておく必要があるなと、考えていた時の事だった。
「オリヴィア、こんなところにいたのね」
「フローラさま、お姉さまも」
ストロベリーブロンドの髪を揺らしながら現れるのは、魔術大国ミスリアの王女。フローラ・メルクーリオ・ミスリア。
その背後には、オリヴィアと同じ青色の髪を肩にまで伸ばした騎士が一人。
彼女の姉であり、この戦いを終わらせる礎となった神器のひとつ。蒼龍王の神剣の継承者であるアメリア・フォスターが付き添っている。
姉妹同然に育ったが故に、彼女達の仲の良さは主君と臣下という立場に留まらない。
その影響なのか、同じく周囲と気さくに接する妖精族の女王は、オリヴィア達と相性が良かった。
「オリヴィア。私はベルたちの元へ行くよ」
ミスリアはオリヴィアの故郷だ。積る話も少なくはないだろう。
仲睦まじい様子の彼女達を邪魔してはならないと、ストルが気を遣う。
「あ、はい。また後で」
ひらひらと掌を泳がせるオリヴィアの姿が、とても愛くるしかった。
後ろ髪を引かれる思いでその場を去ろうとしたストルだったが、不意に耳へと入り込んだ会話が彼の心を大きく揺さぶる事となる。
「お世話になった方々へのお礼もありますし、一度妖精族の里へ戻りましょう。
正式にミスリアへ帰るのはその後でいいですわね?」
「はい。私も異論はありません」
「そうですねぇ。わたしもきちんと挨拶はしておきたいですし」
(なんだって……!?)
ストルは、頭が真っ白になった。
オリヴィア達がミスリアへ帰る。即ちそれは、離れ離れになる事を意味していた。
(そうか、当たり前じゃないか……)
戦いは終わった。けれど、研鑽の日々は終わらない。
それは研究チームの皆で、ずっとずっと続いていくものだと思い込んでいた。
だけど、違う。
オリヴィアは元々、フローラの護衛として妖精族の里へと訪れていた。
脅威が去った今、彼女達が妖精族の里に滞在する理由は消えてしまったのだ。
離別の瞬間は、すぐそこにまで迫っている。
ストルは一年や二年と考えていたが、妖精族と人間では時間の価値がまるで違う。
だからこそ、彼女は立ち止まらない。理解していたつもりが、勝手に自分の尺度へ当てはめてしまっていた。
途端に、 ひらひらと舞うオリヴィアの手が自分の元から飛び去って行く鳥のように感じる。
突き付けられた現実を前に、ストルは重い足取りで歩みを進めていく。
段々と遠くなっているはずのオリヴィア達の声が、いつまでも耳元で囁き続けている。
故郷へと帰れる嬉しさからか。やや弾んだ声が、彼の気持ちを余計に沈ませていた。
……*
「まぁ、そうなるよな」
「……やけにあっさりとしているな」
あくまで研究チームの一員として。
オリヴィアが去るのは痛手となる。ストルはそんな体でマレットへと相談をした。
けれど、マレットの反応はあっけらかんとしている。少なくとも、深刻さは一切感じられない。
「そりゃ、戦いは終わったんだ。収まるとこに収まるのは当たり前だろ。
実際、アタシもマギアに戻らないかって声を掛けられていたしな」
「そういえば、言っていたな……」
そんな話も挙がっていたなと、ストルは思い返す。
いや。むしろ彼女が断ったからこそ、この研鑽は続いていくものだと思ったのかもしれない。
「テランも、エステレラの本家を訪れるように言われているらしい。
オリヴィアたちと同じタイミングで、ミスリアへ帰るかもしれないな」
「テランもなのか……」
オリヴィアに続いて、テランまで。
環境が容赦なく移り変わっていく様に、テランは胸が苦しくなった。
研究室で共に過ごした時間が、如何に掛け替えのないものだったかを思い知らされる。
「まあ、今生の別れってわけでもないんだ。
会う機会はこれからいくらでも作れるだろ」
「ああ……」
慰めようとするマレットに対して、ストルは生返事で応えた。
心ここに在らずと言わんばかりの彼を前にして、マレットは全てを察した。
「そんだけ落ち込むなら、もう告っちまえよ」
「ああ……」
肩を竦めながら、ストルの悩みの核心を貫くマレット。
彼女はこれから先の人生を、妖精族の里で過ごすつもりでいる。
時間はいくらあっても足りないのに、こんな辛気臭い男がうろついていると思うと、やり辛いだけだ。
女々しい振舞いをするぐらいなら、悔いを残すな。彼女はそう、ストルへと告げた。
「なっ、なっ、なっ……! ななな、何故知っている!?」
だが、当のストルはそれどころではない。
直接相談をしたレチェリ以外に隠していた心の内について指摘されたのだ。
動揺を元に、顔を紅潮させながら汗を拭きだしていく様子がおかしくて、マレットは笑いを堪えるのに必死だった。
「あ、やっぱりそうだったか」
「ベル、貴様謀ったな!」
「あっさり引っ掛かるお前もお前だけどな」
顔を真っ赤にするストルと、堪えていた笑いが噴き出すマレット。
ストルは必死に隠していたようだったが、マレットの前では意味を成さない。眺めていれば、ある程度は察する事が出来る。
彼女は10年間もの間、すれ違い続けて来た男女を見守ってきたのだから。
(ま、オリヴィア自体も満更じゃなさそうだしな)
尤も、マレットとて冗談交じりで背中を押した訳ではない。
シンとフェリーほど露骨ではなくとも、勝算はあるというのがマレットの見解だった。
唯一の懸念としては、オリヴィアは他人の色恋沙汰に興味津々な癖して、自分の件については話そうとしない事だろうか。
故に下手に期待させてはいけないと、この場では口を噤んだ。
「き、気持ちを伝えたところでオリヴィアがミスリアへ帰ることには変わりないだろう」
そんなマレットの考えをよそに、ストルは口を尖らせる。
例え恋心を伝えたとしても、離別の時はすぐ傍にまで迫っている。
仮にうまく事が進んだとしても、却って辛くなるだけではないだろうか。
「オリヴィアがお前んトコに嫁ぐなら、妖精族の里に残るかもしれないだろ」
「とっ……」
間髪入れる事無く繰り出される指摘に、ストルは思考を揺さぶられる。
そこまで深く意識しないようにしていたというのに、否が応でも想像してしまう。
寝ても覚めてもオリヴィアが居る生活。
まるで夢のような毎日だ。考えるだけで、心臓の鼓動が早くなる。
「だ、だが! 戻ると言ったら!?」
甘美な妄想に浸りたいところだったが、そうはいかない。
自分の都合がいい様に事が進むはずはないと、ストルが声を荒げる。
「だったら、お前がミスリアへ行けばいいじゃんかよ」
それでもマレットは「告白しろ」という姿勢を変えない。
この10年でよく解った。胸の内に抱え込むだけでは、何も進展しないことを。
というか、この提案はマレット自身の為でもある。
煮え切らない様を間近で見せられるのは案外ストレスだと知っているから。
玉砕しろとまでは言わない。決して、分の悪い賭けではないのだから。
ただ、動かなくては何も起きない。残りの人生を、悶々と過ごすだけだ。
だったら行動を起こすべきだと、マレットは背中を押し続ける。
「私が、ミスリアに……」
思いもよらぬ選択肢を提示され、ストルはハッとさせられる。
100年以上も根を張らせた、アルフヘイムの森を離れると言う選択肢。
それには、大きな障害が待ち受けている。
「だが、しかし……。居住特区の責任者である私が放置など……。
族長としてもの仕事も残っている……。なにより、奔放なリタ様を止める者が――」
「お前、めんどくせえな」
責任感の強さ故に、数々の問題を放置してミスリアへ向かう事など出来ない。
彼女へ気持ちを伝えようという決意はどこへ行ったのやら。
ぶつぶつと「行けない理由」を探しては呟くストルを前に、マレットは呆れたように大きなため息を吐いた。