ねずみのチュー助
ネズミのチュー助は今とても困っていました。
何が原因なのか分かりませんが、自慢の胸の毛の辺りからモコモコモコと白いものが湧き出してくるのです。そして、それは、触れば触るほど増えていくのです。
チュー助はイエネズミと呼ばれるちょっと小さめのまだ若いネズミでした。他のみんなと違うのは、その自慢の胸の毛です。ちょうど首の下辺りからお腹の手前の所の毛が少し毛足の長い白色をしているのです。みんなが体と同じ色の焦げ茶色を少し薄くしただけの胸の毛をしているのに、チュー助だけは、白い綺麗な胸の毛が生えていたのです。だけど、あんまり見かけない白いハツカネズミと同じように真っ白な毛は、なんだかとてもかっこよく見えて、チュー助の自慢だったのです。だから、チュー助もいつも自慢して、胸を張っていたのです。
「かっこいいだろう? いいだろう? でも触らせてやらないからな」
そんな風に。
そして、かっこいいチュー助はいつもみんなとは違う面白いことを探し回って自慢するのです。
「今日は人間の家に入ってチーズを一かじり」「今日は昼寝中のネコの前をぬき足さし足」「今日は水たまりに映る自分の手入れにいっしょうけんめい」
みんなそんなチュー助を遠くから眺めているだけでした。だって、他のみんなはチュー助よりもかっこよくないから仕方がないことなのです。
かっこよくないみんなにはこのかっこいい胸の毛を触らせてあげたりなんかしないのです。
それなのに、その自慢の胸の毛辺りからモコモコモコと白い泡があふれ出すのです。匂いは悪くありません。多分牛乳の匂いに少しだけ花の匂いを足したような……。ただ、いかんせん、匂いがきつすぎて鼻がバカになりそうです。
手触りもまたそんなに悪くありません。モコモコしているその白いものは、触ればはじける音がして、ふわふわしているものなのです。
味は……最悪でした。
チュー助はゴシゴシと胸をこすります。毛繕いしようとペロペロとなめてみます。そして、ぺっとそれを吐き出します。毛繕いは出来そうにもありません。仕方なく小さな前足でそのモコモコを取っ払おうとゴシゴシするのですが、モコモコは全く消えようとしません。
周りを見回します。ここは人間が『おふろ』と呼んでいる場所で、ちょっぴり水がしたたっていて、ちょっぴり湿気た場所になります。チュー助は体が濡れるのはあまり好きではありませんが、あったかい場所なので、時々、ここに入ってきて、体を温めるのです。
もちろん他の友達のネズミはあまり来ない場所です。それも自分だけの場所のようで嬉しかったというのもあります。
だけど、そこで、チュー助は歯がむずむずしてしまったのです。
あぁぁ。むずむずする。
そして、手近にあった四角い白いものをガシガシしただけだったのです。
それなのに、この有様。
チュー助にはいったい何が起きたのか、分からないままでした。体は湿気て気持ち悪いし、それなのに、毛繕いもままならない。その上、自慢の胸の毛が得体の知れないものに乗っ取られたのです。
あ……。
チュー助はふと思います。その大切な胸の毛をいつもキレイにしておかなくっちゃと念入りに毛繕いしていたことを。もしかしたら、とても大切なものだから、このモコモコがうらやましがって取りに来てしまったのかもしれないと。
「くそぉ。そんなことしても、この立派な胸の毛はおいらのもんだからな」
地団駄を踏んでモコモコをやっつけようとしますが、それが返ってそのモコモコの機嫌を損ねたようです。泡は増える一方。喉の方まで上がってきてしまった泡のせいで、チュー助はもう少しでモコモコ増えたあわあわに溺れてしまいそうになりました。
「わぁ。やめてくれ、おいらが悪かった。だから、大人しく……」
いっしょうけんめいにモコモコを下の方へと追っ払おうとします。少しやさしく手を動かしてやったせいか、モコモコは大人しく小さくなってくれました。ほぅと一息つきますが、モコモコはやはりまだチュー助の胸の上です。
モコモコは依然、チュー助をあざ笑うようにプチプチとはじけていました。
ううう。
そのプチプチという音を聞いているとチュー助はなんだか悲しくなってしまいました。ただでさえ毛が濡れそぼって切ない気持ちになるのです。それなのに、どうしようもないモコモコが付きまといます。
それに加え、お腹を丸出しにして、二本足でずっと立ってしまっているのです。こんなに無防備な状態なのに、慣れない二本足なのにモコモコはくっついたまま離れていきません。
もし、今、人間がやってきたら……そう思うと悲しくて仕方がありません。
人間とは恐ろしいものなのです。人間とはネズミの天敵なのです。
ほんの少し食べものをかじるだけで、ネズミを殺してしまうバケモノなのです。
あぁ。
チュー助は小さなため息をつきました。
自慢ばっかりしていないでみんなに優しくしておけば、今頃みんなが心配して探しに来てくれたのかもしれません。ほんのちょっとでも胸の毛を触らせてあげていれば、よかったのかもしれません。だけど、チュー助は他人とは違う自分が可愛くて、他人を馬鹿にばかりしていました。それどころか「その胸の毛きれいだね」と言ってくれた友達には「お前はつまらない色だよな」と友達を貶していました。みんなの色はチュー助にとって特別な色だったからです。
だけど、あの時、本当はほめてくれて嬉しかっただけなのです。だけど、自分だけのものにしておきたくてそんな風に言ってしまったのです。
チュー助は胸の辺りから聞こえてくる小さなプチプチと言う音を聞きながら、恨めしそうにその四角い白いものを見つめます。それにはしっかりとチュー助の歯形がついてます。
こいつをがぶりと噛んだから、こいつが怒っているのだろうか。
そんなことを思って、足の先でつんと蹴ってみますが、四角いものはうんともすんとも言いません。
「もうかじらないからさ……ねぇ、許してよ」
言葉を掛けても四角いものはだんまりです。
つかれたなぁ。そう思うと本当に疲れてきました。ちょっと休憩とぽてんと蹲って休みます。
あぁ、本当に疲れた……。そう思ってモコモコをお腹に抱くようにして蹲ると少し安心できます。ほんの少しなら眠っても構わないかな?そんなことも思います。
チュー助はそのまま少しだけ目を閉じました。真っ暗な中、チュー助の寝息だけが聞こえてきます。
小さかった頃の夢を見ました。本当に小さくて小さくて、やっと体に毛が生えてきた頃の夢でした。
「チュー助のお腹は真っ白けなのね」
「僕たちの色とは違うんだね」
「なんで?」
「なんで?」
お母さんが言いました。
「チュー助はかっこいいわね」
ぱっと明るくなったのに気がついて目を開けたチュー助は悲鳴を上げました。
しかし、それは人間の悲鳴と重なって、掻き消されてしまいました。
「きゃーっ。ネズミ!」
一通り慌てた人間が浴槽の隅に追いやられ動けなくなったチュー助に向かって思い切りシャワーをぶっかけました。
いきなりの水の攻撃を被りながら一目散に扉の外へ。
モコモコのこともすっかり忘れ、無我夢中で人間の足下をくぐり抜け、扉を抜けて、窓の外へと飛び出しました。チュー助の心臓はもう破裂しそうです。
芝生の上の壁際でゆっくり辺りを確かめます。人間の気配はありません。もう一度そろりと耳を動かします。何の気配もありません。ぶるぶると体を震わせて水気をはじきます。そして、大きく深呼吸をしたチュー助は胸のモコモコに気づきました。
いえ、いつもの胸の毛に気づきました。
真っ白でちょっぴり毛足の長い自慢の胸の毛。心なしか、その白さに箔がかかっている気もします。気付けばお月様が空に上がっていて、他のネズミたちも活動を始める時間でした。チュー助は小さな手でその胸の毛をひとなですると、みんなのもとへと帰って行きました。
「最近チュー助なんだか不思議な臭いがするね」
「うん、牛乳のような、お花のような……。いったい何があったんだろうね?」
「だけど、やさしいから今のチュー助は好き」
「うん、変な臭いだけどね。ぼくも今のチュー助が好きかも」
他のネズミたちはもちろん知りません。でも、あれからチュー助はちょっぴり人に優しくなって、自慢の胸の毛も触らせてあげるようになったそうです。
あ、不思議な匂いの秘密は黙っておいてあげてくださいね。チュー助はプライドの高いネズミですから。
お時間頂きありがとうございました。