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逃亡の朝

前回のあらすじ

大変な薬を飲んでしまいました。

 目の前には川岸に降りるための階段の入り口。

 対岸にも同じものが見えるので形状はよく分かった。

 崖に沿って斜めに降りる階段で一カ所だけ踊り場がある。崖は高かったが、川幅もそれなりにあるようで、わずかに対岸の桟橋が見えた。

 崖は丸見えである。


 後ろを見れば、ガインの胸板。

 向かい合っての抱っこから背中を預けての膝抱っこで寝ていたようだ。

 道理で背中が温かい。


 ガインはまだ寝ている。

 空気の冷たさと日の弱さから、まだ明けたばかりなのだろう。


 崖の下からシラサイトが頭だけ覗かせて、こちらに目を向けている。

 遠目でもよく分かる磨いてツルツルにした黒曜石のような綺麗な瞳だ。

 周りで飛んでいるのは子供だろうか。そう、シラサイトが……。


「シラサイト!?」

「ぐっつぅ!!!」


 朱里は起きた。

 完全に起きた。

 起きた際、ガインの膝に座っていることを忘れ、驚きのまま立ち上がろうとしたせいで、頭をガインの顎で打ってしまった。

 一瞬意識が遠のいたが、起きた。


「人が寝てんのに何しやがんだ、ごらあ!」


 顎に頭突きを喰らい、痛みで目覚めたガインに、頭を鷲掴みにされた。

 森の男の握力で握られた頭は、万力で絞られたかの如く、重ねて痛みに悶えることになったが、目は覚めた。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!不可抗力ですごめんなさい!私も痛かったですごめんなさい!」


 朱里は状況を理解したので、必死に謝った。

 存分に西遊記の叱られる孫悟空の痛みを味わった後、解放された朱里は頭を抱えた。

 残った痛みに悶えるために。


「……何でシラサイトが居るんだ?しかも子連れで」


 ガインもようやく起きたようである。


「知りません。起きたらいました。

 というか、何でまだ川の前なんです?そんなに村から離れてないですよね、ここ」


 シラサイトはこちらを見たまま動かない。

 子供らはこちらを全く気にせず、川の中を飛び跳ねている。

 水色の鱗に朝日が当たって真っ白に光り輝いている。眩しい。目が眩みそうだ。


「渡る前に万一に備えて安全を確認してたら、森の中が魔物だらけになってたんだよ。

 せっかくだからお前の修行材料にしようと思って」

「いらん気遣いありがとうございます。あと、後ろでしゃべられると背中がぞわぞわするので降りて良いですか?」


 途端、耳の中に一筋の空気が勢いよく流れ込んできた。

 朱里の両腕に鳥肌が一気に立つ。


「~~~~ひぃぃいぃっ」


 朱里は悲鳴を上げた。

 ガインは朱里が再び立って頭突いて来ないように、朱里の頭を左手で押さえた。


「慣れとかにとこの先困るぞ?」


 朱里は叫んだ。訳が分からない。


「なんで!?」


 ガインは堂々とした声で返事を返した。


「おれは!抱っこしたい!」

「膝に乗せてゆらゆらしたい!」

「頭撫でて可愛がりたい!」


 ガインは自分の欲に正直な男だった。

 出会った頃言っていた通り、ガインは弟妹が欲しかった。

 だが、ガインには弟妹がいない。その欲求は長い間ガインの中で蓄積されていた。


 そこで出会ったのが朱里だ。


 適度に小さく(比較対象:ガイン)、弱く(比較対象:ガイン)、素直で可愛い(比較対象:シーキュイ)。

 同族だとしても最初から馴れ馴れしい態度を取っていた自覚はあった。

 嫌がるならやめようとも思っていた。


 だが受け入れられてしまったので。ついでに他人に知られれば身の危険につながる可能性のあるギフトの内容を打ち明けてもらえるほど懐いてくれたので。


 ガインは朱里に妹がいたらやりたかったことを思う存分やりたいという思いが止まらなくなってしまった。

 やりたいことが次々と口から出る。


 そんな想いを話された朱里は、当然、呆れるほか無い。


「それ、兄妹と言うより親子じゃ……。それも子供がめっちゃ小さい時の」


 ガインの頭が朱里の肩口に埋まった。


「夢なんだよぉ!」


 耳元で大声を出された朱里は、耳を押さえることも叶わず、頭に痛みを覚える。ついでにガインに怒りも。


「知りませんよ!二十歳の女性にする事じゃないです!怒りますよ!」


 すでに怒っていたが、ガインの頭を押した左手は抵抗に合う事無く素直に動いた。次いで、朱里の胴体を捕らえていたガインの手もしぶしぶ離れたので、朱里は一つため息を吐いてから、ガインの膝から降りた。


 ガインは朱里の行動を阻まなかったが、耳が垂れていた。ついでに舌打ちも聞こえた。


 朱里はそんなガインを見てはいなかった。

 そんなことより、朱里はこの先待ち受けているらしい訓練の方が重要で、頭一杯だったのである。


 この男といる限り、しばらくは筋肉痛とお付き合いしなければならない。

 自分のためとはいえ、今回の件でそれが決定事項となった朱里の頭には暗雲が乗っていた。


 朱里はナン村で森の人の本能に目覚めた。

 その時の戦いが楽しかったのは認める。

 だが痛いのが嫌なのも魔物が怖いのも、これまた真理なのだ。


 気を取り直して、朱里は魔法鞄からクコの実を取り出した。

 ガインにも渡した。


「とりあえず、朝ご飯にしましょう」

「おう。ありがとよ」

「本当なら何か作りたいんですけどねー。温かい汁物とか」

「無理だろ。すぐ食べれる物があっただけ、良い状況だぞ」

「ですよねー」


 シラサイトがいつ襲ってくるか分からない中、料理をする気は流石になかった。

 ナン村から追っ手が来ないとも限らないし。

 笑って二人はクコの実にかぶりついた。


 手早く食事を済ませようと食べることに集中している二人だが、目はどうしても頻繁にシラサイトに向く。

 そもそも真正面にいるのだから顔を上げれば目に入る。


「で?あれどうする?」


 手や口の周りをべたべたにしながらクコの実を食べるガインを見かねて朱里は鞄からタオルを取り出した。


 魔法で濡らして絞るとそこそこ水が出た。

 まだまだ効率的に使えてないなと、要練習を心に決めた。


「シラサイトの肉はまだありますよ?」


 手首に垂れる汁を舐めとるガインに濡れタオルを渡す。


「違う。そうじゃない。否、タオルはありがたいけども」


 言われて、手を引っ込めようか迷った朱里から、タオルを受け取ったガインは、渋い顔をした。


「お前はどうしてそう、食えるか食えないかで魔物を判断するんだ。

 そうじゃなくてだな。あれ。

 あいつらがいる限り、川が渡れないってことだ」

「つまりは狩るか待つかですよね?

 ……そろそろ日も高くなりましたし、居なくなったことがばれるんじゃないですか?

 退かないなら狩りましょう」


 朱里の言葉にガインが頭を抱えた。


「朝っぱらから来たりはせんだろうが、そもそも、夜に村を出ただけのハンターに追っ手をかける名目もないんだから、追っ手が来る可能性も低いんだが、騒動起こしたらここにいますと喧伝する事になる。

 出来れば、橋を渡るまで争いは避けたい」


 朱里は首を傾げた。

 自分の耳がピコピコ動いているのが目の端に写った。


「橋のこっちとあっちで何か変わるんですか?」


 ガインも首を傾げた。

 耳も垂れている。

 が、すぐに何かに気づいたように耳がピンとたった。


「そういや。お前は森の常識に疎いんだったな。

 それにこれは俺らの森だけの事だったか。

 あの森には仕掛けがある。

 森の人以外の人は入れない。外からは姿も見えなくなる仕掛けだ」

「魔法ですか?」

「俺も詳しくは知らん。

 余所の森にはないようだし、古い仕掛けだと長老たちが言っていた。

 俺達の祖先が昔、あの森に入る時、地権で争った話はしたろう?その頃に作られたらしいと聞いている。

 装置があって、長老達しか知らない場所に隠してあるそうだ」

「装置ってことは、魔法ではないんですかね?」

「つか、もし魔法なら何魔法だよ?混合魔法とか聞いたことなねぇし」


 これに朱里は意外な顔をした。


「え?混合魔法ってないんですか?」


 ガインは頷く。


「前にテイジョウに聞いた。

 同時に魔法を発することは出来るが混ぜることは出来ない、と」


 朱里は顔をしかめた。


「何がどう違うんですか?その、同時に発生させるのと混ぜて発生させるの。

 結果は同じ様な気が……」


 ガインの耳が垂れた。


「知らん。

 俺も聞いたが、違う結果になるってことしか分からんかった。

 専門用語が多すぎて理解不能だった」


 ガインの金の猫目が瞬き、森に視線が向ける。


「まあ、その時に森の魔法についても聞いてみたが、同時に発生させるのじゃあ、あの仕掛けは無理だし、混ぜれば出来なくはないがそもそも混ざらないし。

 だからあれは魔法では無理で、なら魔法以外専門外のテイジョウにも仕掛けは解らない。だ、そうだ」


 朱里もガインの目線を追って森を見た。

 ガインは森の中が魔物だらけだったと言ったが、今は魔物の陰も形も見えない。

 ガインの言が正しいなら大量の魔物達はどこに行ったのだろうか。


「その仕掛け、魔物にも適用されるのですか?」


 ガインは首を振った。


「魔物は適用外だな。

 言ったろう?森の人以外の『人が』入れない、と」


 もう一度森を見る。

 やはり、朱里の目には魔物らしきものは手前のシラサイトしか見えなかった。


「魔物、シラサイト以外居ないんですが」


 ガインが頷いた。


「俺が見たのは森に入っていく集団だったからな。奥に入ったんだろう。

 また村が襲撃されてないと良いが」


 朱里は耳をぴくぴく動かした。

 聞き捨てなら無いことを聞いた気がしたのだ。

 これは確かめねばならない。

 場合によっては道を分かつ事も考えて。


「普段からそんな魔物の襲撃を受けるような村なんですか?」


 戦いの楽しさは知った。

 とはいえ、朱里はまだ修行不足で筋肉不足である。

 痛みを忌避する心や恐怖心だってある。

 そんな四六時中戦わなきゃいけない村は遠慮したい。


「そんなわけあるか。

 そもそも魔物は早々会うものじゃない。探してようやく会うものだ。

 じゃなきゃ、何の武力も持ってない草の奴が暢気に、森の一部、入り口の仕掛けの外だけとは言え、森の中を観光なんか出来るかよ。

 何か知らんが、今が異常なんだ」


 朱里はほっとした。

 だが何も解決していない。

 そう結局のところ。


「シラサイトどうしましょう?」


 子供達は暢気に川を飛び跳ねて遊んでいる。

 親はそれを目に入れつつ、不審者を警戒している。

 この場合、不審者はもちろん、朱里達だ。


 青く澄んだ眼光が、じっと朱里達を見ていた。


「子供が居るってことは、仲間が近くにいるかもな。

 面倒だが、湖の方に戻れば観光者用の渡し船がある。そっちに行くか」


 ガインが立ち上がった。

 朱里も立ち上がる。


「そっちには魔物、居ないと良いですね」


 ガインから返されたタオルを受け取って、朱里は言った。


「俺はそろそろおまえが呼んでじゃねーかと思えてきたぞ」


 身長差のせいで、ガインの顔は見えなかった。だが、


「嫌な感想ですね。それが本当なら、……私は人に、追われることになるんですかね。魔を呼ぶ者として」


 ガインの顔を仰ぎ見る前に、じっと自分の足を見る。


 前の世界ではあり得ないぐらい、日々歩き続けた。

 足に草履紐による赤い擦れが出来ている。

 草履自体も、毛羽立ちが目立ってきている。ついでに土に汚れまくっていた。


 まだ、この世界に来て五日程しか経っていないのになぁと、朱里はこちらに来てからの慌ただしい日々を振り返り、確かに多いのだろう魔物との遭遇を数えた。

 ほぼ毎日だった。多い。


 追われるのは嫌だった。

 その想いが、そのまま顔に出た。

 俯いた顔が上げられず。

 足も動かなかった。


 しかし、立ち止まった朱里の頭に手が降ってきた。


 ぽんっと乗せられた手は当然ガインのものだ。

 普段と違い、軽く、髪を梳くように手が動く。


「心配するな。それぐらいじゃ、森の人間はおまえを見捨てない」


 朱里は顔を上げた。今度はガインの顔が見えるまで。


 金の猫目が柔らかく溶けている。

 口角が両方上がり、けれど普段の笑った顔とは異なり口は閉じたまま。

 赤い髪の隙間から飛び出た耳はこちらの反応を伺うように上下に跳ねている。

 ガインの顔は、微笑みというものだった。

 きっと朱里を安心させようと故意に浮かべたもの。


「寧ろ、俺は歓んで受け入れるぞ?

 お前がいれば魔物と戦い放題ってことじゃねぇか!」


 ガイン気遣い方に朱里は驚いた。

 不安に包まれていた思考が晴れた。

 ガインは朱里の表情でその事を察したのだろう。

 朱里の額をべしりと叩くと普段と同じように大口を開けて、今し方した顔など無かったかの様にいつもの様に闊達に笑った。


「んじゃ、行くか!」


 朱里が何か言う前に、ガインは背を向けた。

 だが、ガインの褐色の左手は、朱里の黄色い右手をしっかり掴んでいて。

 朱里は、引っ張られた勢いで踏鞴を踏みつつ、顔が笑むのを止められなかった。


「そういえば、前に観光用は観光ルートしか行けないとか、この森の人間だと証明するのが面倒とか言ってませんでしたっけ?」


 そう、それはアルス村で、ガインによる小手調べという名の恐怖体験をする前の話である。


「言った。だが今は緊急事態って奴だ。面倒だが手がない訳でもないしな」


 ガインはさっさと足を早める。

 朱里もそれに併せて小走りについて行った。


 二人の背後には、動き出した二人に警戒を強めたシラサイトの目が、番の片割れか、もう一匹分増えていた。


 ガイン曰く、シラサイトは陸上でも多少は動けるそうだ。

 戦わないのなら、早急に警戒範囲外に出るのがお互いのためだろう。

 二人は早々立ち去った。

20.4.30 前話分割後追加

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