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蜃気楼

作者: 戸枝葉

車を降りて足を地につける。崖近くの平地を歩いてみると、あの日の思い出がよみがえってきた。

「悪いな、運転疲れなかったか?」

俺の横で背伸びをして身体を解している別府(べっぷ)を労うと、別府はこちらを見て少し笑った。

「いいって。お前、まだ免許取ったばっかだろ?」

軽く馬鹿にしたような笑みを向けられて悔しくなったが、何も言い返せない。実際免許を取得してから二週間と経っていない上に、まだプライベートで一度も運転をしていないからだ。

「冗談だよ。一時間の運転なんて、毎日の通学と変わらない。」

「そういってくれると助かる。代わりと言っちゃなんだが、帰りに何か奢るよ。」

そう言うと別府は小さく笑った。

「お!(れん)がおごるなんて珍しいこともあるもんだ。」

「何回かおごってるだろ。」

俺は別府の方へ歩いてゆき、からかってくる別府の腹を軽くどつく。

別府が俺に車のキーを渡してきた。

「蓮が持っておいてくれ。」

俺はそれを受け取り、ポケットへ入れた。別府はここに来る前のパーキングエリアで、鍵を落とした。すぐに見つかったが、自分で持っておくことを不安に思ったのだろう。

「悪かったな。俺のわがままでこんなところに連れてきて。」

別府が俺の横に立つ。今日はある場所へ向かう途中だったのだが、別府の希望で、この何もない山奥にくることになった。

「いいって。俺も久々に来たかったし。」

「ありがとう。それにしても、懐かしいな。」

別府が辺りを見渡す。俺も同じように見渡した。

今日はひどく暑い。周りの景色がゆらゆらとして見えた。今は何もない荒地になっているが、あの時はまだ草が生い茂っていたなと、俺は思い返した。

「最初来たときは焦ったよな。小百合(さゆり)なんて結構取り乱していたよな。」

ここには一年前に、俺と別府、そして小百合の三人で来たことがある。俺たちが大学一年生の頃だ。

俺らは中学からの仲で、高校を卒業するまでの六年間、一度もクラスが離れたことがないほどの腐れ縁だった。結局大学も同じ所へ行き、新しい友人と遊びつつも、三人で集まることはかかさなかった。この場所へ来たのも、大学一年の夏休みにキャンプへ行こうという話が出たことがきっかけだった。

小百合は昔から明るく、キャンプの話も小百合が一番楽しみにしていた。そんなワクワクした気持ちを抑えられないでいる小百合の姿を見て、俺と別府は和んだのを覚えている。

「取り乱して当然だよ。俺だって最初ここを見たときは結構焦ったぞ。」

俺が苦笑して言う。

「でも結果ここでよかっただろ?周りは誰もいない、俺たちだけの場所だったじゃないか。」

別府が腰に手を当てて自慢げに言う。

はじめはこの山の先にあるキャンプ場へ行く予定だった。当時免許を持っていたのは別府だけだったので、別府が運転する車に俺と小百合は乗せてもらった。しかしカーナビがついていない車だったということもあって、途中で道を間違え、どこへ進めばいいのかわかなくなってしまったのだ。とりあえず戻ろうと来た道を引き返していると、そこでも道に迷い、この崖にたどりついたのだ。

「ここに小屋があったんだよな。」

別府が崖の方へ近づいていき、崖から五、六メートル離れた位置を指差して言う。その場所には、今は小屋の一部だったものと思われる木材がいくつか積まれている。

「ああ。結構しっかりした小屋だったよな。キッチンまでついていたし。」

予想外の場所へたどりつき、絶望していた俺たちだったが、小百合が崖近くにある小屋を見つけ、中へ入っていったのだ。少し汚かったが、前まで誰か使っていたのではないかと思うくらいには整頓されていた。そして何よりキッチンがついていたのだ。フライパンなどの調理器具があり、電気ガス水道も使えたから尚驚いた。先ほどまで落胆していた小百合が、「二人とも来て!キッチンがあるわ!」と目を輝かせて俺たちを呼んだのがおかしかった。

「結局あのときは何を作ったんだっけ?」

「バーベキュー用に持ってきた肉をフライパンでひたすら焼いたんじゃなかったか?小百合が豚肉ばかりを買って来たのを覚えてるぞ。」

俺は噴き出した。小百合は普段几帳面なくせに変なところで雑な奴だった。

「テンションがあがったのか、結局全部小百合が料理したよな。」

別府が左手首につけた腕時計を右手で触る。あれは小百合が別府の誕生日プレゼントにあげた物だったなと、俺は思わず目を背ける。

「あの時は楽しかったよな。夜は花火までしてさ。」

もともとキャンプ場近くの川でやるつもりで持ってきた花火を小百合は取り出し、崖の上から花火をした。水道が使えたので、俺はバケツに水を汲み、使い終わった花火はそこに捨てた。花火に照らされる小百合の笑顔はとても印象的だった。きれいだなと、そう思った。見惚れていると、俺と同じように別府も小百合を見ていた。きっと無意識に視線がそっちへいったんだとわかるくらい、露骨な表情だった。そしてそんな別府を見て、俺もあんな顔をしていたのだろうかと恥ずかしくなった。

「蓮はずっと線香花火をしてたな。」

別府が俺を越して崖の方へ進む。

「それはお前と小百合が他の花火を占領してたからだろ。」

「はは、そうだったな。」

俺は崖にいる別府のところへ近づいた。

「こういう懐かしい話、小百合も混ぜてしたかったな。三人でここにきて。なんだったらまたここでキャンプをしてもよかったよな。」

「…ああ。そうだな。」

どう返していいかわからず、その場しのぎの返事をしてしまった。

小百合はもう、どこにもいない。

去年の冬に、自殺したのだ。

「また花火、したかったな。」

俺が小さな声でそう返す。別府は相変わらず俺に背を向けている。一体どんな表情をしているのだろうか。

虫の声が響く。風が吹き、俺たちの身体をなぞった。

「そろそろ行くか?」

俺が尋ねる。

今日は小百合の墓参りへ行く途中だったのだが、別府がその前にここへ寄ろうという話を出してきたのだ。俺と別府と小百合の、三人だけの思い出の場所へ。

「ああ、そうだな。」

少しの間があって、別府の返事が返ってきた。

「じゃあ花屋案内するよ。種類が豊富なところ知ってるからさ。」

そう言って、俺は車の方へ歩きはじめた。

「わかった。じゃあその前に、一つ確認させてくれ。」

俺は歩みを止め、別府の方へ振り向く。別府も俺の方へ体を向けていた。


少しの間があってから、別府が口を開いた。

「どうして小百合を殺したんだ?」

急にセミが鳴き始める。もう少し早く鳴いてくれたら、今の別府の言葉をかきけせたかもしれないのにと、情けないことを思った。

次に強い風が吹く。全く涼しくならない。むしろ暑さが増す一方だ。

崖の近くに立つ別府の姿は、蜃気楼で揺らいでいた。表情がはっきりと読み取れない。

「答えてくれ。」

声のトーンは至って普通だった。怒っているのだろうか。それとも冷静でいるのだろうか。いや、もしかしたら泣きそうになっているのかもしれない。揺らめく別府の姿を、俺はただ静かに見つめた。

「蓮、答えてくれ。」

セミの声がうるさいはずなのに、別府の声はよく耳に届いた。

いつか聞かれるだろうとは思っていた。覚悟もしていた。しかしいざそのときがくると、やはり辛いものがある。あの日の小百合の姿を、最後に見せた表情を、思い出さなければならなかったからだ。

「…どうして、俺が殺したと思った?」

我ながらもったいぶった言い方だと思った。さっさと正直に話せばいいものを。

「小百合が死んだ日は、蓮、お前の誕生日だったよな。」

そう、小百合を殺したのは俺の誕生日。十一月二十二日。深夜二時を過ぎたときだった。

「誕生日の何日か前に、小百合が自分の家にプレゼントを渡しに来てくれるって、お前はそう俺に教えてくれたよな。」

小百合は俺と別府の誕生日には必ずプレゼントをくれた。その日に会う予定がなかったら、わざわざどこかで待ち合わせたり家に来てまで渡しに来てくれた。

「でもお前は、結局小百合は家に来なかったと言っていたな。誕生日に小百合には会わなかったって。」 

別府は俺の返事を待たずに淡々と質問と確認をし続ける。もしかしたら沈黙は肯定と受け取ったのかもしれない。

「お前は知らなかったかもしれないが、俺、お前の誕生日に小百合と連絡を取っていたんだ。」

知っていた。

「今日は蓮と会うのかって聞いたら、プレゼントを渡しに家に行くって。」

知っていた。小百合が俺の誕生日を祝うときは、別府が毎回嫉妬していることも。気が気でなくて毎年、その日は小百合にしつこく確認のメールをいれていたことも。全部知っていた。

でも俺は責めない。責めることができない。だって俺も、別府の誕生日には同じことをしていたのだから。

「でも本当は会っていたんだろ?小百合はお前の家に行ったんじゃないか?」

「いや、小百合は俺の家へは来なかったよ。」

はじめて別府の発言に間違いがあったので口を開く。思った以上に喉が渇いていた。唾を飲み込み、できるかぎり潤す。

「俺が小百合の家へ行ったんだ。俺も小百合に用があるからって。」

今度は別府が黙る番だった。セミの声は小さくなっていた。俺の声が聞こえていないわけではないだろう。俺は揺らめく別府に向かって話し続ける。

「あの日バイトが十一時まであったから、零時に小百合の家に行くって伝えたんだ。楽しみにして行ったら、小百合は外で待っていてくれたよ。健気だよな。」

別府は何も言わない。

動かない。

俺の額から汗が流れる。それを手で拭い、息を吐き、あの日のことを思い返した。





「誕生日おめでとう。開けてみて!自信作ではあるんだけど。」

照れている小百合に言われるがままに袋を開けると、マフラーが入っていた。青と白の毛糸で丁寧に縫われたマフラー。

「プレゼントにしてはありきたりだと思ったんだけど、日常的に使えるものがいいなって考えてたら、やっぱりこういうのになっちゃった。」

小百合は舌をペロッと出しておどけた。

「ありがとう。さっそく使うよ。」

俺はそのマフラーをその場で首に巻いた。小百合の香りが漂うマフラー。小百合の温もりが伝わってきた。

「そういえば蓮も用事があるって言ってたよね。すぐ済む用事じゃなければ、中に入る?寒いでしょ。」

「ああ、そうさせてもらえるよ。」

家の中に入ると、小百合はコーヒーを出してくれた。最近駅近にできた新しい店の店員に勧められて買ったコーヒー豆らしい。勧められるとすぐ買ってしまうのも、小百合らしいなと思った。

「蓮が私の家にくるなんて久しぶりじゃない?」

小百合は台所で俺に出すお菓子の用意をしながら話す。

「そうだな、高校を卒業して以来、来てなかった気がする。」

「じゃあ大体一年ぶりね」と、小百合は笑った。

「『蓮が』ってことは、別府は来てるのか?」

「時々、かな。」

冷蔵庫を閉める音が聞こえた。

「蓮はチョコとチーズだったらチョコの方がいいわよね?」

相変わらず人の好みをよく覚えているなと感心した。小百合は昔から気遣い屋で、しかしそれを自然にしてみせた。社交性が高く、明るい彼女の周りにはいつも人が集まっていた。それは腐れ縁としてうれしくもあり、同時に寂しくもあった。しかしイベント事などには決まって三人で集まるし、最終的に頼りにしてくるのは俺と別府であることに、優越感を抱いていた。ずっと三人で仲良くやっていきたい。少し前まではそう思っていた。

「ああ、チョコで頼む。」

はーい、という返事が台所から聞こえた。

「拓斗は逆にチーズ派だったわよね。ほんと二人とも好みは正反対。」

小百合がお皿を取り出しながらクスクスと笑う。小百合は俺と別府のことを下の名前で呼ぶ。俺だけが、別府を下の名前で呼んでいない。

「別府が来たときもそうやっていろいろもてなしてるのか?」

「当り前じゃない。あ、でも安心して。蓮と拓斗には平等にスイーツを提供してるから。」

普段はあれだけ空気が読めるのに、自分のことになると鈍感なんだなと、明るく微笑む彼女を見て思った。

「なんだか今日は拓斗の話を多く出すわね。何かあったの?」

やはり家に来て正解だった。直接言わないと、この鈍感屋はわからないだろう。

俺は椅子から立ち上がり、小百合のいる台所へと向かう。

「あ、座ってていいよ。あともう運ぶだけあんだから。」

小百合はケーキが二つ乗ったお盆を持とうとしているところだった。その左手をそっと握る。

「蓮?」

小百合がキョトンとした目を向けてきた。予想通り、状況が理解できていないらしい。

「小百合、俺お前のことが好きなんだ。」

小百合が息を吸う音が聞こえた。しかしそれは言葉となって出てこないようだった。

「高校の時からずっと、だよ。」

小百合の視線が泳ぐ。

「小百合の気持ちを聞かせてほしい。」

いつからだろう。三人でずっと仲良く、という考えが揺らぎ始めたのは。きっと小百合のことが好きだと自覚した高校一年生の時には、もうそう思っていたのだろう。別府よりも俺を見てほしいと、別府よりも俺の方を頼りにしてほしいという独占欲が強くなっていった。それから何もかもを別府と比較するようになった。小百合が別府に何をして、何をあげているのか、気になって仕方がなかった。小百合は本当に俺と別府を平等に扱うもんだから、それが余計気に入らなくなった。自分を特別扱いしてほしくなった。だから小百合と特別な関係になるために、自分の誕生日である今日に、小百合に告白すると決めていた。

「ちょっと、待って。そんな、急に言われても。」

小百合が俺の手を解こうとする。俺はさせまいとさらに強く握り返した。

「俺は別府よりも頼りないか?」

「ちょっと蓮」

「俺は別府よりもお前を幸せにできるぞ」

「蓮。」

「俺じゃあダメか?」

「蓮ってば!」

小百合の右手が、俺の右腕をつかむ。うつむく小百合の耳はほんのり赤い。照れているのだろうか。それとも焦っているのだろうか。おそらく後者だろう。

「蓮、聞いて。」

小百合が大きく深呼吸をして、顔をあげて俺を見る。

「私、拓斗が好きなんだ。」

小百合の目は涙目だった。俺が傷つくとわかっていたからだろう。小百合はそういう子だ。

「蓮の気持ちは嬉しい。すごく嬉しいよ。でも、ごめん。蓮の気持ちには、答えられない。」

最後まで目を逸らさずに伝えた小百合は、もう泣いてしまいそうな顔をしていた。そのこぼれそうな涙をぬぐってやりたかったが、どうやらそれは俺にはできないらしい。

「ごめん…。ほんとに、ごめん。」

それから小百合は、俺の腕を握ったままうつむいてしまった。

なんとなく、わかっていた。小百合が拓斗を好きなことは。何が決定的だったとか確かな根拠とかがあるわけではない。強いて言うなら、笑顔だ。誰にでも明るく微笑んでくれる彼女を長く見てきたからこそ、気づけたと思う。拓斗と二人でいるところを度々見てきたが、その時の小百合の笑顔は、他の人に向けられるものと違っていた。ほかの人というのはもちろん、俺も含めて。

「別府には、そのこと伝えたのか?」

俺は自然な感じで尋ねた。無理をしたわけではない。半ばあきらめの気持ちがあったからだ。

「まだ。来月が拓斗の誕生日だから、そのときに、伝えようと思って…」

小百合が小さな声で答える。俺と同じことをしようとしていたということか。思わず苦笑してしまった。確信していることだが、別府は小百合のことが好きだ。男は女よりもわかりやすい。すぐに勘づいた。もし小百合が告白すれば、別府は喜んで受け入れるだろう。そうなると今まで通りの三人ではいられなくなる。それも、俺にとって悪い形で。そう思い始めると、先ほどまであったあきらめの気持ちが、だんだん黒いものへと変わっていくのを感じた。

「応援して、だなんて言わない。でもこれだけは約束する。拓斗への告白がどういう結果になったとしても、私は二人を大切にするよ。三人の関係を、崩すつもりはないよ。」

小百合が顔をあげて涙を流しながら訴える。きっとその言葉に嘘はないのだろう。だけど、だけど同時に小百合が拓斗をどれだけ思っているのかもわかってしまった。小百合は拓斗への告白が失敗しても、それでも一緒にいたいと思っているのだ。だから三人の関係を崩したくないのだと。自分がどれだけ付属品であるのかを感じ取ってしまった。

俺は小百合の左手から自分の手を放す。

「蓮の気持ちは嬉しい。これは、本当。だから、ありがたく受けとるよ。」

小百合は涙をぬぐいながら言う。

「好きになってくれてありがとう。でも、その気持ちには応えられない。」

ストレートに伝えることが一番俺を傷つけない方法だということを、小百合はわかっている。そんな彼女だからこそ、好きになったのだ。人のために一生懸命な彼女を。

「年末はまた三人で年を越そうよ。ごちそうしちゃうよ!」

必死に明るく微笑む彼女を見て、罪悪感がいっぱいだった。傷ついたのは、俺以上に彼女だから。

俺は小百合の首にマフラーを巻いた。小百合は何をしているのかわからない様子だった。そして一気に力を込めた。俺はその間、小百合の顔を見ないよう下を向いた。いつも明るい笑顔の彼女が苦しむ顔を見たくなかったからだ。矛盾していると思う。だけど、彼女が他の人の手に、それも一番近くにいた別府に渡ることが許せなくなってしまった。俺の黒く塗りつぶされた感情は、マフラーで絞めつける力へと変わっていった。

しばらくして目を開けると、力の抜けた小百合の両腕が目に入った。それを確認して、小百合の顔を見る。死んだ彼女は眠っているかのようだった。そして俺はというと、衝動で殺してしまった事実を冷静に受け止めていた。これでよかったのだと、自分に言い聞かせていた。後悔をしないように、何度も何度も。気が付くと俺は大量の汗を流していた。鼓動も早い。何度か深呼吸をして、今後のことを考える。二十分は使っただろうか。ある程度考えをまとめて、俺はそれを行動へ移した。



俺の話を、別府は最後まで黙って聞いていた。蜃気楼はまだあったが、だいぶ別府の顔が見られるようになってきた。別府は努めて無表情だった。

「だから小百合は自宅で死んでいたのか。」

俺の話を聞いた後の別府の声色は、最初と変わらず平坦だった。

「じゃあ自室に移したのも」

「ああ、俺が移動させた。」

小百合を絞殺したあと、俺は小百合が自殺したように見せかけるために、小百合の部屋へ運んだ。そして押し入れに去年三人でキャンプへ行ったときに使った縄が収納されていたので、それを天井の柱にかけ、小百合を首吊りに見せかけた。それらを行っている際も、できるだけ小百合の顔は見ないようにした。我ながら非道だと思う。殺した挙句、隠蔽するなんて。

運がいいことに、警察は自殺と判断した。俺や別府も、小百合と仲が良い友人ということで取り調べを受けた。俺は小百合を殺した後、アリバイを作るために酒が弱い後輩を家に呼び出した。案の定べろべろに酔い、記憶が曖昧になった後輩は、警察からの取り調べの時に、昨日の夜はずっと俺と飲んでいたと言ってくれたらしい。

「最低だな。」

別府は、そこで初めて感情を露わにした。吐き捨てるように言い放った。

「ほんと、最低だよな。」

開き直ったわけではない。本当にそう思ったのだ。

「小百合が俺を好きではなかったら、どうしていたんだ?」

別府が俺に近づく。

「殺さなかったか?」

「いや、殺していたよ。」

即答した。小百合が俺のものにならないとわかった時から、そのつもりだった。別府であろうと誰であろうと、あの場の俺は小百合を殺していただろう。

俺の答えを聞いて、別府は黙り込む。

「…これからどうするんだ?」

別府は小さく尋ねる。自首をするのかどうか聞いているのだろう。

「お前は、どうしてほしいんだ?」

ずるい聞き方をした。きっと俺は覚悟しているようでできていなかったのだ。現に俺は自首するかどうかの話を出されて、動揺している。背中に冷たい汗が流れる。

「俺はお前に罪を償わせる。なんとしても。」

つまり別府は何が何でも俺を警察のところへ連れていくということだ。

鼓動が早くなる。またセミの声が大きくなる。近づいてきた別府を見ると、また蜃気楼でゆらゆらと揺れ始めた。さっきよりも揺れが大きい。蜃気楼が強くなってきたのだ。しかしなんだろう。今の揺れ具合は異常だ。視界全体をぐにゃぐにゃに曲げられたような、気持ちが悪くなる揺らぎだ。

「もう一度聞くぞ。お前はこれからどうするんだ?」

もう別府の原型がわからなくなるまで視界が歪んでしまった。気持ち悪くなり、後ろに倒れそうになったそのとき、俺の腕を何かが引っ張った。自分の腕を見ると、背後から人の手のようなものが、何本も伸びていた。俺はこれらの手にがっしりと掴まれていた。

「答えてくれ。蓮。小百合のためにも。」

別府の声が強くなる。

背後から掴んでいた手は一瞬消え、次は俺の前から手が伸びてきた。目の前にいる別府の姿が多くの手で埋もれる。そして俺は操られるようにその手が引っ張られる方へと進んでいった。別府のいる崖の方へ、ゆっくりと。傍から見たらゾンビが歩いている様だっただろう。そして何かが手に当たる。

「どうしたんだ?蓮。」

俺の手が別府の肩に当たった。すると、俺の両手はその肩を強くつかんだ。そしてそのつかむ力が強くなり、ものすごい勢いで前に引っ張られる。別府を崖の方へと追いやっていった。

「お、おい。お前まさか、やめろ!」

別府の姿は、俺の腕を引っ張る手と蜃気楼で、もはやどこにあるのかわからない。しかし俺の両手には、確かに別府の肩をつかんでいる感触があった。

「待て!蓮!お前、おい!」

別府の声が、セミの鳴き声の中で響く。


ふっと、別府の肩をつかんでいた感触がなくなった。

ほんの一瞬のことだったと思う。視界も戻っていった。目の前は崖。自分が今にも落ちそうな位置にいることに気づき、焦って三、四歩後ろへ下がる。まさかと思い、おそるおそる崖の下をのぞくと、遥か下の岩の山にたたきつけられて倒れている別府の姿を見つけた。

俺が、突き落としたのだ。さっきの俺の腕をつかんだいくつもの手は、なんだったのだろうか。蜃気楼が見せた悪夢か。それともあの蜃気楼は、俺の殺意の現れだったのだろうか。俺は最初から別府を殺すつもりだったのか。自問自答を繰り返したが、頭は混乱するばかりだった。

鼓動が早くなる。俺は別府を殺してしまった。その事実だけは理解が追いついた。

とりあえず車に戻る。

頭を冷やそう。そして考えよう。これからどうすべきかを。幸い、車のキーはもらっている。




車に戻ると、別府の鞄が目にとまった。証拠となるものは崖から投げ捨てた方がいいかと考え、手に取る。一応中身を確認する。すると、財布や手帳の他に、タオルで包まれた物体とロープを見つけた。包まれたタオルを開くと、それは包丁だった。綺麗な光沢を放っていた。

これを何に使うつもりだったのだろうか。別府が墓参りの前に、こんな周りに何もない、人気のない場所に連れてきたのは偶然だったのだろうか。さっきの別府の「お前に罪を償わせる。」という言葉の意味は、警察へ連れていくことだったのだろうか。あるいは…。

俺は包丁を片手に持ち、これからどうすべきかを考え始めた。外はまだセミの声が鳴り響いていて、蜃気楼が立ち込めていた。



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