船の旅
前回のあらすじ
気絶して起きたら船に乗ったガインの膝の上でした。
舟に乗った人の間から見える川は、深さがあるためか深緑に染まっていた。
程良い青空から降り注ぐ光は、朱里の体を温め、川の流れと共に移動する舟の揺れは、揺りかごのように眠気を誘う。
「寝るなよ。
一応、お前の荷物と思しき物は持ってきたが、早々に確認してくれ。間違いがあったら舟着き場で人をやるから」
ガインも眠いのか、欠伸を噛み殺して朱里の膝の上に朱里の荷物を置いた。
荷物は洗面器だった。
朱里の荷物は魔法鞄だ。
だが、今朝は宿に置いてきていた。
他にも、ベッドに脱ぎっぱなしにしていた寝間着やベット脇の床に置いていたルームシューズ用の草履、顔を洗うための水の入った洗面器等。
後で鞄に入れようと思って出しっぱなしだった。
置いてきたものはみんな、渡された洗面器の中に水の代わりに入れられているようだ。
朱里は受け取った洗面器の一番上に置かれた魔法鞄を取ると、残りをそのまま鞄に突っ込んだ。
パネルを呼び出して忘れ物がないかチェックする。
「……忘れ物はないようです。お手数をおかけしました」
頭は下げたが、ガインの方に向けて下げるのは無理だったので斜め前方に下げることになってしまった。
全く知らない草の人の背中に頭を下げることになったので、変な感じになってしまったが、背中からガインに抱えられている身では仕方なしと自身を納得させた。
「所で、何故私はあなたの膝の上で、幼子のように抱えられているのでしょうか?」
シートベルトよろしく腹に回った腕は朱里の腕を置くのに丁度良いが、体格差をつくづくと知らせてもくれる。
それは、安心よりも妙な悔しさを朱里にもたらした。
他にも、どんな感情由来のものか分からないが、妙にぞわぞわする。
背後に他人の気配があるからとも考えられたが、それよりは、ホラー映画を見た後、風呂に入って頭を洗う時に感じる背後の恐怖感に似ている気がして、ガインに恐怖を感じる心当たりがない朱里は首を傾げた。
「ああ、この舟、人が多いだろう?」
「はい」
朱里は頷いた。
何せこの舟、朱里はガインに抱えられているので問題ないが、普通に座ればどうしても隣の人と肩が当たる。必然、横揺れでもすれば、隣人に身を預けることになる。
「お前、意識戻んなくてなー。意識無い奴を寝かせるだけの置き場もなくてな?」
「はぁ」
「意識戻るの待つ時間も舟の本数もそうなくてな?」
「……」
「一番いい方法を選んだつもりです」
「さようですか」
ガインは朱里の頭に顎を乗せた。
猫の子にやるように鼻を髪に埋める。
ぞわぞわが強くなった。
はっきりわかる。怖気だった。
怖気。それ自体は感じてもおかしくないだろう。
朱里とガインは親しいわけではない。ただの同族だ。
それだけでガインからの距離は近くなっているのだが、朱里はそうではない。
前の世界の意識の強い朱里にとって、この状況は、会って二日目の親しくないが、師事することになった男に後ろから抱っこされ、後頭部に鼻を埋められている状態だ。
森の人ならば何ともない、むしろ親愛を感じる場面なのかもしれないが、だからこそガインも躊躇い無くやっているのだろうと朱里も思うのだが、器・森の人、中身・草の人的な朱里では嫌悪感が先立っても仕方ないとも思える。
だが、朱里が感じたのはそんな対人関係における生やさしい怖気ではなかった。
例えるならば、ゴキリウスを前にしたときのような。自分では絶対に勝てないであろう魔物に、後ろから首根っこを捕まれたような。
最初に感じていた風呂場の恐怖なんて目じゃない、まるで死を意識するような明らかなる恐怖による怖気。
異常だ。
そこまで自分の心理を探って朱里は訳が分からなかった。
はて、自分はこの人に何をされたのだったか。
そう思い、自分の記憶を振り返れば、思い出せない箇所がある。
何だろうと更に思い出そうと、覚えている所からつまりは今朝、ガインに起こされた所から順に糸をたぐり寄せていけば、
ぞわり
全身の鳥肌がたった。
この突然の朱里の変化にはガインも気づいた。
「おい?どうした」
朱里の顔からは血の気が引いていた。
目に見えて震えてもいる。
ただ事ではないのは一目瞭然だった。
「おい!?」
ガインは朱里の肩を掴み、顔を覗き込む。
周囲も何だ何だと目線を寄せた。
朱里はもちろんそれどころではなかった。
後ろにいるガインが口を開く、つまり頭上から声が頭に響く度、首筋がぞわぞわと鳥肌が立った。
胃がきゅっとなり、つま先から頭のてっぺんまで微弱な電気のような、それも決して心地良くない痺れが走り抜ける。
更には胸が押さえつけられたように苦しいのに、腹の中にはぐるぐると動く固まりがあって、それが時折上にせり上がってきた。
その感覚には覚えがあった。
朱里は恐慌状態に陥り掛けていた。
この場から逃げたくて仕方がないのに、体が震えて腰に力が入らず、立つことが出来ない。
だが、突き上げてくる腹の中の固まりは容赦なく、朱里に行動を訴える。
「なあ、おい。大丈夫か?」
ガインが心配そうに朱里の腹を押すように撫でた。
それが引き金だった。
体が硬直し、胃が一段と絞られる感覚と共に、腹をぐるぐると回っていた固まりが上に突き上げてきた。喉奥が下から無理矢理開かれる。
堪えきれず、反射で吐いた。
幸いだったのは、理性がわずかに働き、この場で吐くことを良しとしなかったこと。腹に回っていたガインの手を外し、舟縁に手を置き、川に頭を出していたことだ。
更に幸運だったのは、ガインが舟の一番外側に座っていたことだろう。
おかげで、朱里は他の乗客に邪魔されることなく、舟縁に身を乗り出せたし、間に合った。
舟の中で吐くという、最悪、見も知らずの他人に吐瀉物を掛けてしまう最悪の事態は避けることが出来た。
朱里は吐き戻しの苦しさに呻きながら、ほっとした。
ようやくこみ上げてくる物がなくなり、口の中の苦みを感じるようになった頃、朱里は背中に暖かさに気づいた。
それはガインの手だった。
ガインの、と認識した瞬間、体が硬直する。ぐるり、と腹の奥が鳴った。
しかし、朱里はそれを長々と体から空気を押し出し、その反動で空気を取り込み、体に酸素を巡らすことで解いた。
朱里はガインに恐怖を抱いている。間違いない。疑わなかった。疑えなかった。
多分、気絶の原因によるものなのだろう、と無理矢理落ち着けた思考を巡らし納得させる。
納得したことで、また少し、力を抜くことが出来た。
川の水に一端沈んだ吐瀉物は再び浮いて流れて散っていく。
どうにか体裁を取り繕えるようになった所で、口を拭いた朱里はようやく顔を上げた。
「あぁ、しんどかった」
「舟に酔ったか」
「かもしれません」
舟酔いだと納得してくれたガインに朱里は笑顔を向けた。
振り返り見上げたガインの顔は明らかに心配を現していて。
だが朱里は、感じる恐怖と圧迫感を気づかれないように飲み込んだ。
実際に飲んだのは唾液で、胃液混じりのそれは苦かった。
口内の苦みに僅かに顔をしかめた朱里は再び舟から身を乗り出す。
手を伸べて、吐瀉に汚れていない水を掬い、口を濯ごうと水面に顔を近づけた。と。
ざっぱーん
川が盛り上がり、眼前に突然水の壁を見た朱里は、傾いた舟からバランスを崩し、舟の揺り戻しで転げるように舟から落ち、水の山に飲まれた。
同時に舟は水の山から流され、あわや横転の危機に陥る。
重力のまま朱里がいた方とは反対側に倒れそうになったガインは朱里が舟から川に飲まれるのを見送ってしまった。
「朱里!」
慌てて先ほどまで朱里が掴んでいた舟縁に手を突き反対の手を朱里に伸ばしても朱里は捕まえられなかった。
舟が山から流されたせいだ。
山はすぐに平らにな川に戻った。
だが、舟の下の水は他の場所よりも色が濃く何かの影を映していたし、平らになった川は何度か荒い波を起こした後、再び盛り上がった。
いる。
盛り上がった水の中には何か大きな生き物の陰が浮かんでいた。
ガインは腰に下げていた短剣を抜き、傾く足場も物ともせず、陰に投げた。
短剣は山に刺さることなく、水流に飲まれて沈んだ。
「げほっ、足、つか、な…うぇ!」
代わりに浮いたのは朱里だった。
しかし、明らかに溺れている。
ガインは舌打ち一つ、川に飛び込んだ。
舟頭はそれを止めなかった。
いや、彼は人々が乗る舟が横転しないよう操るのに必死だ。客を見る余裕がない。
舟上の人々も激しい波に揺られ、傾き始めた舟の上で中央に身を寄せ、川に飲まれないように必死に舟底にしがみついて、降りかかる水の猛威から己を守っている。
周りを見る暇など皆、持ってはいなかった。
水に潜ったガインは森の人たる強靱な足から繰り出される一蹴りで朱里そばまで泳ぎ切った。
捕まえた朱里の胴体に腕を回す。
朱里はそれが誰か認識していなかったが、溺れる人の常として必死にしがみついた。
通常、溺れる人を助ける場合、直接行ってはいけないとされている。
その理由がこれだ。
溺れる者は藁をも掴むではないが、とかく必死にしがみついてくる。そうすると、しがみつかれた者は泳げなくなる。
最悪、共倒れとなるのだ。
故に、溺れる人を見つけたら、岸や舟から綱のついた浮き輪やペットボトル、救命胴衣、その他何か浮く物を投げ入れる。直接行くのは、訓練を受けた、助け方を知っている者だけが望ましいとされている。
ガインはそんな講習受けていないし知らないし、そもそもこの世界にそんな訓練も教育もない。
いや、草の人の軍辺りにはあるかもしれないが、ガインの知るところではない。
結果として、ガインは朱里に全力でしがみつかれてしまった。
それも真正面から。
だが、ガインは共倒れたり、ましてや溺れたりしなかった。
確かに、泳ぎづらかった。
だが、二人には身長差が大分あり、しがみつかれたとはいえ、ガインの手足は自由だった。
泳ぐことが出来た。
その上、朱里の全力は、ガインにとっては軽い抱擁程度の力でしかなかった。
男女差と鍛え方の差がここで幸を奏した。
しがみつく朱里を片腕で支え、もう片方で水を掻く。
ガインは引き返して舟に向かおうとしたのだが、そう簡単に事は運ばなかった。
水の中にいる何かが近づいてきていた。
川の流れは依然波が高く、荒い。
足下の異常に二人共気づかなかった。
気づいたときには川の水は再び盛り上がり始めており、二人は水ごと空に押し上げられた。
「捕まってろ!」
水と共に空中に投げ出されて浮遊感に囚われた朱里の体は、ガインから離れかけた。
それをがっしと掴んで水面に叩きつけられる衝撃から守ってくれたのはガインの腕だった。
そこから再び水の中に沈み、浮かんだと思えば、目の前には舟の縁があった。
ガインが水流に逆らい泳ぎ切った結果である。
森の人の脚力、強い。
朱里に舟縁を掴ませるとガインは再び潜った。
川底から生えている岩の側面を蹴り付けて急浮上する。
水圧に負けず飛び上がったガインは、空中に躍り出た所で下に水色の蛇に鹿の角がはえた生き物が鎌首をもたげているのを見た。
見たことのない魔物である。
その姿は、水の幕がなくなった今、朱里達舟の客の目にも当然さらされていた。
「シラサイト!」
見たことのない魔物の姿にざわめく客達を余所に朱里は叫んだ。
朱里には分かったのだ。
その蛇もどきが何であるか。
客達が分からなかった魔物の名を朱里は知っていた。
それが意味するところはもちろん。
興奮に朱里の目は煌めいた。
一方、ガインは、朱里の声に構わず自重を乗せてシラサイトの眉間に蹴りを食らわせていた。と同時に眉間を蹴りつけ再び跳躍し、蛇もどきから離れる。
バシャンと水が跳ねシラサイトとガイン、双方が水に沈む。
ガインはすぐ浮き上がってきたが、シラサイトはその場で倒れたっきり。
流れ続けていた舟は、シラサイトから離れていく。
ガインはその筋力を持ってすぐ舟に追いついた。
「おわあぁ!……っ!あれ!シラサイト!」
舟縁に寄ってきたガインと掴まったままの朱里に舟の上の人々が引き上げに手を貸そうと手をさしのべる。
その幾多の手よりも真っ先にガインに飛びついた朱里の手は、
「肉は高級食材!角は削って飲むと心臓の弱い人の病に効く高級薬です!
捕って!舟止めて!
すっごくおいしいんです!!!腐らせるなんてもったいありません!
捕りに、連れてってください!」
力強くガインの襟元を掴み引き寄せた朱里の声はよく響いた。
舟上が別のざわめきに包まれる。
ガインが完全に呆れた顔を朱里に向けた。
この女は自分が死にかけた危機に際して何を言っているのだろうと、思ったし、正気も疑った。
しかし。興奮に頬を染め、目をきらきらと輝かせる同族の、しかも女の頼みを、森の人であるガインは無碍に扱えなかった。
長く深いため息を一つ。うなだれて、
「捕まれ」
と肩を差し出した。
差し出された朱里は、ついさっきまで恐怖を感じていた人物の肩だというのに躊躇も気兼ねもましてや怯えさえも一切なしにガインの肩に飛びついた。
目はシラサイトに固定されている。
現金上等だ。
さて、とガインがシラサイトの方を見た。
泳ぎに行くつもりで体に力を込める。
だが、シラサイトは自分から来た。
「生きてた!蒲焼き!」
朱里にバシバシ肩を叩かれ、ガインは空いていた片方の手で頭を抱えた。
本当は両手で抱えたかったが生憎、空いてない方は舟の縁を掴んでいた。
放せば沈む。
仕方なしに片手で頭を抱えた。
だが、実際には頭より朱里に叩かれた肩が痛かった。
近づいてきたシラサイトに舟上は沸いた。
先ほどとは違う感情を以て。
舟の人々は大半は一般人だ。
当然だ。観光船なのだから。
しかし、今回はハンターも混じっていた。
これはゴキリウス討伐の影響だった。
討伐に様々な理由を以て参加しなかったハンターが、討伐に沸く陸路を避けて舟に乗っていたのだ。
彼らにも朱里の言葉が聞こえていた。当然、目の色が変わった。
ただし、シラサイトがこのまま沈んでいれば、それはガインが討伐したものであるから彼らは手を出さなかっただろう。
しかし、シラサイトは生きていた。
「ねえちゃん!早い物勝ちだぜ!」
一人のハンターが血気逸って舟から飛び出す。
ガインと同じやり方で水上に出た彼は、しかし、水の抵抗に争いきれず飛んだ高さはガインよりかなり低くかった。
それでもと振りかぶった大剣はシラサイトの皮に一筋の傷も付けることなく弾き飛ばされた。
「投げるもの!投げるもの!
あれば当てます!
殺れます!
あれは鱗が固いので唯一柔らかい逆鱗を刺さないと殺せないんです!
で、水吐きますよ。
その水かぶったら被れます!痒いです!
ちなみに媚薬の原料です」
最後の注釈にハンターが、特に男が活気づいた。
「地味に嫌な攻撃だな。おい」
眉間を寄せて嫌そうにガインは服に仕込んであったもう一本の短剣を朱里に渡した。
「一発で決めれるか?」
背中に背負っていた朱里を振り返る。
朱里はニッと右口角を上げた。
舟の上のハンター達は、朱里のしたつもりのない助言により逆鱗を狙い始めたが、シラサイトが暴れ、ハンター達が暴れ、川と舟が揺れるので当てられないでいる。
「支えてください」
朱里はまだ舟上に上がっていない。
川の中では足が着かない。
この川は深いのだ。
ガインだって足は着いていない。
だが、足が浮いているのでは体にうまく力が入らない。おまけに揺れがひどくて体が安定しないので狙えない。
狙えなければ必中のギフトがあっても当たらないのだ。
ガインは朱里を後ろから前に抱え直した。
水の中、片方の足に朱里の足を置かせて、足を踏ん張っても揺らがない体制を作った。その上で自身の体を舟に預け、朱里を抱えていない方の腕で体を固定し支えるという力業を難なくこなしたのだ。
ガインの協力の元、体が安定した朱里は水の揺れも計算に入れて目標の逆鱗に短剣の標準を合わせた。
正直、他のハンターの攻撃が邪魔だったが、こればかりはシラサイトの価値を叫んでしまった朱里の自業自得だ。仕方ない。
「いきます」
言って、朱里は一度目を閉じた。
息を深く吸う。
目を開け、息を吐き、舟の揺れとシラサイトの動きに合わせて、投げる。
短剣は過たず逆鱗を貫いた。
ガインから借りた短剣は鍔のないものだったので、柄まで深々とシラサイトを貫いた。
貫通とまではいかなかったが、唯一の弱点である首元の逆鱗を貫かれたシラサイトは二、三回大きく悶え暴れると一際大きく水しぶきをあげその体を川にすべて沈めた。
辺りは静けさを取り戻した。
20.4.29 改稿




