表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編小説

鳥籠の少年と歯車の少女

作者: 伊那

 ガシャン、ガシャン……遠くで硬いもの同士がぶつかる音がする。

 少年はまぶたを閉じながら、何の音か想像する。夜の礼拝は随分前に終わったから、誰も外を歩いてなんていないだろう夜更け。街はきっと静かだ。サリフの耳が宮殿の外の音さえ拾えるくらいに。

 ガシャン、また音がした。誰かが物を運んでいる音だろうか。打ちつけているのだろうか。あるいは楽器なのか。少年にその正体を確かめる術はない。

 サリフは、この先長い間――あるいは一生、宮殿の外に出る事ができない。

 飢える事はない。毎日決まって食事が用意される。狭い部屋から少しの範囲なら出かけられる。窓から外の世界を眺める事もできる。

 着るものに困らない。書物も与えられ暇つぶしもできる。すぐそばの浴室(ハンマーム)にも行ける。

 昔風の吊りランプに照らされた薄明かりの下で、サリフは部屋の隅を眺める。

 散らかしたいくつもの書物を、ふたたび手にとる気にはなれない。本を読むのは好きなのに、今は何も頭に入ってこなかった。百年以上も前に書かれた建築の本を放り投げる。

 夜は暗く、人々はねむる。

 いくら待ってみても、あの金属が重なるような音が聞こえる事はなかった。サリフは、あれを聞きたかったんだと気づいた。


 東の空にあらわれた淡い薄紅の光が、リュザール礼拝堂(モスク)のドームをゆるやかに照らす。

 帝都の夜が明けようとしていた。既に夜明け前の礼拝の呼びかけ(アザーン)が終わり、人々が礼拝堂(モスク)に向かう姿が見えはじめる。朝焼けの弱い光に照らされる、帝都いち大きなリュザール礼拝堂(モスク)の姿は荘厳で、それだけで人は自分より偉大な存在を胸に感じる事ができる。

 いまの皇帝の住まう宮殿、何代も前の皇帝が建てたモスク、市場の大通りに、光と影が生まれはじめる。

 ある人々はこう言う。帝都が一番美しい時間は朝だ、と。

 巨大な都市が眠りから覚め、朝焼けにあたためられながら活気を取り戻してゆく様は、なるほど異国の外交官もうならせるほどのものがあった。

 だが――そのどれも、サリフは知らない。その両の目で見られた時などない。人づてにもほとんど聞いた事すらない彼は帝都の中心、宮殿の中にいるというのに誰よりも帝都を知らなかった。

 その日もサリフの一日は前日とほとんど一緒だった。目覚めてから着替えて身を清め、自室で礼拝をし、朝食が運ばれてくるまで時間を持て余し、また礼拝の時間になり、時々思い出したようにやってくる家庭教師の教えを受け、礼拝、ハンマームに行き、ごくまれに与えられるお菓子のロクムを堪能し、日没後の礼拝まで読書をして気をまぎらわし、夕飯を食べ、夜の礼拝までやる事を探す――

 決められた事しかできないのは、ある意味では安全であるといえよう。狭い宮殿の一角から出ないなら、その範囲外にある危険にさらされる事もないのだから。誰か人にぶつかるとか、階段から転げ落ちるとか、悪い人に騙されるとか、盗賊に会うなんて事もない。今も世界のどこかで行われているという(いくさ)に巻き込まれるなんて、絶対にありえない。

 物を望めば、時間がかかっても与えられる。今日みたいに、いつ欲しがったか覚えていないような、機械時計がやってきたりする。

 サリフが本物の機械時計を見るのは初めてだ。大仰な箱に入っている大勢のぜんまいが、(とき)をしらせる役目をするらしい。数字が書いてあり、針がそこを指している。

 これまで礼拝の呼びかけ(アザーン)がサリフの時報だったのに、こんな机の上に置けるくらいの箱がそれの代わりをするらしい。ふしぎなものだ。サリフはじっとその機械時計を眺めた。

 サリフの触れられる書物は必ずしも最新とは言い難いものが多く、彼は世間の新しいものをあまり知らない。それでもこの機械時計が比較的最近、人々の目に触れられるようになったのだとは分かっている。もしかしたら、こういったぜんまい仕掛けのものは、外の世界では増えているのかもしれない。サリフが知らないだけで、もっとずっと。そんな風に考えてしまうのは早計だろうか。

 しばらくするとサリフは、機械時計の背の方につなぎ目があると気づいた。箱の中身が歯車らしいとは分かるが実際には目にした事がない。開けるしかないだろうとサリフは思った。

 それはなかなか手間のかかる作業だった。なにしろ開けるために用意した箱ではないのだ、無理やりにこじ開けようとして変に指を痛めた。

 けれど。広げたものは、サリフの思っていたよりも多くて、夜空の星のように散らばった。

 古い写本ではなく、印刷した本に載っていた説明書きに即した、ギザギザした円盤がいくつも転がる。大きいものや小さいもの、ふたつやみっつくっついて離れないものもある。

 まるっきり未知のものだった。サリフの心音が、妙に速くなる。

 他のなにかを媒体にして知っただけのそれが、実際に自分の目の前にあるというのは、どんなに素晴らしい事だろう!

 息さえあがってきそうで、サリフは自分で呼吸を整える必要があった。

 いつもなら、眠った街の静かな夜に響くその音を、サリフは聞き逃さなかっただろう。だけれどもこの日は別のものに気を取られていて、それが近づいてくるまで周囲の音など拾えなかった。

 ガシャンガシャン、ガツン。

 何かがおかしいと気づいた頃には遅かった。

 気配は大きくて、威圧感さえあった。

 サリフの住まいは塔の最上階で、周りには足がかりになるものは何もない。それなのに音が、窓のすぐ外からやって来る。音だけでなく、その持ち主も。

 大きな音を立てて、それは飛び込んできた。サリフの部屋のガラス窓が割れ、窓の桟まで吹き飛んだ。

「うわああっ!」

 サリフは自分の頭を手でかばうので精一杯だった。何か巨大なもののぶつかる音がした。

 いくらかするとサリフの部屋にまた、夜の静けさが戻ってきた。彼は目を開け騒ぎのもとを探す。

 どうやら吊りランプは窓と一緒に壊れてしまったらしく、室内は暗くなっている。だが満月の近い夜、雲間にあらわれた十三日目の月が高い塔の中まで照らす。

「なんだ……これ」

 その瞳に映るのは、サリフの見た事も聞いた事もない奇妙な存在――。

 金属製らしいパーツをいくつも集めた、どこか動物に似た姿を持つもの。月明かりの下で目を凝らすと、機械時計で見た歯車も身につけているのが分かる。

 そしてかたわらには、サリフと同じくらいか、年下の少女が横たわっている。謎の機械の方が大きいためにすぐに気づけなかったが、少女は気絶しているではないか。サリフは彼女にかけよった。

 女の子、だ。

 サリフはあまり人と関わった事がない。彼の制限された世界は狭く、大人の使用人か、片手で数えられるほどしか会った事のない母親という存在だけが知っている顔だった。子どもにはほとんどお目にかかっていない。

 少女もまた、サリフにとって未知の存在だった。彼女の明るい色の被り物(ヒジャブ)の下から、つやのある黒髪がこぼれている。首から下げるペンダントにしては大きな円盤状の何かを床に触れさせて、目を伏せている。

 どうしたらいいのだろう。サリフには分からない。夜だから衛兵も物音に気づいていないのかやって来ないが、いずれ彼らはサリフの決められた日常を守るために押し入ってくるだろう。このままだと少女は不審者と見なされ捕まってしまうかもしれない。そんな事になってはいけない。

 息はあるようだ。少女の髪に、窓を突き破った時に生まれた小さな木片がくっついているのを見つけ、サリフは手を伸ばす。

 だめだ。小さな子どもでもなければ、男女は結婚してもないのに必要以上に接触してはいけない。サリフが他者と触れ合うほど近くに行った事なんて、生まれてから一度もないけど、教えとしては知っている。

「……きみは誰?」

 結局木片はそのままで、サリフは少女を見つめた。突然サリフの部屋にあらわれて、ものも言わずに横になっている。

 こんな事は初めてだ。

 そうだ、と彼は思い出す。少し前に医療の本を部屋に持ってきてあったのだ。立ち上がってそれを探そうとしたところ――物音がして、少女が目を覚ましたのを知る。

 彼女は手負いの獣のように小さなうなり声を上げた。

 戦士みたいな強い意志のともる瞳が、サリフを射抜く。もっと見ていたいと思ったのに、月が雲に隠れて室内が暗くなる。あっと思った時にはもうサリフは突き飛ばされていて、少女は機械の向こうに隠れてしまった。

 顔をサリフに見せまいとしている、と思ったが少女は機械に視線を注いでいるだけだった。機械のあちこちを調べて、持ち上げたりつなぎ合わせようとしたり忙しい。

「ああもう、ここまで壊れてる。すぐに直せないじゃない……!」

 一人でブツブツと言いながら背中にしょっていた鞄から先の尖った道具を出して、少女は機械にへばりつく。

「あの……」

 サリフは何度か声をかけた。そのたびに少女は聞こえないかのように振る舞って、しまいには「あっちへ行って!」と声をあらげる。

 サリフは何もしていないのに、彼女の行く手でも塞いだような剣幕。少したじろいだが、彼女には言わなくてはならない事がある。

「そのうち衛兵が来ると思うんだけど」

 もし少女が飛び込んで来た時の物音に気づかなくとも、定時巡回がやってくる。

 少女は顔を上げ周囲を見回し、自分がどこに居て何をしでかしたのかを思い出した。そしてまるで彼女の失敗の原因がサリフにあるかのごとく睨みつける。

 わざわざ指摘してくるくらいなら、対策を考えているのだろうねと言われているような気がして、サリフは思案した。


 サリフは床に敷いてある絨毯を引っぺがして天井に一辺をくっつける事にした。そうすると暗がりでは壁がひとつあらわれたように見え、壊れた窓と床に転がる機械をすっぽり覆える。低くはない天井に絨毯を固定する作業は少女も手伝い、その身体能力の高さを見せつけた。

 即席の壁の出来に満足して見上げていると、足音が階段をかけあがってくる。サリフは慌てて少女を偽の壁の奥に押しこむと、自分の答えるべき言葉を探した。

 武装した男がサリフの自室の前までやって来た。カンテラを掲げて室内を少し照らし、サリフが起きているのを確認する。

「……こちらの方から物音がしたと報告がありました。なにか異変は?」

「もしかして……ぼくが寝ぼけて、寝台から落ちてしまった音でしょうか」

 衛兵は首を動かして室内をちらりと眺める。寝台から転げ落ちた作り話は既に考えてあった為、毛布を床に落としておいた。

「おかげで寝つけなくて、どうしようかと思っていたところです」

 何故こんな真夜中に起きているのかいぶかしがられるかと言い訳を用意したが、かえって余計な事を言ってしまったかもしれない。

 だが衛兵は室内をくまなく調べ回るどころか、視線を走らせる事もなかった。「ま……お気をつけて」衛兵は半分歩きながら言い、階段をおりはじめる。

 足音が遠ざかっているのを注意深く聞き取り、それが完全に聞こえなくなるまでサリフは待った。

「……あんなのに騙されるなんて」

 気がつくともう、少女はサリフのかたわらにいた。彼は充分に危険がなくなってから相手を呼ぼうと思っていたのに。

 少女は衛兵が見せかけの壁を見抜けなかった事がふしぎでならないというように、絨毯の壁を見上げた。確かに間近で見ればすぐに分かってしまうだろうが、こんな夜中、離れた場所から見ただけでは分かるまい。

「彼らはぼくの部屋の狭さには関心がないから。それにちょうど月が隠れてくれてよかったよ」

 言ううちに満月にほど近い月が、雲からまた顔を出す。もう少し早く月が出ていたら怪しまれていただろう。

「もう来ないの?」

「さすがに朝には……食事を配膳するために人が入ってくる」

「じゃあ、それまでにはここを出る」

 言うと、少女は壁の向こうにある機械のもとに向かった。当然サリフは相手を追うが、少女はそれが気に食わないかのように顔をしかめる。だが彼女は優先すべきは他にあると判断した。

 少女は機械の前に座りこんで、広げてあった自分の鞄から道具を取り出しはじめる。

「ところで、きみは誰?」

 サリフはその少女の隣りに立って尋ねた。名前ぐらい聞いておきたいと思ったのだが、返事はなかった。

「どこから来たの?」

 本当は相手と同じように腰かけて機械を眺めたり話したりしたかった。だがそれは彼女が喜ばないだろうと考え、サリフは立ったままでいた。現にさっきから質問しても答えてもらえないほど、サリフの存在は歓迎されていない。

 少女の名前も知らないが、この帝都で暮らしているだろう事は言葉や服装から推測できる。

 だが少女が強い眼差しを向けるふしぎな存在の事は、サリフは想像もできなかった。

「この……歯車仕掛けのものは何?」

 サリフが指差した先にあるのは、彼が生まれてこの方一度も見た事がないもの。形はいびつなヒトコブラクダに似て見える。だがその身体は赤茶けた鋼で出来ていて、歯車の一部がはみ出し、錆びかけている。

「は? アンタ機械人形知らないの? どこの田舎ものよ」

 少女は不機嫌ながら奇妙なものを見るような瞳でサリフを見上げる。

帝都(まち)では今、機械人形の話でもちきりだよ」

 彼女は今更ながらサリフの身なりが寝間着ながら、よいものだと気づいた。彼女自身とは違い頬が煤けたりすり傷だらけだったりしない、小綺麗である事にも。どこかいいところのおぼっちゃまならもの知らずでも仕方ない。そんな風に思って少女は視線を戻す。

「ほんとは禁止されてるけど、いま、機械人形同士を戦わせるのが流行ってる。すごく盛り上がるんだよ。あたしも今日はその特訓してたんだ」

 機械人形の修理に必要な道具が入っているので、少女はペンダントを首から外して床に置く。大きなペンダントトップは入れ物になっていて、中から小ぶりの工具を取り出すと、彼女は機械人形の歯車にさしこんだ。

「戦わせる?」

 サリフにはそのさまを思い描く事すらできそうにない。

 少女は横目で彼を見ると、小さく笑うように鼻から息を吐いた。

「そ。勝ったら賞金がもらえる。だから……」

 言いかけて、少女は口を閉じた。

「なんでもない」

 そろそろ彼女の隣りにしゃがみこんでも怒られなさそうだ。サリフはそう判断してゆっくりと足を曲げる。

 彼女のいう機械人形に触れてみたかったけど、持ち主に怒られそうという以前にサリフが触れてはいけないもののように思えた。

「きみはこの……機械人形と一緒にここに来た。ってことは、機械人形に乗ってきたの? 馬みたいに?」

 彼女の機械人形は大きい。横幅はあまりないが、大人の男の倍くらいの大きさがある。

「そ。機械人形って思ったより繊細で、なかなか人を乗せるのは難しいから、やる人は少ない。でもあたしの機械人形はすごいんだ。もとは父さんのものなんだけど、ここまで改造したのはあたし」

 彼女は自分の機械人形を誇りに思っているのだと、サリフにもすぐに分かった。話すうちに、少女の瞳は輝きはじめた。立ち上がってサリフに向き直る。

「アンタも乗ってみる?」

 更にこんな提案。キラキラした瞳に見つめられ、サリフは目を見張った。

「いいの?!」

「あたしの機械人形は飛べはしないけど、とても高く跳びあがれる。帝都を一望できるし、バハル海峡だって、遠くのゲジェ山脈だって間近に見える! それに人より足が速いから城壁の外にだってカンタンに行けちゃうし、まだ行った事ないけどきっと、隣りの国や北西の大陸にだって!」

 笑顔の少女につられ、サリフの心も踊っていた。

 けれど。持ち上がった頬の筋肉が固まる。

「行きたい、けど」

 今の今までサリフは自分がどういう存在かを忘れていた。

「ムリだろうな」

 自分がどこにいるのかを忘れてしまうなんて、今までなかった。サリフの視線は自然と下がってしまう。

「なんでよ」

 少女の声は少し尖る。

「ぼくには……ムリなんだ」

「はあ?」

「ぼくはどこにも行けない。これまでも、これからも」

 サリフが少女の言われるままにここを出たらどうなるか。できるはずがない。禁じられているのだ、そんな事は。

「こんなにすごいものがあるのに、チャンスが目の前にあるのに、それを使わないなんてどうかしてる!」

 彼女は機械人形がどれだけ素晴らしいものかを知っている。だからそれをけなされたように思ったのだろう。

 だがサリフが断ったのは機械人形とは関係ないところに理由がある。

「アンタのことなんて知らないけど、ただビビって怖がってるだけみたい」

 少女はサリフを見もせずに冷たい声を出した。


 夜明け前の礼拝の呼びかけ(アザーン)より先に少女は修理を終わらせた。とりあえずの修理だったのだろう、機械人形の歩き方は歪んでいた。

 ガシャンガシャンと鳴る音もバランスが悪かった。サリフはこの時やっと、遠くから聞こえていたあの音は、機械人形の動く音だったのだと知った。

 二度と視線をもらえず、少女が帰っていくのをサリフは黙って見ていた。

 そう――サリフは、こわがっている。生まれた時から箱の中で育ち、半永久的に約束された安寧とひきかえに外の世界を失った。

 彼の許された区画以外、知らないところになんて行けるわけがない。第一帝都の(あるじ)とその他の高官たちが、その下にいる衛兵たちがサリフの外出など許さない。必ず行く手を阻まれる。サリフに選択肢は用意されていない。

 なんで。どうして。

 サリフだって知らない事を知りたい。宮殿の外にあるものを見てみたい。地平線の向こうに続く世界は欠けていないと確認したい。

 でも、サリフにはこの部屋だけがすべてで、課された義務で、それがずっと前から決められた運命(さだめ)なのだ。

 そしてサリフには、立ち向かう勇気などない。

 自分で選んだ訳でもないのに、決まった日常から外れる事はとても恐ろしくて、不確定要素が多すぎて、危険な目にも後悔の念にもさらされるだろう事は想像に難くない。

 宮殿(ここ)にいれば少なくとも安全で、未知のものもなく、約束された日々が送れる。

 それに――いちばん恐ろしいのは、弱い自分と向き合う事。見知らぬ場所に行けばサリフはいつか弱音を吐くだろう。身をすくませ座りこむだろう。後退すらしてしまうかもしれない。そんな弱い自分を、受け入れる事なんて到底できない。

 だったら、そんな自分は見なければいい。決められた日常の中なら、いつもの自分しか見なくて済む。自分に必要以上の期待をして、裏切られる事もないのだ――。

 即席の壁をしまい、サリフは部屋を片付け、朝の食事を終えたあとも、少女の事を考えまいとした。

 たとえば、彼女の誘いにのって、機械人形の背中に飛び乗るとする。

 この部屋の窓から見えるすべてのものを外から見よう。帝都の象徴である大きなリュザール礼拝堂(モスク)、その奥にある他のモスクも、市場も、ハンマームも、マドラサも金持ちのお屋敷も小さな民家も、橋も川も海もなにもかも。

 それからゲジェ山脈に向かって駆けて、隣りの国に行って……。

 ――そんな事は不可能だ。街を出る前にサリフの脱走は見つかってしまうし、すぐに引き戻される。

 それ以前にサリフはそんな風に部屋を出る事を許される身分ではない。

 それに、たとえいっときでも街を見て、彼らの日常に触れてしまえば――連れ戻された時の悲しみはかえって増す。

 望まなければ、心が苦しくなる事はない。

 だから、だからサリフがこんな風にもどかしい思いをするのは間違っている。望まないと決めたのはサリフ自身なのだから。手放したものをいつまでも振り返るのはおかしい。

 だけれども。

 動かなくなった時計の文字盤がうらめしげにサリフを見ている気がした。中身を吐き出させた機械時計を、元に戻そうと思って机に置いたのに、直せもせずに手で払い落とした。こんな風に物に当たるなんて、サリフはほとんどしてこなかったのに。

 少女の楽しみに満ちた表情が脳裏に焼きついている。

 あんな風になれたら。あんな風に身軽に、大胆に、望みを口にできたら。

 できるはずがない。

 サリフは、“その日”が来るまでこの部屋に居続けなければならないのだから。




 ガシャン。機械人形の足音がした。

 少女がふたたび姿をあらわしたのは二日後の事。満月の夜だった。

 窓が壊れた事をサリフは誰にも言ってなかったから修繕はされず、ただ自分で小さな絨毯をはりつけただけだった。そこから少女は入って来た。

 さすがに彼女も昼の宮殿に侵入するつもりにはなれないだろうとは分かるが、サリフは不意の事で驚いた。月あかりがまぶしいけれど、もう少しで眠ろうかと思っていたところだったのだ。

「何してるの」

 サリフを一瞬見たあとは、少女は室内を眺め回す。そっけない顔をしていた。

「忘れ物した」

 それを探すように、サリフの部屋の数少ない家具や調度品の裏や隙間を検分する。

 サリフには彼女の捜し物がすぐに分かった。彼女が去ったあと、部屋を片付けていたら自室にはもともとなかったものが見つかったので、とっておいたのだ。小さな棚の引き出しを開けると、サリフは少女のペンダントを取り出す。

 親の話をうわの空で聞く子どもみたいな顔をしていた少女は、やっと人間らしい顔色を取り戻す。

 何も言っていないのにどうして自分にこれが必要だと分かったのか、サリフを問いただしたいような顔をしている。ペンダントを受け取って、少女は視線を少しさまよわせた後、首にそれをかけた。

「……この前はあたし、言い過ぎたかも」

 少女は窓を向いていたし、すぐにでも帰るものだとサリフは思っていた。相手のしおらしい様子にも意外に感じ、サリフは目をしばたく。

「べつに……あたってるし」

 それから小さく自嘲する。

「どうしてかな。もしかしたら、上手くいくかもしれないのに、その可能性を信じられないなんて」

 普通であれば、上手くいく方を選ぶはずだ。

 だけどきっと、サリフの日常は普通じゃない。窓の外を眺めれば、自分以外の人間は外を駆け回ったり誰かと話したり買い食いしたりしている。

 対照的にサリフの日常は“これ”でしかなく、ほぼ永遠に続く。胸がずんと重くなる。

 少女が息を吸う音が、サリフにも聞こえた。

「……試合の前さ、機械人形の試合ね。あたしの機械人形、負けてみんな壊れちゃうかもって思うことあるよ」

 彼女の視線の先には、窓のそばで待機するラクダにも似た機械人形がある。この前サリフが見た時より少し形が変わったようだ。壊れた部分でもあって手を加えたのだろうか。

「あたしだって、すごく、すっごくこわいよ」

 小さな声だ。

 彼女にとっては自分が恐れていると他人に知られるのは、とても嫌な事なのだとサリフには分かった。侮られたくない、弱虫だと知られたくない。今にも震えそうなのを見抜かれて、そこを突かれて攻撃されたくない――。

 サリフと同じだ。

「でもさ、なんにもしない方がこわくて」

 少女は自分の左腕を右手でぎゅっと抱きしめる。

「うち、ビンボーだから、試合に出るしかないってのもあるけど」

 巷で流行りの機械人形を戦わせる試合では、賞金が出るのだ。サリフは先日彼女が言っていた事を思い出す。

「でも家族のためにやるしかないって、自分だけのことを信じられなくても、家族のこと思い出して……」

 彼女は弱い自分を知っていて、それでもなお立ち向かえる。自分と向き合って、自分より強いかもしれない相手に戦いを挑む。それを支えるのは彼女自身の強さと、家族。

 大切な誰かがいればがんばれるという事なのだろうか。

 そんなものサリフにはいない。

 この世にサリフを生んだ母親も、父親も、兄弟姉妹も、友人も、結婚相手も、知り合いも――

 困った時に助けてほしいと思える相手なんてどこにもいない。

 でももし彼女が、そうしてくれたら?

 サリフを助けてくれるとしたら……。

「ムリなものはムリなんだ」

 できるはずがない。彼女は市井(しせい)の、裕福ではない家で育ち、家計を支えるので精一杯。サリフなんて、偶然機械人形が落っこちた先にいただけの相手にすぎない。

 彼女にすがろうなんてお門違いもいいところ。

 何より今も、サリフの足は根がはったように動かない。動けない。

「そりゃ、アンタの事情は……っ」

 言いよどむ彼女はもう、サリフの身の上を知っているのだ。宮殿に閉じ込められている子どもといえば、他に考えようがない。

 サリフが、現皇帝の親族で、皇位継承権を有するがゆえに閉じ込められ、現皇帝に問題があった時にすぐに入れ替えられるように用意された“スペア”である事を、知ってしまったのだ。スペアは余計な勢力に担ぎ上げられたりせぬよう、必要になるまではしまっておかなければならない。監視の行き届いた小さな箱庭の中に、封じ込めて、遮断して。

「ほんの少しの間、抜け出すくらいならさあ……っ、」

 少女は苦しそうな顔になる。そんな彼女を見たくはなかったが、サリフはかえって微笑んでしまった。

「ありがとう」

 何を言ったらいいのか、お互いに分からなかった。

 この少女が、自分のために心を痛めてくれた事。それが分かればサリフには充分だ。

 もしかすると、サリフは一生ひとりぼっちのままでは――ないのかもしれない。そう思うと、何故か涙が出そうになった。ごまかすみたいに殊更笑って、相手に近づいた。

「また、話しがしたいな」

 少女はひどく複雑な表情になる。彼女の方こそ泣き出しそうな、困ったような、怒ったような。

 案の定、少女は歩き出して機械人形の背に乗る。

「もう来ないよ」

 突き放した物言いはそれでも覇気がなく、ガシャガシャ音をたてて、機械人形は少女とともに窓から跳び去った。

 サリフはいつも、彼女の背中ばかりを見せられている――。


 東方の大国と戦になりそうだという話がサリフの耳にも届いたのは、少女と別れてから半月もしない頃。

 サリフが求める書物にすべては書かれていないが、彼には耳もあった。噂話で昔の事も今の事もある程度知る事ができる。

 情勢の変化は、皇帝の玉座に影響してくる。

 これが、吉と出るか凶と出るかサリフには分からない。

 戦が何をもたらすか。勝てば領土や略奪品がもたらされる。負ければ――敗北の理由を皇帝に見出す者があらわれる。過去にもそういった例があった。戦に負けるような弱い皇帝は要らない、別の皇帝を――

 いまであれば別の皇帝はサリフだ。今の鳥籠にはサリフしか皇帝のスペアがない。皇帝のスペアにとって、あまりよくない兆候に思える。

 サリフは皇帝になりたくない訳ではない。皇帝になれば狭い部屋からは抜け出せるし、やれる事が増える。もしかしたら、この鳥籠の風習を廃止させる事だって出来るかもしれない。

 だがもし鳥籠を壊す事もできず、新たなスペアが生まれてしまえば――

「もともと、何百年も前と違って、強い皇帝なんて誰も望んでない」

 取り替えのきく皇帝なんておかしいだろう。もとより今の帝国にとっての皇帝は、他の有能な誰かが象徴として据えるだけの、ただの人形なのだ。

 サリフも、最初から人形だった。ただ誰かに言われるままに鳥籠の中で暮らして、管理され、不要になれば捨てられる。

 あの勝ち気な少女の機械人形と同じ。彼女は機械人形を大事にしているようだったから、あちらの方がマシかもしれない。

「ムリに決まってる。ムリに……」

 考えないようにしていた。

 けれど彼女の背中を目で追ううちに、いつか頭から離れなくなってしまった。

「ムリ……なんて……」

 ぎゅうぎゅうと握りしめていた拳が、痛い。




 いつもあの少女の背中を、帰り道を眺めていたから、サリフは彼女の住まいのだいたいの方角が分かってしまった。

 彼女に届くか分からないメッセージを送った。彼女が機械人形と徘徊していそうな夜の時間に、ランプの光を鏡で反射させて、彼女の住まいの近くに向かって放った。

 無意味な事をしてるかも、とむなしくもなった。けれどサリフは何もしない方がこわいというある人の言葉を思い出していた。

 帝国が戦争のために兵士を集めている。東方遠征の話がかなり具体的になった頃に、やっと彼女はあらわれた。

 光を遠方に放つ行為は寝る前の習慣みたいになっていたから、サリフはもう半分眠りかけていた。ガシャ、ガシャン……という足音を耳にして寝台からはい出る。

 彼女を見た時、自分もこんな寝間着じゃなく、外出に似合いの服を着て待っていればよかったとサリフは思った。

 今度は、自然な笑みがこぼれる。

「もう一回言って」

 相変わらず少女は強い意志を瞳に宿し、おでこや頬に煤けたあとがあり、手も汚れていた。既にサリフにはそれらが懐かしくなっている。

「なにを?」

 どこか警戒する眼差しで、少女は問い返す。

「この鳥籠を抜け出そうって」

 ムリだなんて、誰が言った?

 鏡とランプを置いたサリフは、まっすぐに少女を見つめる。

「きみと夜の帝都を見て回りたい。遠くのゲジェ山脈も、隣りの国も」

 サリフに手を差しのべられ、呆れたように笑う少女は困惑を口にする。

「どういう風の吹き回し?」

 二度も彼女を拒絶したサリフが頼みこむなんて、思いもしなかっただろう。

 もう遅すぎただろうか。サリフは少しだけ笑みをかげらせる。

「本当はずっとやりたかった事、ずっと前にやるべきだった事を、やるだけだよ」

 過ぎ去りし日々に、こらえきれない思いが募る。無駄にしたとは思いたくない。けれど、けれどこのままでなんていられない。サリフはもう、足踏みして過ごすなんてできない。

 もし彼女に断られても、サリフはきっと別の方法を探すだろう。どこか遠いところへ行けるように手を尽くして、サリフの身分を知らない者ばかりの村で、小さな学校みたいなものを開こう。サリフが誇れるのは物心ついた時からむさぼってきた書物の知識だけだから。それを活かせる仕事に就いて、生きていく。

 なんて――夢を見すぎだろうか。

 そろそろ、少女に受け取ってもらえない右手が疲れてきた。

「……いいよ。まずはどこに行く?」

 サリフのおろそうとした手を、少女が引っぱる。足早に、自分の機械人形のもとへと導いて。サリフの大好きな、意志の強い瞳を輝かせる。

「そうだね。リュザール礼拝堂(モスク)を向こう側から見たい。それからバハル海峡の青色も。もしかしたら、北西の大陸まで」

「ははっ、吹っ切れたね! じゃあしっかり捕まって、離さないで」

 二人分の重さに耐えかねて、機械人形はガシャンときしんだ。


 その日、鳥籠の中から一人の少年がいなくなった。宮殿内はくまなく探され、帝都の門がいくつも封鎖されたが、彼は見つからなかった。

 病死したのだとか暗殺されたのだとか噂されたが、帝都に真相を知る者は誰一人としていなかった。そう、帝都の中には――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 最初から最後までずっと美しい世界に引き込まれました。絵本の世界のよう。一枚のイメージイラストで見てみたいなと思いました。少年の心が少しずつ揺れる様に、じれったくも応援したくなりました。二人…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ