贈り物
前回のあらすじ
女には女の戦場がある。その名もご近所付き合い。
朱里「魔物と戦うよりたいへんだった」
ガインが家の玄関を開けて一番に聞いた言葉は待ち望んだ「おかえり」ではなく、森の人特有の長い耳が痛くなるほど大きな声だった。
「いったぁー!!!」
十中八九、常識知らずにつけ込み、言い包めて同居に持ち込んだ朱里の声だ。
目を向ければ、朱里は左手の人差し指をしゃぶっていた。
「何やってんだ?」
ガインはそれを見て、「ただいま」より先に質問を口にしていた。
「おかえり」と言ってもらえなかった意趣返しではない。まだ。
「裁縫です」
人差し指を口から出して朱里が答える。
問いかけに答えながら、朱里はまずいと焦った。
「おかえり」と言っていないことではない。朱里は今その言葉の存在を忘れている。
忘れている言葉に焦りはしない。思い出したから焦るのだ。
朱里は時間を思い出した。
ガインが帰って来るという時間を。
夕食が出来ていなかった。
朱里は裁縫道具を魔法鞄から出した後、気軽に、でも失敗するかもしれないので、自分の服から手に取って繕うことにした。だが、
「ん?糸が抜ける」
針を刺して引き抜くと止まる事無くするんと抜ける糸に首を傾げた。
「ああ、玉結び」
朱里は糸の端を持ち、小学校の家庭科の授業を思い出しながら、手を動かした。
玉結びは何故か玉の端に小さな輪っかが出来た。その上、この辺かなと思っていた所よりも上に出来てしまい、長く余り糸が出来てしまった。
「まあ、久しぶりだしね」
やり直す方法があるかも知らない朱里は気にせず縫い始めた。のだが、
「穴ってどうやって埋めるんだっけ?ワッペン?無いし。布あてて縫う?
でも、当て布自体無いし」
朱里は悩んだ。そして、穴が空いているのではなく、糸が解れた方から先にやることにした。
「波縫いだっけ?」
布に針を刺せば先ほどと違い、きちんと止まる。
「たしか、こう……」
布を波のように動かして、
「痛っ」
朱里は指を刺した。
浅かったのか、刺したところから血は出なかったが、痛い。
朱里は指を舐めた。
「気をつけよう。針の先」
言って、また刺す。
「いったー!」
今度は布越しとはいえ、深かったのだろう、血の玉が指から浮かんだ。
「はっ、はははは。たかが裁縫と侮った私が悪かった。全力で挑む!」
こうして朱里は、ガインが帰ってくるまで、裁縫に夢中になり、指を刺しまくったのであった。
「馬鹿か、おまえは」
案の定、ガインは呆れた。
「出来ないことはしなくていい。裁縫ぐらい、俺だって出来る」
ガインはそう言って朱里を諭し、負担を軽くしようとしたのだろう。
だが、男のガインが出来るのに女の自分は出来なかった事実が、家事は男より女がする日本人女性の意識を持つ朱里を打ちのめした。
「小さい頃は出来たんですよ?たぶん。痛かった記憶がないので」
忘れてなければ。
そう、言い訳をする朱里の手からガインは、縫っている途中の朱里の服を取り上げた。
「お前、それは絶対、記憶違いだ。出来てた奴の縫い方じゃない」
ガインは断言した。
服は広げられ、朱里の繕っていた所がよく見えるようになった。
優しく言って、がたがたである。
朱里は言い返さなかった。
「繕いは俺がやっとくから、飯頼む」
「お願いします」
朱里は少し落ち込んで台所に立った。
その日は、シンプルに蒸し米のご飯とガインの家に残っていた野菜や魚の乾物の潮汁、それに、クコの実とトーメのサラダを添えた。
「肉は?」
ガインが不満そうな顔をしたので、サラダにはガインの家にあった干し肉を戻して焼いた物を混ぜた。
「うん、うまいなー」
繕いの手を止めて、先に夕飯に手を出したガインがいつもの様に朱里の料理の感想を口にした。
朱里は、ふと、前の世界で見たテレビ番組を思い出した。
その番組の主婦の不満特集コーナーだ。
割と上位に、旦那が食事の感想を言ってくれないというのがあった。
朱里はガインを見た。
ガインは旦那ではない。もちろん朱里も主婦ではない。
だが、今の所、一番よく朱里の料理を食べている男だ。朱里が料理を提供している相手だ。
思い返せば、ガインが今まで食事の感想を言わなかった事はなかった。その上、感想は全て褒め言葉である。
今もそう。不満を持つ主婦達に申し訳なくなるぐらい、うまいうまいと、よく食べる。
食レポなどのように詳しく語ったりはしない。だが、それだけにストレートに気持ちが伝わる。
それを毎食、当たり前に、ガインは口にしながら食べている。
ガインからすれば、それは純粋に朱里の食事がうまいからだ。うまくない食事にうまいとお世辞を言う性格ではない。
もし、口に合わなかったとしても、朱里に下心があるガインは文句は言わない。正直に合わないとだけ言う。そういう男だ。
しかし、そこまでは朱里の預かり知らぬ所。
だから朱里は、本当にたまたま思い出しただけの、ふっと過ぎっただけの、いつもなら何も考えずまた記憶の中に埋もれるだけの、ちょっとした記憶を。けれど、思い出し、思い返した朱里は。
何も考えず思った事を口から出した。
「あなたは良い旦那さんになりそうですねぇ」
ガインが潮汁を吹いた。
翌朝も大変いい天気だった。次の日もその次の日もいい天気だった。
その間、朱里は、朝は修行に励み、昼は井戸端会議に出席し、夜はガインと温泉に行った。
成果は徐々に、だが着実に出た。
筋力が付いた。
女達の会話に入れるようになった。
温泉で肌がつるつるになった。
そしてガインが色々採って帰ってくるので、料理が色々と作れるようになった。余り世話をする必要のない保存食も一杯作った。
「やべー、俺、一人暮らしに戻りたくない」
最近、ガインは良くそう言って朱里の背中に縋っている。
「私も、もっと色々作りたいです。
食べっぷりいい人がいると、料理ってはかどるんですねぇ」
この頃には、家での雑事の役割分担も何となく出来ていた。だからだろう、
「よく、もう結婚しちゃいなよって井戸端で言われるんですよ」
ガインは朱里の見えない所でガッツポーズをした。
「でも、温泉とか世界のご飯とか、未練があるんですよねぇ」
洗濯物を畳む朱里の言葉を朱里の背中に顔を付けて聞いていたガインが顔を上げた。
朱里は結婚に関して思う所があるようだが、その相手がガインであることに否やはない様にガインには見えた。
よってガインの機嫌はぐんぐん上がっていく。
「お前、前に、料理の能力はギフトで、料理に関しては、古今東西の知識があるって言ってなかったか?」
ふと、気づいた事をガインは朱里に聞いた。
「はい。言いましたね」
「で、再現も出来る」
「はい」
朱里は手を止めてガインを振り返った。
「何か?」
ガインは不思議そうな顔をしていた。
「つまり食べに行かなくても食べられるって事だろう?何で食べ歩きたいんだ?自分で作ればうまいのに」
確かにそうだ。
ギフトがある以上、朱里の料理は並みいる料理人が作る料理よりうまい。
ガインが何故わざわざまずい物を食べに行くのか不思議に思うのは当然だろう。
だがしかし。
「料理って作り手によってすごく味が変わりますよね?」
「ああ、家庭の味があるからな」
「それにすごく手間がかかって、時間や機材がいる物もあるでしょう?」
「酒とかか?確かにな」
「作るのが面倒なものとか」
「ああ」
ガインは理解した。
「人に作ってもらった物が食べたい」
朱里は宣言した。
「おいしい物は好きだし、料理の仕方も分かるし、手も動くから苦ではないですが、元々、そう自分で何かを作る事がすごく好きという訳ではないんですよ。
体を動かすのは好きですけどね。そろそろまた狩りに行きたいです」
あれから、裁縫はガインの役割だ。
朱里はどうしても綺麗に縫えなかったから。
そもそも朱里は大学で運動部に所属していた。
体育会系のノリは苦手だが、運動は好きで、こちらに来てからはガインに連れて行って貰う狩りや戦闘が楽しくて仕方がない。
だから修行が嫌になったこともない。
だが、井戸端会議で話を聞く限り、戦闘民族といえど、井戸にたむろする女性達の中には修行が嫌で嫌でたまらなく、修行やその成果を見せるべく連れて行かれる狩りから解放されたのが結婚して一番嬉しかったことだと言った女性も割といた。
そんな彼女達が家で何をしているかと言えば機織りだったり、縫い物・刺繍だったり、料理だったり、家の模様替えだったり。
持ち寄られた布や服や料理はすばらしいものばかりだった。
それらはそういったことが苦手な女達が、他人の手の物が欲しいという女達が買っていく。
要は、向き不向きがあるという事だ。得意・不得意に関係なく。
「旅も好きです。知らない景色がみたい。現地の物を現地で食べたい。狩りしたい」
朱里は言った。
「だから世界を食べに歩きたい」
朱里程の食への執着はないが、気持ちはガインも理解できた。
旅先で食べる料理はうまい。
家に戻って同じ様に作っても何か違うのだ。
景色か、空気か、雰囲気か、自分のテンションか。
だから分かる。
旅先で取った物はそこで現地の料理にして貰って食べたい。
そして色んな相手と戦いたい。
そのためには旅が一番だ。
「やっぱ、らしくなくても森の人だよなぁ、おまえも」
ガインは納得した。
それから、ガインは少し早く帰ってくるようになり、空いた時間に朱里を狩りに連れて行ってくれるようになった。
朱里の狩りは最初と比べると目を見張る程上達した。
最初が出来なさすぎだったとも言えるが。
「そろそろ武器も使ってみるか?」
そうガインが言い出したのはある狩りの終わりだった。
それまで朱里は、素手で獲物と取っ組み合いをしていた。投げたり蹴ったり殴ったりだ。
鳥なんかは、その辺の石を使って打ち落としていたが、基本、武器を使った狩りはしていなかった。
「何がいい?希望があるならそれに添うが」
朱里は獲物のガーゼルという鹿のような魔物ではない大型動物を持って来ていたナイフで解体していた最中だったが、手を止めずにしばらく考えた。
「そもそもどんな武器があるか知りません。
遠当ては得意ですが、弓矢は適応されるか分からない上、接近戦が出来なくなるのはおもしろくないですよねぇ」
すっかり森の人らしく血の気が多くなった朱里にガインは嬉しそうに頷いた。
「例えば、剣なんかだと、重いのやでかいは動く時に邪魔になりそうですが、短いのは武器って感じより調理器具って感じですし」
朱里は手元の真っ赤に染まったナイフを掲げた。
短いのならばすでに持っているのだ。解体用として。
それで解体や調理まで使いこなす朱里にとってこれはもう武器ではない。
仮に武器にしても、今捌いているガーゼルさえ刃の長さの問題で一撃ではしとめられない。今までの肉弾戦が必要になる。
それでは武器を持つ意味がない。
どうせ武器を手にして狩りをするのなら、獲物に付ける傷を最小限にしたかった。
「剣ならそこそこ長くて、動くのに邪魔にならない軽いので」
ガインが頷いた。
「お前の戦い方からして、少し短い双剣も視野に入れてみていいと思う。後、遠戦出来る武器も一つ持っといた方が楽だぞ。
という訳で、明日、鍛冶屋に行くからな」
その日はガーゼルのローストビーフを作った。
外側はかりっと香ばしく焼き、中は火を通さず柔らかく仕上げた。
ソースはもちろん朱里の手作り。柑橘ベースにさっぱりと。
「うまい!」
ガインは喜んで食べた。
珍しく家ではなく訓練場でお昼を食べたと思ったら、ガインは家に帰らず朱里を連れて訓練場の谷を降りた。
谷の下に鍛冶屋があった。
「おやっさんいるかー」
甲高い音が響く。熱気吹き出す入り口には扉がない。
ガインは気負いなく、朱里は少しこわごわと中を覗いた。
「おやっさーん!!!」
二度目のかけ声はガインの腹に力が入った大変良く響く声だった。
空気がびりびりと震える。ついでに朱里の体もびくっと震える。
記憶がなくてもガインに対するトラウマはなかなか抜けてくれないのだ。
「おう!少し待て!」
奥から甲高い音と共に返事か来た。
こちらもすばらしくでかい声だった。
二人は外に出て、腰掛けるのに丁度いい岩が置かれていたので、そこに座って、待った。
奥から返事を返しただろう人物は、響く音が収まった後、しばらくして出てきた。
「よう。ガインどうした?ようやく武器を持つ気になったか?」
そう言えば、スカル戦の時、ガインは武器を持たないと言っていた。必要ないと。
「いや、原始の森でもないのに俺はいらない。いるのはこっちだ」
ばんっと背中を叩かれた朱里は椅子にしていた岩から落ちそうになったが、耐えた。
「ほほぅ、うちの村にこんな子いたか?」
おやっさんとやらはでかくて筋肉隆々の男だ。
のぞき込まれた朱里は今度は後ろに上半身を倒した。
「いや、旅で拾ったんだ。
修行をしたことがない箱入りでな。そろそろ筋肉も着いてきたし、武器の扱い方を覚えさせとくかと。
俺等みたいに肉弾戦だけじゃ女はきついし、扱い知らないといざという時、使えないからな」
ガインの説明に巌のような男の顔がにっかりと笑った。
「そうか!ガインにもようやく春がきたか!
よし!俺がいいのを見繕ってやろう!」
がっはっはっはと盛大に笑う男を前に朱里は今までのように嫁ではないと口を挟むことが出来なかった。
ガインも否定しない。出来ないではなく。
「武器は刀がいいと思ってる。
こいつ踊るみたいに動くから、双剣もいい。
遠当てが得意だから、それも生かしたいんだが」
「嬢ちゃんちっこいから小弓なら小回り効きそうだが」
二人は朱里を置いて、武器のあれがいいこれがいいと話している。
朱里には自分の意見を言う隙間もないが、そもそも希望はガインに伝えているし、武器のことは全くわからないので、朱里は二人に丸投げして話を聞いていた。
「遠当てがうまいと弓がうまいとは等号じゃないだろう?」
「投げ物が得意なら、円盤刀とか投擲刀とかもありじゃないか?」
「双剣で投げれるようにしとくか、別に持たせるか」
「別に持つと荷が増えるからなぁ。回収も考えるなら、鎖鎌だが」
「身軽にさせときたい。合わせるか?」
「いいかもな」
どうやら話はまとまったようだ。
「じゃ、出来たら連絡しよう」
「待ってる」
これで帰るのかと思ったら、おやっさんが、朱里の目の前に来た。
「失礼」
言うや朱里の体は宙に浮いた。
投げられてはいない。脇におやっさんの手があり、いわゆる高い高いをされたのだ。
「軽いな」
すぐ降ろされ、今度は腕を捕まれる。
「小さくて細すぎるぞ。筋肉足りてないんじゃないか?」
朱里はなすがままだ。驚いて固まっていた。
「これでも増えたんだ」
ガインは言った。
「成長は速いが、元が箱入りなだけあって肉弾戦だけでいけるほどは見込めなさそうなんだ。女だしな。
だから、武器で補助するんだよ」
男はむぅうと唸った。
「ここに来る女達でももっと筋肉があるからなぁ。武器をいつも以上に軽いのにしなければ、使えんなぁ。これは」
「だからって脆いのは困るぜ」
「誰に言ってる。そんなん武器じゃねぇだろ」
おやっさんはようやく朱里の腕から手を離した。
頭に手を置き、わしわしと撫でる。たぶん撫でたのだろう。たとえ、朱里の首ががっくんがっくん手の動かすままにもげそうなほど動いていたとしても。
「いいの作ってやっからな。楽しみにしてろよ」
おやっさんは良い笑顔だった。子供向けの。
「お願いします」
朱里は余計なことは言わず、頭を下げた。
その帰り。
朱里はずっと気になっていたことをガインに聞いた。
「お代って、いくらぐらいするんでしょうか?
草原の町では武器は大変高価だったように思うんですが」
ガインも朱里の頭に手を置いた。そしておやっさんよりはやさしく、朱里の頭をかき混ぜた。
「俺が使えって言ったんだから払いは俺が持つ。
お前は喜んで受け取れ」
朱里は顔をしかめた。
「私の武器ですよ?私が払いたいんですが」
ガインは言った。
「野暮だぞ」
朱里はガインを見上げた。優しげな瞳とかち合った。
「お嫁さんになる気がない女に貢いで楽しいですか」
ガインはくつくつと笑った。
「楽しいねぇ。早く落ちてこいよ?」
上機嫌なガインに、朱里は何か言いたかったが、口を開いただけで言葉は形にならず、顔を反らしてむくれるしかなかった。
20.4.30 改稿




