月光の谷の優しい魔女
天使がいました。
とても真面目な天使で、自らが仕える神のためによく働いていました。
『この世の終わりの日が訪れるまでに、神は全ての魂をお救いになる』という言葉を信じて、一人でも多くの人間を教え導くために活動していました。
しかし、この天使は融通が利かないのが玉にきずでした。
例えば、人々に裏切られて傷ついた人が慰めの言葉を求めれば『神様は全ての人を等しく愛されている。だからあなたもそのようにするべきである。それがあなたに課せられた試練なのだ』と答えます。
自らの心の弱さゆえに正しい行いが出来ないと悩む若者に対しては『弱さこそがあなたの悪の源なのであるから、心の中の弱さを全て打ち消すように努めることがあなたの義務である』と答えます。
大切な人を失い、失意の底にいる婦人に向かっては『全ては神様がお決めになる事であり、人間が嘆いても何の意味も無い。あなたはあなた自身の生が神様の御心に適うものになるよう励むべきではないのか』と答えます。
一事が万事こんな調子なので、天使の言う通りに神を信じようとする人間は、そう多くありませんでした。
天使は困惑していました。
神の教えの通りに人々に働きかけても、必ずしも人々を救えるわけではありません。
むしろ、余計に神のもとから離れて行ってしまう人もいました。
神を信じない者や、神を呪った者の魂は、慰められることは無く、再びこの世に生まれ落ちなければなりません。
そしてまた、苦しみに満ちた生を送らなければならないのです。
死んだら地獄に落ちて永遠の苦しみを受けるという人間もいますが、それは正確ではありません。
この世界より下の世界は存在せず、この世界こそがある意味では地獄と言えるものであるからです。
あえて言うなら、神を信じるに至る事なく、この世の終わりの日まで延々とこの世に生まれ落ち続ける事を、永遠の地獄と表現することも出来るかもしれません。
地上での生活が長くなると、天使は少しずつ力を失ってしまいます。
天使はある時、力を使い果たしてしまい、月光の谷と呼ばれる場所を訪れました。
降り注ぐ月の光は、聖なる力を有しており、天使の力を回復させてくれます。
月光を浴びながら、荒れ果てた谷を見渡している時、天使は遠くの方に人影があるのを認めました。
この地を訪れる事はよくありますが、今まで気が付かなかっただけでしょうか。
人間がこの辺りに住んでいるという話は聞いたことがありませんでした。
不思議に思って様子を見ていると、人影の正体はぼろをまとった老婆でした。
地面に落ちている石を見定めては、これはというものをカゴに入れていきます。
カゴが石で一杯になると、彼女は背中にコウモリを思わせる黒い翼を生やし、空へ向かって飛び立ちました。
天使はそれをみて確信しました。
この老婆は魔女であると。
魔女と言えば、悪魔や邪神と言われる存在に仕える者です。
人々を堕落させ、全ての魂をお救いになるという神の計画を邪魔する、許し難い存在です。
邪悪な存在に特有の気配が無いから油断していましたが、本来であれば彼女を滅する必要があります。
天使は慌てて、自らも白い翼を生やし、彼女の後を追いかけました。
魔女が降り立ったのは、谷のはずれにある粗末な家でした。
一人で暮らすには、ずいぶんと大きな家です。
天使に後をつけられていることには気が付いていないのか、翼を消すと、辺りを警戒する様子もなく家の中へと入っていきました。
そこで天使は、家の壁に空いたわずかな隙間から中の様子をのぞいてみることにしました。
家の中には、多くの人がいました。
よたよたと歩いている者。
しんどそうにしながら座っている者。
それすら出来ず、身体を震わせながら寝台の上にいる者。
そうした者たちは、みな身体の至る所にアザやはれ物が出来ていました。
それを見た天使は、すぐに気づきました。
ここに集められているのは『科人』であるのだと。
科人とは、今生もしくは過去生において大きな罪を犯した者であり、このようなアザやはれ物が生じているのが特徴です。
これは神に与えられた罰の標であり、彼らはそのアザやはれ物による苦しみにもだえながらも自らの生を全うしなければ、救いに至る事は無いとされています。
天使はなおも、魔女の様子を見ています。
魔女は取ってきた石のうちの一つを手に取ると、呪文を唱え始めました。
すると、石からうすぼんやりと光る雫が、ぽたりぽたりと垂れてきました。
天使には、あの石が長年月の光を浴びた事によって内側に蓄えられていた聖なる力が、雫となってあふれ出ているのがすぐに分かりました。
魔女はもう片方の手でガラスのコップを持ち、雫をその中へと集めていきます。
ある程度雫がたまると、魔女はそれを手に取り、苦しそうにしている科人のあざに塗り込みました。
すると、苦しんでいた科人は、いくらか楽そうな顔をしました。
他の科人たちにも、魔女は雫を塗り込んでいきます。
科人たちは、一様に魔女に感謝の言葉を述べました。
「さて、お前さんはいつまでそこからのぞいているつもりなのかね?」
突然話しかけられて、天使はおどろきました。
しかし、気づかれているならそれはそれで構いません。
天使も家の中で行われていることを見て、中に乗り込んでやろうと決意したばかりだったからです。
「私が何かよこしまな術でも使っているのではないかとでも思っていたのかね?」
「とぼけるなよ。お前のやっていることは明らかに神様の御意思に反しているではないか!」
天使は声を荒げながら、家の中へと入ってきました。
科人たちはあわてふためきますが、魔女は涼しい顔をしています。
「彼ら科人が救いに至るためには、ひたすらに苦しむ必要があるのだ。それなのに、聖なる力を用いて苦しみを取り除こうとするとは何事だ!」
「苦しんでいる人間を、そのままにしてはおけないだろう? 苦しんでいる人間を楽にしてやろうとする事の、何がいけないんだい?」
「科人の苦しみは神様がお与えになったものだ! 苦しめば苦しんだだけ、救いへ至るのが早くなるのだ! お前は苦しみを楽にしてやっているなどとうそぶいているが、結局は救いへ至るのを妨げているだけではないか!」
天使の言う事は、決して間違ってはいませんでした。
罪を犯した魂は、苦しみに満ちた生を送る事によってやっとその罪が許される。
それが神の教えです。
苦しみを和らげようとしたり、取り除こうとすることは、救いに至る事を邪魔していることに他なりません。
それでも、魔女の表情は変わりませんでした。
諭すように、魔女は語ります。
「早く救いへ至るためにより苦しむべきである、とお前さんは言う。それは例えるなら『重い荷物を山の上まで運ぶためには、真っすぐに頂きへと至る道を急いで行くべきだ』と言うのと同じような考え方だな」
「それの何がいけない!? より多くの者が、より早く救いへと至るように導くのが私の役目なのだ!」
「そんなやり方じゃ、救いに至る前にお前さんや神様のもとから逃げ出したくなるんじゃないのかね?」
「なっ……」
まるでこちらの事を見透かしているかのような魔女の言葉に、天使は言い返せなくなってしまいました。
「山の頂まで真っすぐに至る道は険しい道だよ。それを重い荷物を抱えながら行かなければならないとなると、足が参ってしまうよ。足の前に心も参ってしまうだろうね」
「だとしても……それなら山の頂を目指すのを諦めるべきだと言うのか? 救いへ至るのを諦めるのが正しいとでも?」
「人を悪魔の手下か何かだとでも思っているのかい? そんな事を言いたいんじゃないよ。なだらかな道を選んだり、休んだりしながら行くのも一つだと言っているんだ」
「休む……だと?」
天使が問い返した時、寝台から赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
魔女は慌てて、赤ん坊を抱きかかえてあやしてやります。
この赤ん坊も科人で、顔には大きなアザがありました。
「より早く救いに至るべきだと言うお前さんは、こんな赤ん坊にももっと苦しんで生きろと言うのかね?」
「それは……」
天使は言葉につまってしまいました。
「苦しみを経験しなければ罪があがなわれない、というのは本当の事だろうさ。だが、苦しみが大きすぎれば人間は折れてしまう。逃げてしまう。そうすれば、いつまでたっても本当の救いには至らないだろう」
「そんな事は、神様の言葉にはない……」
「神の言葉に無いとしても、人の心ってものはそう教えてくれるのさ。苦しみの多い生を、助け合って生きていく事が救いへと至る道なんじゃないのかってね。苦しむべき科人であるかどうかは、そこまで大きな問題じゃないよ」
「だが、私は間違っていないはずだ。私は常に神様の言葉に従っているし、人間たちに何も間違ったことを話してはいない。なのに……」
「なのに、人間たちは神を信じようとしない。その事に悩んでいるのかね?」
「……言い当てられるのはしゃくにさわるが、確かにその通りだ」
科人たちは、魔女と天使の様子をおそるおそるうかがっています。
赤ん坊の科人を抱えながら、魔女は話します。
「神の言葉というのもまた、薬と同じようなものだよ。良薬は口に苦しというが、苦すぎては身体が受け付けないよ」
「しかし、神様は全ての人間をお救いになられる方なのだ。だから神様の言葉は全ての人間の利益となるもので……」
「例えどんなに優れた薬でも、全ての人間に同じ使い方をしていればそれでいいとはならないよ。相手によって用い方を変えなければ」
「……用い方を、変える……?」
天使には、魔女の言わんとしていることの意味がすぐには分かりませんでした。
「お前さん、最初にここに入ってきたとき、ここの科人はより多く苦しまなければ救いには至らないと言っただろう?」
「そうだ。それが神様の御意思だからだ」
「お前さんがそう言った時、ここにいる科人たちがどんな顔をしたか分かるかね?」
「それは……」
天使は答えに困りました。
自分の言葉は常に正しいと思っていましたし、自分の言葉を聞いた相手の表情など気にしたことも無かったからです。
「じゃあ聞き方を変えようか。お前さんがさっきのように言ったとして、ここの科人たちは『神を信じ、自らの罪をあがなうために苦しんで生きよう』と思うかね?」
「それは……」
いつもの天使なら『科人がどう思うかなど関係ない。最も早く救いへと至る道はそれしかないのだからな』と答えていたでしょう。
ですが、今の天使は、そのように答える事が出来ませんでした。
「ここにいる科人たちは、他に居場所がなくてここに流れ着いた者ばかりだよ。ここにきてようやく、人間らしい扱いを受けられたと言っている者もいる」
眠ってしまった赤ん坊を寝台に横たえながら、魔女は天使に語りかけます。
「そんなどん底にいて、自らの罪を自覚して、神を想う事が出来るかね? そこまで強い人間はそう多くないよ。だが、そのままではいつまでも科人たちは救いに至らないままだろうね」
「お前は……いや、あなたは一体ここで何をしているのだ?」
「言っただろう? 私は苦しんでる人間をそのままに出来ないんだよ。苦しみをいやしたり、人間らしい生活をしたり。そうしている中で時間がかかっても救いに至る事が出来れば、それも一つの道と言えるんじゃないかね?」
天使は、結局魔女をそのままにして立ち去ってしまいました。
魔女が科人を救いたいと考えているのは、うそではないように感じられたからです。
自分自身の事についても、色々と考えさせられました。
自分は人間たちを救いへと導くためと言いながら、人間に無理を強いてきたのではないか。
もっと人間に寄り添いながら、救いへと導くことが出来るのではないのか。
そんな事を考えていました。
それからしばらく経ったある日。
天使はまた、人々に神様を信じるように語りかけていました。
ですが、今までの事もあってか、中々上手くいきません。
それでも天使は、人々が自分の話を聞いてくれるように、色々と工夫しながら話を続けました。
話を聞いた相手の表情を見たり、相手の考えに応じた言葉を選んだり。
それは、今までの天使だったら考えもしない事でした。
魔女は今日も、科人たちの世話をしていました。
「それにしても……」
魔女はあの赤ん坊を抱えながらつぶやきます。
「お前さん、これで五度目だね。かれこれ二百年は、科人として生まれては死んでを繰り返しているのか」
赤ん坊は、魔女の言葉の意味を知ってか知らずか、大きな泣き声をあげています。
「時間がかかりすぎるのも考え物かね。まあ、今回もちゃんと世話してやるから。お前さんの罪が赦されるまではしっかり生きるんだよ」