後編
8/11 犠牲者の話を一つ乗せ忘れているのに気が付き追加しました。
飯田愛の場合
「ああ、もう! あのハンカチを忘れるなんて!」
感情に任せて投げてしまったハンカチは、去年の誕生日にプレゼントでもらったものだ。
とても大切にしていたのに、くれた本人があんな態度を取るものだから、かっとなって投げてしまった。急いで取りに行かないと、いくら夏だからと言ってもあの場所は森の中だから他よりも暗くなるのが速い。それに、なんだか天気も悪くなりそうだし……
あの三人を見つけた池まで急いだ私は、池の入り口に自転車を止めて坂を下りた。スカートだったからか何度も滑りそうになったけど、木に掴まりながらなんとか下まで降りて、足元に気を付けながらハンカチを投げてしまった場所まで移動した。
「こんなに遠かったかな?」
まだ辺りは明るいのに、普段行かないような場所だからなのか不気味な感じがして、私はあの三人を追いかけた時よりも時間がかかっている気がして不安になってしまった。
「え~っと……多分この辺り……あった! あの石! あの石の近くに投げたはず!」
ハンカチを投げたところに四角い石があったのを覚えていたので、その辺りにあるはずだと思って探すと、その近くの茂みに探していたハンカチが引っ掛かっているのを見つけた。
そのハンカチを拾って、早く帰ろうと振り返った時、
「えっ! きゃあっ!」
すぐ目の前に、おばあさんがいた。
おばあさんは黙ったまま、じっと私を見ている。
「えっ! あの……もしかして、ここの土地の人ですか? そうだとしたらごめんなさい。すぐに出て行きます! ここにはもう勝手に入らないので、許してください!」
おばあさんは、私が勝手に入ってきたので怒っているのだろうと思い、すぐに頭を下げて謝ったのだけど……頭を下げている間、おばあさんは何もしゃべらずに立っていた。
私は余程おばあさんが起こっているのかと思い、恐る恐る顔を上げてみると……
「えっ?」
おばあさんは笑っていた。
「え? ……おばあさん?」
それはどう見てもまともな……いや、人が出来るような顔じゃなかった。
おばあさんの形をした何かの目は白く濁っていて、口は横に大きく裂けている。
「ケケ……」
目の前の化物から笑い声のようなものが聞こえた瞬間、
「えっ……おぼっ……」
私は強い力で引っ張られて、池に引きずり込まれた。
私は水面に浮き上がろうと必死になって、何度も何度も水をかいたものの……私の体はどんどんと下へ下へ沈んでいった。
絶対にこの池はこんなに深いところは無かったはず……そう思っている間も、私と水面の距離は離れて行く。
苦しい、もう無理……私の限界が来た時、背中に何かが当たる感触があった。
意識が無くなりかけた状態で、ようやく池の底に着いたのだと思ったのだけど……それは違っていた。
私の背中のさらに下から何かが動たと思ったら、白い塊が私の目の前に現れた。
それを見た私はあまりの恐怖に、
「―――――――!」
水の中だというのに叫び声を出そうとしてしまい、体の中に大量の水が流れ込んできてしまった。
(……)
最後に私が名前を呼ぼうとしたのは、お母さんなのかお父さんなのか、それとも……
馬場公彦の場合
「お~い、馬場!」
公園の隅で、むしゃくしゃしながら木を蹴っていると、ようやく待ち合わせをしていた下野と中野がやって来た。
「おせぇぞ!」
「何怒ってるんだよ!」
「俺たちは時間通りに来ただけだ! お前が早いんだよ!」
「約束の時間前に来るのは常識だろうが!」
出かける時に母ちゃんに怒られたせいで、つい二人に対して怒鳴ってしまった。
「何だよ、せっかく誘ってやったのによ!」
「お前だけおいて行ってもいいんだぜ?」
そのせいで二人は俺を置いて目的の場所に行こうとしやがった。
「悪かったよ……」
この二人に謝るのは嫌だったけど、ここでへそを曲げられて置いて行かれたら、二人だけが知っているという秘密の場所に連れて行ってもらえなくなる。
今日何としてもその場所に案内させないといけない。嫌だけど謝っておけば、明日からは俺一人でその場所で釣りができる。
少しイラつきながらも、二人に案内されたのはMダムの入り口から五~六分くらい進んだところにある駐車場で、そこで自転車を止めるように言われた俺は、二人の後ろに続いて俺が隠れるくらいの高さがある草むらを進むことになった。
「ここだ、着いたぞ!」
草むらに入って五分もしない内に到着した場所は、道路からは完全に隠れるようなところにある岩場で、俺たちが三人並んで釣りをしても十分な広さがあるような場所だった。
「ここ、上が木で覆われているから、引っ掛けないように気を付けろよ。横投げする時も、隣の奴に引っ掛けないようにな! 中野みたいに……」
「あれはお前が急に寄ってきたからだろうが! 俺が下手だったわけじゃねぇ!」
などと、下野がここでの注意と中野のやらかした話をすると、中野が下野に食って掛かっていたが、俺はこんなに釣れそうな場所に来たのは初めてだったので、正直言って下野の話は耳に入ってこなかった。
それよりも早く釣りをしようと、一番よさそうな場所を取ろうとした時、
「ちょっと待てよ! そこは俺か中野の場所だ! お前はあっちな!」
下野に肩を掴まれて、端っこの投げにくそうな場所に行くように命令された。
「文句があるなら今から帰れよ。それと、ここのことは絶対に秘密だし、俺たちの許可なしに来るんじゃねぞ!」
そう言って笑う下野を俺は殴ってやろうかと思ったが、今は我慢してやればいい。
許可がどうのこうのと言っているが、ここは下野の土地じゃないんだからそんなものはいらないし、いくら強がっていても下野と中野は陰でこそこそ悪口を言うようなことしかできない卑怯者の弱虫だ。喧嘩で俺に勝てるわけがない。
そう思って大人しく場所を譲ってやったものの、あいつらはバスが釣れるのに俺は全然釣れない。
場所を変わるように頼んでも、あいつらは笑うだけで全く聞く気がないみたいだし、今日のところは帰るか。
そう考えていたら、
「今の音! 大きいぞ!」
俺の後ろから、何かが跳ねる音がした。
今の感じだと、四十……いや、五十はあるはずだ!
俺は急いで音の下場所にルアーを投げるが、その音には下野と中野も気が付いたようで、俺が投げたところと同じような場所に下野がルアーを投げてきた。
「邪魔だ! 早く回収しろ!」
「お前がどけ! ここは俺が教えたんだから、あれも俺のだ!」
この場所に追いやったのは下野なのに、あいつはそれを棚に上げて俺の獲物を奪おうと無理やり割り込もうとしてきて、俺を押しのけようとして勝手に水に落ちた。
「馬鹿! 魚が逃げるじゃないか!」
そうは言ったものの、下野のせいで魚はすでに逃げているだろうし、このまま放っておくことも出来ないので中野と一緒に下野を引っ張り上げたが……
「お前がどけばよかったのに、お前のせいで俺が落ちたんだろうが!」
せっかく助けてやったというのに、下野は八つ当たりで俺を水に落とした。
ただ運のいいことに、俺が落ちたところは下野の場所と違って足場になる岩のようなものがあり、膝よりも少し上くらいの深さしかなかったので、溺れるようなことは無かった。
しかし、これにはさすがの俺も頭にきて、何かぶつけてやろうと思い立ち上がる時に手に触れたものを掴んで投げつけようと腕を振り上げようとしたのだが……
「え……なんだこれ……」
細長いから水草か何かだろうと思っていたものは、水草よりも細く白い糸のようなもので、その糸のようなものがよく見ると俺の体にも巻き付いていて、
「ひ……ひゃあああーーー!」
「ぎ……ぎゃあああーーー!」
二人の悲鳴が聞こえた瞬間、俺の体はすごい勢いで後ろに引っ張られて水の中に引きずり込まれてしまった。
(息! いきっ! うえ! 水! どこ! 苦し!)
手をバタバタさせても俺の体は水面に近づくことは無く、下にすごい勢いで引っ張られて行き……
(泥……)
背中が底に当たる感触がして、その反動で体が少し浮く感じがしたけど、すぐに腕と体の糸が引っかかって止まった。
(あ……ヘ……ビ?)
もう苦しさも感じなくなって何も見えなくなりそうになった時、何か太くて長いのが俺を見ていた気がする……それに、
(あれ……なんだ……)
さらに上の方で、何かが泳いでいた気がしたけど……
下野康弘の場合
「に、逃げろ!」
化け物みたいなのが水の中から出てきたと思ったら、いきなり馬場が後ろに飛んで行って水に落ちて沈んでいった。
俺は怖くなってすぐにそこから逃げようとしたけど、
「どけ! どけっ! 中野どけっ!」
どんくさい中野が前にいるせいで、なかなか上に上がることが出来ない。
このままだと、あの化け物が俺に襲い掛かってくるかもしれない……そう思った俺は、目の前の中野を引き釣り下ろそうとして、その背中に背を伸ばしたところで、
「え?」
自分の足に白い糸みたいなのが絡まっているのに気付いた。その糸は長くて、その先は水の中まで続いている。
これに似たようなのが、馬場の腕と体に巻き付いていた……そう思った時、
「う、うわぁあああ!」
俺は馬場と同じように水の方へと引っ張られた。一瞬、中野に助けてもらおうと手を伸ばしたけど、中野は俺の手から逃げるように体をひねって躱し、俺を見捨てて一人だけ逃げて行った。
「くそ野郎がーーー!」
俺の声に中野は一瞬足を止めたものの、すぐにまた動き出して見えなくなってしまった。
俺は近くの木にしがみついて何とか引き込まれないように頑張ったが、
「あがっ!」
すぐに手が離れてしまった。
おまけに手が離れた後で地面にぶつかったせいで、目の前が赤くなっている。
しかし、痛いとか感じる前に、俺は水に落ちた。
「あが! ごぼ、れる!」
馬場の時みたいに一気に沈む感じじゃないが、それでも少しずつ水面が遠くなっていく。
俺は何とか足の糸を外せないかと思い、体を丸めて糸に手を伸ばしたのだが……その時に見てしまった。俺を水の中に引きずりこんだ奴の正体を。
あれは化け物だ! あんな生き物、いるはずがない! あんな何十mもありそうな白いヘビの体に人に似た顔が付いていて、その頭からは体よりも長そうな白い毛が生えているなんて、あんなの漫画の中でも見たことがない!
(くわ、食われる! あ、足! 糸、外れ!)
化け物を見てしまった俺は、すぐにでも逃げないと食われると思い、必死になって糸を外そうとしたものの上手くいかず、いつの間にかひっかくようにして糸を切ろうとしていた。
そのせいで、少し赤くなった水が俺の顔に当たったが、そんなことを気にする余裕などなかった。ただ、そんなことをしているうちに、
(取れた!)
何かのはずみで、糸がするりと足から外れた。もしかすると、絡まっていたのは糸の先の方だったのかもしれないが、そんなことよりも早く逃げないと……そう思って視線を明るい方へと向けようとした時、馬場と目が合ってしまった。
馬場はすでに死んでいるのか動く様子がなく、おまけに糸が体に絡まって底の方から離れられなくなっているらしく、口を半開きにして俺の方を見ている。
そして、糸に絡まっていない方の手は……まるで俺に助けを求めているのか、もしくはこっちに来いと誘っているかのように、伸ばされた状態で揺れていた。そんな俺と馬場の間に、
(あああーーーー!)
ぬっと、ヘビのようなばけものの、人に似た顔が割り込んできて俺を見た。そしてわらった……
(あ……)
俺は恐怖で手足を必死に動かして、水面を目指したが……
中野将太の場合
「誰か! 誰かっ!」
必死になって草をかき分けながら斜面を登り、どうにかして上の道路まで出たけれど、どんなに叫んでも人の気配はしない。泥だらけのズボンのポケットから、震える手で何とか自転車の鍵を取り出した俺は、自転車に付けられた鍵を開けようとしたが上手く鍵が刺さらない。
「何で二つもつけたんだよ!」
いつもなら十秒もかからなかった鍵が、こんな時に限って開かない。
その間にも、後ろの方で何かが水に落ちるような音がして、誰かが水面でもがきながら叫んでいる。
「あ、開いた!」
ようやく開いた鍵を放り捨てて、俺は急いで自転車にまたがり道路を走り出した。
「うわっ!」
しかし、数十mもいかないうちにペダルから足を踏み外してしまい、思いっきりこけた。そのせいで、膝とひじから血が流れている。
でも、今はそんな些細な痛みに構う暇はない。そんなものよりも怖い化け物が、俺を狙っているんだ!
「何なんだよ、アレ!」
俺は自転車を必死に漕ぎながら、あの場所で見た化け物を思いだしていた。
「あんな気味の悪いババアがいるわけない!」
俺が見たのは、いつの間にか水面に立っていたババアだ。
ボロボロの服に腰の曲がっていたが、それだけならまあ探せばいないことは無いだろう。
しかし、俺の後ろから現れたならともかく、あいつは水に落ちた馬場の後ろに立っていた。それこそ、いきなり水の中から出てきたとしか考えられないし、そもそも馬場の膝くらいまである深さのある場所に、人間は濡れずに立つことなんてできない。
「それに、あのババアの横にも何かいた気が……いや、絶対にいた! あのババアが不気味に笑った瞬間、ババアの足元から何か白い糸みたいなのが伸びてきて馬場の水に引きずり込んだし、その後も……」
下野も……と言いかけて、俺は下野を見捨てたことを思い出した。その瞬間、気持ちが悪くなって吐きそうになったが、
「いや、あれは仕方のないことだ! 俺にはどうすることも出来ないし、何よりも下野は俺を巻き添えにしようとした! いやもしかすると、俺をいけにえにして自分が代わりに助かろうとしていたかもしれないんだ! 絶対にそうだ! だから俺のやったことはただ自分の身を守っただけだ! 当然のことだ!」
俺は悪いのは俺を自分の代わりにしようとした下野で、俺は自分を守る為に当たり前のことをしただけだ! そう自分に言い聞かせるように叫びながら自転車を爆速で漕いでいると、気が付いたらダムの入り口を通り過ぎていた。
ここまでくれば、後はダムから離れていくだけだから少しは安心できる……そう思った時、
「な、なんで!」
目の前に、あのババアがいた。どう考えても、ここはあの場所から大分離れているのに、いきなりこんなところに現れるはずがない。
一瞬、この勢いのまま横をすり抜けるか? そう考えたが、
「ムリムリムリ!」
あの不気味な顔を見た瞬間そんなことは不可能だと感じ、俺はすぐに方向転換をして、ダムの下の公園へと向かう道に自転車を進めた。
「う、うわぁああーーーー!」
でもその道は、細くて曲がりくねっているうえに、自転車だと結構きつい坂だったせいで、俺は何度も転びそうになったし死ぬかと思った。
実際に、カーブを曲がり切れずにガードレールにぶつかりもした。多分その時に骨が折れたかもしれないけれど、そんなのはあのババアよりも怖いものでは無い。
俺は痛みも気にせずに坂を下り、何とか下まで降りたところで、
「家だ!」
ちょっと古そうな家を見つけた。古いけど、あそこなら人がいるはず。
そう思ってその家に助けを求めようとしたが、
「だから、なんでいるんだよ!」
その家の手前の草むらから、またもババアが現れた。
俺は驚いて急ブレーキをかけたせいで自転車から転げ落ちてしまい、派手に地面に転がってしまった。
そんな俺に向かって、ババアはゆっくりと近づいてくる。
「く、来るなぁーーー!」
俺は後ずさりしながらなんとか立ち上がり、急いで反対へと逃げようとしたが、ダムから離れる方向にある道は木の影で暗くなっていて、そこからまたババアが出てくる気がした。なので俺は少しでも明るい方へと逃げようとしたが、その道は、
「行き止まり……」
ダムの真下へと続く小道で、途中で途切れていて進むことが出来なかった。
「あのババアは、ひっ!」
すぐに引き返さないと、あのババアに捕まってしまう! そう思ってきた道を戻ろうと振り返ると……ババアはいつの間にか、俺の目の前にいた。
「ひっ! いや! 助けて!」
俺はズボンが濡れるのを感じながら四つん這いでその場から逃げようとしたものの、ババアはすぐに追いついて俺の肩に手を置き、すごい力で振り向かせた後、
「いやぁああああーーーーー!」
不気味に笑った。真っ赤な目で俺を見つめ、耳まで大きく裂けた口から細く長い舌をちらつかせながら。
茶園忠太の場合
「あ……」
家の方向が一緒だから、時間が被らないように図書室で時間を潰してきたのになんでいるんだよ……あいつといると馬場のことを思い出してしまうから会いたくなかったのに……でも、今更引き返すものあれだし……
一緒に帰りたくないけど、どうやっても途中まで同じ道だから、急いで靴を履いて先に出るか……そう思っていたらあいつも同じ考えだったらしく、げた箱から出るタイミングが被ってしまった。
だから仕方なく一緒に門へと向かったけれど、その間僕たちは一言も話さなかった。ただ黙ってこのまま歩き、分かれ道で黙って別れる……お互いが声を出さなければ、馬場のことを思い出すことは無い。
そう思っていたのに、
「君たち、ちょっと話を聞かせてもらえるかな?」
校門を出たところで、いきなり大人の人に声をかけられた。声をかけてきたのは男の人だったけど、その隣には若い女の人もいる。
この辺りには僕はこの二人を知らないけれど、もしかするとあいつの知り合いかも? と思ったけれど、どうやらあいつもこの二人は知らないようだった。
この男の人は馬場たちのことを聞きたくて待っていたそうだが、女の人はそんな男の人を止めようとしている。
男の人は女の人の言うことを無視して馬場たちのことをしつこく聞いてきたけれど、あいつは何も答えなかったし、僕も答えたくなくて早く居なくなってくれないかな……と思いながら、何となく遠くの方を見ていると、
(今何かいなかった?)
家の反対の方向にある坂に黒いものが見えた気がした。
すぐ横では、男の人があいつから何とか話を聞こうとしていたけれど、僕はそれよりも坂の上に見えたものが気になって、目をこすってもう一度坂の方を見ると、
「……え?」
黒いものは坂ではなく、その下にある交差点にいた。
ここまで来ると、その黒いものの正体が分かった。それはおばあさんだ。
ただ、絶対に普通のおばあさんではない。だって、
(なんで誰も気が付かないの?)
坂の方から一瞬で交差点まで移動したのに、近くを通っている同じ学校の子たちは全く気にしていない。それどころか、まるで見えていないように交差点のど真ん中にいるおばあさんの方を見ようともしていないのだ。
そんなおばあさんは、
「ひっ!」
僕と目が合うと、口を大きく横に開いてわらった。
いつもならそんな遠くまで細かいところが見えるはずないのに、その時は何故かはっきりとみえたし、何故か理解もできた。
あのおばあさんは、僕が目的なんだと……
「あ、あ、あ……」
僕はあのおばあさん……いや、あれの存在を伝えようとしたけれど声が出せなかった。
ただ、何とか腕は動いたので指をさしたけど……ほんの一瞬目を離した隙にあれは消えていた。
その間に、皆が僕の指さす方を振り向いた。だけど……
(なんで気が付かないの! 目の前! 目の前にいるのに!)
誰一人として、また姿を現したあれに気が付いていなかった……目の前にいるのに!
あれに皆が気が付かないのと、あれが僕だけを見ているという状況に僕は気絶しそうになるくらい怖くなり……
「茶屋君、どうしたの? 大丈夫?」
女の人が肩に手を置いた瞬間、僕は訳が分からなくなって逃げてしまった。だって、あれが僕を指さして嗤ったから……
僕は走って走って走って……どの道をどんな風に走ったのかは覚えていないけれど、気が付いたら自分の部屋の中に居て、ベッドの上で布団にくるまっていた。
もしかすると、家の中にあれが入ってくるのではないかと思い、怖くて動けなかったけれど、突然トイレに行きたくなってどうしようかと悩み、結局布団から出ることにした。
間違いなく自分の家なのに、何だか全然知らないところにいるみたいで、僕は壁に手をつきながらゆっくりと慎重に、誰もいないことを確認しながらトイレを目指し、あと少しでトイレのドアに手が届く……というところで、いきなり家のドアを叩く音が聞こえたかと思うと、何度もチャイムが鳴り出した。
あれが来たんだ! そう思った僕は、急いで自分の部屋に逃げようとして、足を滑らせて転びそうになってしまった。
なんで水がこんなところに……と思いよく見てみると、その水は自分のズボンから漏れたものだった。それを知った瞬間、僕はとても恥ずかしくなり、濡れたズボンとパンツを脱いでそれで床を拭いた。その時だけは怖さよりも恥ずかしさが先に来て、あれのことを忘れていた。
床を拭き終わった僕は、持っていたズボンをごみ箱に捨てると、
「ひっ!」
また玄関のチャイムが鳴ったので、怖くなってその場にしゃがみこんでしまったけど、玄関は何度かチャイムが鳴った後で、郵便受けから何かがカサリと落ちて静かになった。
そのまましばらくの間しゃがみこんで静かにしていたけれど、それ以降は何も音がしなくなったので少し安心し、僕は玄関の様子を見に行って落ちていた紙に気が付いてそれを拾った。
その紙には電話番号と、何かあったらあの時の男の人が助けてくれるかもしれないということが描かれていたけど、正直僕はあの男の人が信じられなかったので、テーブルの上にその紙を放り投げてから部屋に入った。
そして、部屋に置いているパジャマのズボンをはいて、さっきと同じように布団にくるまり、お父さんとお母さんが帰ってくるのを待つことにした。でも、そこで今日の二人はそろって夜勤だったことを思い出してしまった。
二人が帰ってくるのは夜中になるはずだ。それまで一人でいるのは怖かったけど、お父さんの方のおじいちゃんとおばあちゃんはもういないし、お母さんの方も離れたところに住んでいるので、怖いけどこのまま我慢するしかない。それに、いくらあれでも家の中まで入ってこれないはずだ。
そう思うと少し眠くなってきて、僕はいつの間にか横になっていた。
「う……ん……何の音?」
どれくらい眠っていたのか知らないけれど、僕は何かがバタバタと鳴る音で目を覚ました。そして、まだ少し頭がボーっとした状態で部屋から出ると、
「なんだ、カーテンの音か……え?」
音の正体に気が付いてホッとしたものの、すぐに絶対に閉めたはずの窓が開いていることに気が付いた。
「なん……何で……」
恐ろしくなった僕は、すぐに窓のところに走って鍵をかけてからふと前を向くと……僕の目の前、窓の向こう側に、あれが立っていた。
「ひゅっ……」
僕はあれの姿を見つけてしまった瞬間、これまで経験したことがないくらい心臓が激しく動き、僕は眩暈がして後ろに倒れそうになった。
ただ、僕の後ろにはテーブルがあったので、テーブルが支えになって床に倒れることは無かった。
「こ、これ……」
倒れそうになった時に伸ばした手の先に何か当たったのでそれを掴むと、それはあいつがくれた電話番号の書かれた紙だった。
もしかしたら助かるかも? と思って、急いであの男の人に連絡しようと電話のところに行ったけれど、指が震えている上に初めての番号だったので、僕は何度も押し間違えてしまった。
「ま、また、駄目……い、急がないと……」
何度目のかの失敗の後、僕はあの男の人の番号は諦めて、あいつの家にかけることにした。
『もしもし、どちら様ですか?』
あいつの家には何度も電話をしているからか、あの男の人の番号とは違って間違えることなく一度目で電話がつながった。
それに、電話に出たのはあいつだったので、少し落ち着くことが出来たけど、
「助け、家の周りに変な……あっ……う、うわぁあああーーー!」
あれが窓の外からベランダに移動していて、おまけにちゃんとかけたはずのベランダの大窓の鍵が外されたらしく、今まさにあれが家の中に入ってくるところを見てしまい、何があったのか最後まであいつに伝えることが出来なかった。
ゆっくりと近づいてくるあれに恐怖を抱いた僕は、電話の受話器を放り投げて玄関に走り、急いで鍵を開けて外に飛び出した。
外は今にも雨が降り出しそうな曇り空のせいで暗いけど、電灯のおかげで走れるくらいには明るい。それに、もう少し行けば田んぼの向こうにあるあいつの家が見えるはず……そう思って走り出そうとした時、後ろでバタンとドアの閉まる音がした。
そこで初めて家から離れるのではなく、近所の人たちに助けを求めればよかったと後悔したけれど、もしかしたら少しうるさかったせいで、誰かが外の様子を見に出てきたのかもしれない。
そう思って振り返ると……出てきたのは近所の人ではなく、僕の家から出てきたあれだった。
「いやぁあああーーー!」
僕は自分でも驚くくらいの大きな声を出して、その場から逃げ出した。そして、
「は、早く、あいつの家に!」
僕は少しでも早くあいつのところに逃げようとして、あろうことか田んぼのど真ん中を走り抜けようとしてしまった。
そして気が付いた時には、
「あ、足が抜けない!」
泥の深みに足がはまってしまい、田んぼのど真ん中で転んでしまった。
「く、来るな! 来ないで!」
ゆっくりと近づいてくるあれに向かって、僕は泥を投げつけてみたけれど当たることは無く、少しでもあれから離れようと何とか足を引き抜き、泥の中をはいつくばって逃げた。だけど、
「ぐえっ! く、苦し……」
細い糸のようなものが後ろから首に絡んで、僕は泥の中に顔面から転んでしまった。
(い、息が……)
視界のほとんどが泥で隠れ、意識がぼんやりとしていく中で、僕は丸太のように太くて白いものを見た気がした。
そしてそれが、僕が最後に見たものになった。
安部山晃の場合
「え⁉ 出張ですか?」
「ああ、誰かいないかと上の人たちが探していたら、誰か知らんが安部山がそこの出身だと気が付いたらしくてな。どうせなら地元の奴を向かわせようということで、お前が指名されたというわけだ」
忘れたくても忘れられないあの事件から二十数年が経ち、俺は生まれ故郷とも、引っ越し先の隣県とも違うところで暮らしていた。
子供のころに引っ越しした隣県で俺は高校と大学を卒業したが、隣県ではどうしても子供のころに住んでいた場所の話題が出ることもある。
地方都市とはいえ、生まれ故郷はあの県の第二の都市と言われていたくらいだから、頻繁というわけではないが違う県に居てもテレビや雑誌などで特集されたりもした。
そして大学を出てからは、俺は父さんと同じ会社に勤めることになったのだが、ある夏の日、あの事件の話がテレビで出たのを見てしまったせいで大きく体調を崩してしまい、それを機にもっと離れたところで生活したいと思い、違う県の支社に異動願いを出して移り住んだのだ。
移動願を出した時、復帰早々に異動願いを出したせいで上司には驚かれ違う心配をされたものの、丁度支社の人員整理と重なったのと、その上司が父さんの同期だったこともあってある程度の事情を知っていた為、何とか希望通り違う県に移り住むことが出来たのだった。
異動先の支社では、俺の事情を知っている人はいなかったし、あの事件のことを知っている人もいなくて話題もされなかったので、ここ数年は安心して暮らしていたのだが……ついに恐れていたことが起こってしまった。
「それに、さらに調べてみると、出張先は昔お前のお父さんが務めていたという話じゃないか。これは何かの縁だという話が社長の耳にも入ったらしくてな。営業成績もいいし、お前しかいないと上は勝手に盛り上がったらしいぞ。今回の出張が無事に済んだら、もしかすると出世の道が開けるかもしれん。頑張ってこい!」
この上司は少し強引で人の話を聞かないところがあるが、俺がこの支社に移ってきた時から世話になっている人だし、他の同僚からの人望も厚い人なのだ。しかも、この話が社長まで知っているとなると、断れば俺だけでなくこの人にまで迷惑が掛かってしまう。
「はい、分かりました……」
「元気がないみたいだが、久しぶりの地元で緊張しているのか? 今からそんな様子じゃ、当日は体がもたないぞ? 予定よりも少し多めに日程を組んでおくから、早めに仕事を終わらせて久々の地元を満喫してこい! ただし、このことは秘密だぞ。他所にバレたら俺が怒られるからな! 暑い中での出張になるが、体調には気を付けるんだぞ!」
本当に悪い人ではなく、兄貴肌の善人というかなんというか……ただ、残念なことに、他人の機微に疎いところがある。今回はそれが俺にとって悪い方向に働いているようだ。
しかしそれは、俺の事情を知らないからであって、やはり根は善人と言えるのだろう。
出張を断ることが出来なかった俺は、その日のうちに出来るだけ出歩かなくて済むように、出張先から近いホテルを三日予約した。少し海に近いのが気になるが、昔住んでいたところからは何kmも離れているから大丈夫だろう。
「それにしても、まさか君と一緒に仕事をすることになるとはな……時の流れは速いものだ。俺も年を取ったということかな?」
出張当日、朝職場に寄ってから新幹線に乗った俺は、昼前には出張先である父の昔の職場へと到着した。出迎えてくれたのは父と同期で同じ職場だった人だ。
この人は父と仲が良く、昔はよく家に遊びに来て父と酒を飲み、次の日には揃って二日酔いになって頭を抱えていたこともある。
なので当然幼いころの俺と面識があり、誕生日や正月には小遣いをもらったり、職場に来た際には仕事の合間に遊んでもらったりしたこともある。
「そういえば、あいつは元気か? 少し前に早期退職したと聞いたが、その頃は忙しくて会いに行けなくてな」
この人は俺たちが引っ越した後で隣の県にある支社に移動となり、数年前までそこで働いていたそうだが、その支社は近年の不景気から業務を縮小することとなり、それをきっかけに昔働いていたここに支店長という形で戻ってきたとのことだった。
「父は腰が悪い以外はぴんぴんしています。まあ、自分がここに来ることを話したら、複雑そうな顔をしていましたけど……あっ! え~っと……これ、父の携帯の電話番号です。暇な時にでもかけてやってください」
「おお、ありがとう。この後の休憩時間にでも、早速かけてみるよ。それでは時間です。安部山さん、仕事の話に入りましょうか」
その後、支店長とは最近の仕事内容と売り上げ、ここ最近の商品の売れ行きや本社への要望などを話し合い、遅めの昼休憩をとってからはアルバイトの仕事内容を見学させてもらい、配達から戻ってきた従業員にいくつかの質問をして俺の初出張の初日は終わった。
出張二日目は、地域で有名なデパートをはじめとした取引先を回って売れ行きの確認などをしたのだが……その際、取引先の中に昔住んでいた家の近くの販売所が入っていることを見落としてしまっていて、案内してくれた社員の方に迷惑をかけてしまったのだった。
幸いその社員の方は、昔あった事件のことを覚えていて、俺がその被害者たちの知り合いだったことを告げると予定を変更して支店の方へと戻ってくれたのだが、まさか自分でも昔住んでいたところに近づこうとしているというだけで体調を崩してしまう程ひどい状態だとは思わなかった。
「済まなかった。こちらの方でも気を付けるべきだった」
「いえ、自分でもこうなるとは思ってなかったので、こちらの方こそ申し訳ありませんでした」
戻った俺は支店長に謝られたが、迷惑をかけてしまったのはこちらの方なので申し訳なく、少し休んで体調が回復した後は、行く予定だった販売所の売り上げを書類などを確認し、提出書類を作成することにした。
これで俺の初出張はほとんど終わったのだが……流石に申し訳なかったので、こまごまとした作業の手伝いをし、その夜は支店長に食事に連れて行ってもらうことになった。
その席で支店長はビデオ通話で父に連絡を取り、食事風景を見せつけたり俺の仕事ぶりを話したりして楽しみ、最後はうちの実家まで遊びに行く約束をしていた。
「ふ~……久々に飲んだな。最近は忙しかったせいで、あまり楽しく酒が飲めなかったからいい気分転換になった。それにしても……今にも降り出しそうな空模様だな。晃君は明日休みと言っていたが、どうするんだい?」
支店長は、いつ雨が降ってもおかしくなさそうな空を見上げながら聞いてきたので、俺は明日の昼前に帰る旨を伝えた。
正直なところ、このまま電車に飛び乗って帰ってしまいたい気持ちもあるが、流石にそれは支店長に失礼だ。
それに予報では明日はひどい雨になると出ているので、それを表向きの理由にして少し早めに帰ることにした。
「今回はお世話になりました」
「いやいや、こちらこそ、有意義な時間だった。何よりもあいつの連絡先が手に入ったしね」
バスで帰るという支店長に見送られながらタクシーに乗った俺は、ふとあることを思いつき途中でコンビニに寄ってもらいノートを一冊購入した。
「あの時のことを日記に残しておこう」
何故今頃になってあの事件のことを書いておこうと思ったのか分からないが、もしかすると昔住んでいた家の近くまで行ったことで、自分でも分からないくらいの心の変化があったのかもしれない。
そんなことを考えながらタクシーを降りると、丁度雨が降り出してきたところだった。
「かなり激しいな……間一髪だった。支店長は大丈夫かな?」
別れ際の感じではそこまで酔っているようには見えなかったが、この雨だとバスに乗る人は増えるだろうから少し心配だ。まあ、俺がここで心配してもどうにもできないし、相手は俺の倍近い年齢の大先輩だ。心配するのは逆に失礼かもしれないなと思っていると、
「人の心配より、自分の心配だな。夏なのに少し寒気がする。風邪でもひいたかな?」
風邪をひいて身動きがとれなくなるのだけは避けたかったので、部屋の空調を調整してから風呂の用意をし、散らかっている服や下着を適当にカバンに詰め込んで、持ってきていた薬を飲んで一息つくと、
「! 今のは近かったな」
雷が落ちる大きな音がした。そしてそれをきっかけにするように、先程よりもさらに激しい雨が降り出した。
風邪だけでなく、下手をすると雨のせいで身動きが取れなくなることも考えられるな……と一抹の心配を抱えながら、俺は備え付けのポットで沸かしたお湯でココアを飲み、帰る途中で購入したノートに昔の出来事を俺の知っている範囲内で出来るだけ詳しく書いた。
その途中でふと背中に寒気が走ったのでペンを止めると、
「誰か廊下を通ったのか?」
外に人の気配を感じた気がした。まあ、ここはビジネスホテルだし、俺以外の人も当然宿泊しているので、人の足音くらいはするだろうと思い、続きを書こうとしたが、
「風呂!」
風呂にお湯を溜めていたことを思い出し、急いで風呂場に飛び込むと、
「あぶな! ギリギリだったな!」
風呂はあふれる寸前だった。後十秒も遅ければ、お湯はあふれてしまっていたかもしれない。
俺は慎重に手を突っ込んで栓を抜いてお湯を捨て、
「ん?」
背中にぞわっとした感覚を覚えて振り返った。
「やっぱり風邪をひきかけているのか?」
主張先の支店は作業場と商品の保管庫があり、その中は冷蔵庫と同じくらい寒いので、もしかするとその中に入ったせいなのかもしれない。
「先に風呂に入るか」
書き続けていて少し体が硬くなっていたし、息抜きにもちょうどいいタイミングだったので、作業を中断して風呂に入ることにした。
「ふぅ~……さっぱりした。後少しだし、続きを……あれ?」
書きかけのノートに視線を向けると、ノートの開いていたページが風呂に入る前と違っていた。しかもペンも机の上にはなく、部屋の隅に転がっている。
「もしかして、窓でも開いていたか?」
そう思ってカーテンを開けると、案の定窓が少しだけ開いていた。
この程度でページがめくれて、ぺんが端まで転がっていくような風が入るものなのかと疑問に思ったが、それ以外には考えられないのでとりあえずペンを拾い、風呂に入る前の続きを書くことにした。
「日付を入れて……これでそれらしい形にはなったかな?」
気が付けば夜中の二時を回っており、このままだとチェックアウトの時間に寝過ごしてしまうかもしれないと思い、書きあがったばかりの手記を眺めていたら、
「愛ちゃんたちのお墓参りに行けばよかったかな?」
と、素直に思うことが出来た。
いまだにあの辺りには恐怖心が残っているが、書き記しているうちに気持ちの整理が出来たのかもしれない。
そう考えると、思いつきも悪くないな……そう思った時、
「なんだ? 停電?」
急に部屋の明かりが消えた。
ただ、カーテン越しに窓の外から人工的な明かりが見えているので、ここら一体ではなく、ホテルのブレーカーでも落ちたのだろう。
それなら、すぐに部屋の明かりは元に戻るはずだ……そんな風に考えて、少しでも部屋を明るくしようとカーテンを引いたところ……
「え? ……え?」
窓の向こう側に、何かがいた。
俺の泊っている部屋は十階建ての五階にある部屋で、外にはベランダのような足場は無い。
もし仮にはしごを使って外に立っているのだとしたら、それらしいものの一部が一緒に見えているはずだが、そんなものは一切ない。そもそも、外は大雨で台風かと思うくらいの風が吹いているのだ。
こんな小柄な老婆が、微動だにせずに立っていられるはずもない。
「いや、老婆……」
その時、ふと先程まで書いていた手記に、アイちゃんが亡くなった池の周辺で目撃された老婆の話を書いたのを思い出した。
「ま、まさか、お前が愛ちゃんたちを……」
窓の外の老婆に俺の呟きが聞こえたのかは分からないが、目の前の老婆はゆっくりと顔を上げ……真っ赤に染まったヘビのような目を俺に向けてきた。しかも、その口からはヘビのように細長く先が二つに分かれた舌を何度も出し入れしている。
大声で助けを呼ぼうにも喉の奥が張り付いた感じで、上手く声が出せない。
だが、相手は窓の外にいる。今ならまだ部屋から逃げ出せる。それに窓は閉まっているから、簡単には入ってくることが出来ないはずだ。
そう思って後ずさりしようとしたが……老婆が窓を軽く押すと、閉めたはずの窓が動いた。
絶対に閉めたはずだが、今目の前で窓が開こうとしているということは、こんな時に限って閉め忘れていたのかもしれない。
だが、それでもこういったホテルの窓は転落防止の為に少ししか開くことが出来ないようになっているはずだ。例えあの老婆が小柄だったとしても、そんな隙間からは入ってくることが出来るはずがない。
ただ、強引に入ろうとしたら窓枠の方が壊れてしまう可能性もあるので、苦戦しているうちに部屋を出て、一回のロビーまで行けば誰かいるはずだ!
そう願いながらドアまで走り、急いで鍵を開けようとしたが……
「何で開かないんだ! 誰か! 誰かいませんか!」
ドアの鍵は思いっきり力を入れてひねっても動く気配がなく、体当たりしてもドアは開かず、何度も何度も叩きながら助けを呼んだが、まるでこの階に泊まっているのは俺だけではないのかと思ってしまうくらい、人の気配を感じることが出来なかった。
それでも手の感覚がなくなるまで必死にドアをたたき続けていると、
「う……あ……」
背後でべたりという音が聞こえ振り返ると、老婆が窓から侵入してきているところだった。
その体はまるで骨など存在していないかのように細い隙間を簡単に通り抜け、振り向いた時には体のほとんどがこの部屋に入ってきているところだったのだ。
「うわぁああーーー!」
俺は開かないドアの前にいるのはまずいととっさに判断し、ドアのすぐ近くにあるユニットバスへと逃げ込んだ。そして中から鍵をかけ、こじ開けられないように力一杯ドアノブを抑えた。
これで多少は時間が稼げるはずだが、はたしてあの老婆相手にこんなことが通用するのだろうか? しかし、今の俺に外部への連絡手段は無い。もしかすると、騒ぎを聞きつけた人が駆け付けてくれるかもしれないが、あの異常な様子からはそれもあまり期待は出来ないだろう。
その時、ふと流しの方に目をやると、そこには風呂に入った時に置いたままにしていた携帯電話が目に入った。
これで助けを呼べる。助けが来るまで粘れれば助かる!
そう思って片手でドアノブを抑えながら反対の手を形態に伸ばしたが……
「なんだ、これ?」
携帯を掴もうと伸ばした俺の手に、白い糸が何本も絡みついた。
いったいこれの正体は何で、どこから伸びてきたのか? そう思いながら糸が伸びてきた方へと振り向くと……
「ひっ!」
バスタブの中から、白く長い髪をはやした人間のような顔がじっと俺を見ていた。
その人のような顔を持つ何かは、俺と目が合うと不気味な笑みを浮かべ……
「や、やめろ! やめてくれ! 誰か! 誰かいないのか!」
俺の首にも白い髪を絡みつけて、バスタブの中へと引きずり込んだ。
そしてその人を顔を持つ何かは、風呂の中でもがき苦しむ俺を見てまた笑みを浮かべる。
(こいつが愛ちゃんたちを殺したのか!)
不気味な笑みを浮かべる化け物を見ているうちに、俺はそんな怒りを覚えたが……糸を外そうとしても逆に食い込んでくるばかりでどうすることも出来ず、
(母さん……父さん……愛ちゃん……みん、な……)
俺の意識は途絶えた。
???
「これでようやく最後の一つも食べれたねぇ……満足かい? 今回はお前の歳の数だけ食べられてよかったねぇ……次のご飯はいつになるだろうねぇ……」