四.ずっと会いたかったんだ
互いに口をつぐんだまま、視線すらも交差しない。そんな状態がもう五分以上続いていた。どうしたら、正解なのだろう。心花にトンと背中を押されて、よろめくようにして一歩前に出る。振り返ると心花が、こくんと力強く頷く。お腹に力を入れた。
「レオくん」
重苦しい沈黙を破るように、おもむろに口を開いた。これはきっと、不正解で、正解。それでも、リコリスは、ロボットのように非情にはなりきれず、彼に役割以上のつながりを求めてしまう。
「レオくん。憶えてる? 約束」
相手が自分と同じだけの想いを返してくれるとは限らない。だけど、畏まっていたレグルスの相好がやわらかくくずれたとき、胸がふわあっとなって顔がほころんだ。
「嗚呼、忘れてないよ。リコ」
リコリスは、両の手を握りしめながら何度も頷く。レグルスがリコリスに駆け寄る。そんなリコリス達の再会を少し離れた位置で、心花はこっそり目元をぬぐいながらほほ笑む。
「五年ぶりだね。実際に合うのは十年ぶりくらいだね……」
「ああ、リコは、無事だったんだな。生きてたっ……本当によかったっ。後で、じいじたちに報告していいか」
ぺたぺたと体に触れられる。身を任せ、気が済むまで五体満足で目の前にいるのを確かめさせると、ぎゅうっと肩に顔をうずめられた。
「リ、リアファル隊長! が、女の人を抱きしめるなんて。前代未聞ですの。わたくしだってまだしてもらっていないのに……ん、ん」
マリアは貝のように閉ざしていた濃いルージュの引かれた唇から自分の欲望をぽろりと溢す。押し殺されたその声は、この場の一挙一動を脳に焼き付けんばかりに目と耳をフル活用していた心花だけが耳に入れていた。
「じいじたち身内だけに、だけならいい。怒るかな。ゴメンね」
ぎゅと、強い力で抱きすくめられる。あまり異性に触れられ慣れていない身体は、他者の体温におびえたようにこわばる。だけど、抱きしめているその鍛えられている二の腕がひくりひくりと小刻みに震えているのを感じて、硬直を緩めた。
「怒るに決まっている。心配したんだからな。でも、それ以上に喜ぶよ」
こうして、レグルスの胸に顔をうずめていると、体に雷が走ったかのようなびりびりとした刺激に冒されて、そのまま全身の力が抜けてしまいそうになる。鋭敏な聴覚が、心音、吐息、脈動―――命の音を拾う。
「生きてた。よかった。本当に」
顔をあげる。顔をくしゃくしゃにして温かい滴を、ぽたぽたと子供のように流す。いい歳こいた大人の男がこんな風に泣くなんてみっともないという言葉を寸前で飲み込む。
「リコ、ニライカナイの惨劇のニュースを見たとき、心臓が止まるかと思った。俺、約束したのに。リコを何であのとき一緒に火星に連れて行かなかったんだろうって凄く後悔した」
ここまで、追い込んだのはきっとリコリスだ。手紙を書いてしまったらもっと会いたくなる。電話をかけたら甘えたくなる。会いたいと望んだら、レグルスはあってくれただろう。助けてと救いを求めたら、持てる力を最大限に振るって助けようとしてくれただろう。だから、リコリスは
巻き込みたくなかった。
「あたしは、火星には行けなかったよ。レオくんだってわかっているでしょう。あたしは、ニライカナイがあんなにならなかったら、一生あの場所から出ることが許されないようなそんな類の人間だわ。……レオくん。その制服ってやっぱり」
会わない間に随分と眉間に皺が増えた気がする。情報本部長の息子という肩書も、リアファル家嫡男という身分も苦労が絶えないのだろう。カーペットのシミがやけに目について、それとなく靴底の下に隠す。
「うん。俺、騎士になった。もう、失うのが嫌だから……今では、中隊長」
ぼそぼそときまり悪そうに返ってきた答えに目を見開く。十年前のレグルスからは想像のつかない職種に、なんだか距離を感じてしんみりした気分になる。ふいに歯を食いしばるマリアを目にし、何かをしゃべらなければという衝動に駆られた。
「そっか。十年って長いね。あたしも十九になったしね。十年もあればいろいろあるよね。レオくんが騎士にね。レオくんは、後継いだの? てっきり、ばぁばやおばさんみたいに学者になるものだと思っていたわ」
「学者か。懐かしいな。そっちを学びにあの人に連れられて火星に行ったっていうのにな。まぁ、なんだ。ここ十年、いろいろあったからな。俺も考えさせられたんだ。後悔したくはないからな、持っている力を腐らせてないで有効活用したくなったんだ」
労うように、背伸びをして昔みたいに手触りの良い髪を撫でる。なんだかこうしていると、すごく落ち着いて自然に頬がにやける。その瞬間に射殺すような視線がリコリスに向けられて、ぞくりと背筋が泡立った。
「レオくんは、変わったね。いい意味で」
面倒な警邏の任務も、レグルスと一緒なら楽しくやれそうだ。ただ、レグルスとうまくやればやるほどマリアとの軋轢が広がりそうだと視線をさげる。残り少ない時間をこうして、使うのも悪くはないかもしれないとロケットに触れながら思ってしまう。
「その、レオくん。ごめん」
しゃりっとゆれるロケットを強く握りしめる。レグルスの目を見つめる。言わなければならないことがある。今朝の心花はもしかしたらこんな気持ちだったのかもしれないと思い俯く。
「なぜ。リコは謝らなくてはならないようなことをしたのか?」
言葉につまって押し黙る。楔石のような瞳にみつめられて、胸の中に土足で踏み入れられたかのようで、こごりが冷えてかたまる。
「ニライカナイを、守れなかったから……」
ニライカナイというワードに、一瞬だけレグルスが、後悔と怒りと悲しみを煮詰めた苦しそうな感情を浮かべた。頭部に大きくて武骨な手が延ばされる。きゅと、目をつむる。服の裾にしわが集まる。
「謝るところが違うだろ。リコが謝るのは、惨劇の後、生存報告の一つもよこさなかったことの方」
赤子をあやすように、丁寧に何度も髪の上を滑る手におそるおそる顔を上げる。
「どれだけ、周りが心配したと思っている。磁場嵐が、相変わらず頻繁に起きるが、通信の一つでもよこしてくれてもよかったと思う。でも、生きていてくれてよかった。死亡者名簿に、名前が無かったから、もしかしたらって、信じていたんだ」
リコリスは、手のひらを見つめ、その中に流れるオーストコピーの動きをフェネストラ越しに感じる。体内に流れるナノマシーンが、いつだって宿主を観察し記録している。生まれてから死ぬその時までの生きた記録を、今この時も刻み続けている。
「もう、我慢の限界ですの! 貴方は、まったくいつまで体調を独占しているんですか!」
ぷりぷりと怒ったマリアに、レグルスの腕から力づくで、引っぺがえされてよろめく。地味に爪を立ててくるとか、本当にいい性格をしていると睨みつける。その攻防にレグルスは小首をかしげて眺めている。マリアはほんの一瞬だけムッとした表情を作って見せたが、すぐ真顔になって続けた。
「今日は、随分とリアファル隊長は多弁ですね。普段もそれだけお話になってくださると助かるのですが」
『??』
「ねぇ、レオ。あんた、どれだけ普段話さないの。でも、昔も今もあたしとは普通に会話しているわよね」
こくりと頷いているところを見ると、単に面倒くさいか、人見知りかといった理由だろう。一連の流れを見ながら必死に笑いを噛み殺そうとしていた心花にこの数日間、どうだったのかと視線を送る。
「無口でクールなイケメンは、無口でツンデレなイケメンだったんですね。リコちゃんにデレデレです」
とろけんばかりの笑みを浮かべて「御馳走様です」と心花は親指を突き出す。
「あなた一体何者なんですの……いえ、まだ答えは言わないでくださいまし。船長の養子ですのよね? リアファル隊長と長年の既知で、十年前ぶりの再会? 十年前、隊長は……」
マリアはぶつぶつとつぶやきながら、リコリスを凝視する。
「スカーレットの髪と橙を混ぜた赤い瞳の色……。もしかして、あなたのお母様は、あの有名なアマリリス・紅月博士ですの?」
期待に輝く目力にたじろぎ、怯んでわずかに後ずさる。
「どうなのです!」
マリアは感極まった様子で、にじり寄り、リコリスの手を握りしめる。うつむいたままリコリスは視線を泳がせた。心花が、にやにやと楽し気にレグルスに絡んでいるせいで助けは期待できそうにない。
「あっているわ。アマリリス・紅月は、あたしの母親よ」
観念して、白状すると、マリアが快哉の笑みを広げた。リコリスの頬がひくりと痙攣する。
「まぁまぁ! 先ほどまでの比例はお詫びいたしますの。まさか、あのアマリリス博士の娘さんだったとは思ってもおりませんでしたので。あぁ、博士の設計したオーストコピーのおかげで、わたくしの妹は早期に病を発見できましたの。博士には感謝してもしきれませんわ」
申し訳なさと嬉しさを顔いっぱいににじませながら、マリアは滑らかな舌を回し続ける。母のことを褒められ、胸が不思議と温かくなった。
「母がそのことを知ったら喜ぶわ……今じゃ、母のことを口に上らせる人はあまりいないから」
「まぁ。本当に感謝していますのよ。今では、博士みたいになるんだって、妹は不治の病の治療法を熱心に研究しているんです」
リコリスは母親がつなげた一人の人間の命が、光のある方へ歩き出していることを知り柔らかく微笑む。
「そういえば、リコ。その……リコのお母さんは、ニライカナイの他のみんなはどうしてる?」
ぽかりと開いた胸の隙間に、冷風が突き抜けて淡い痛みが走る。心花は、衝動的にゆらりと前に伸ばした。今までの微笑とは少し違う、ものさびしそうな哀愁を含んだらしくない笑みを前に、心花は、持ち上げた足を静かに降ろす。
「かあさまは……、アマリリス・紅月は、五年前のニライカナイの惨劇で亡くなったわ……おそらく、あの有様では渡航していなかった他の方々も皆亡くなられているでしょうね。せめてお墓を立てて上げられれば良かったんだけどね」
こんな形で、家族の死をレグルスに伝えたくはなかった。ニライカナイのことを口にするたびに、あばら骨がきりきりと痛みの声を上げ、胃の中に冷たい何かが駆け下りる。指先が白くなるほど強く握りしめる。
「その、わたくし……申し訳ございません。少し考えれば想像がつくことでしたのに」
唇を噛んで首を横に振る。ぴちゃ、ぺちゃっ……血の滴る音と咀嚼音が耳の中で渦を巻く。
「リコ、教えてくれてありがとうな……なにが、遭ったか聞いていいか」
消せない過去の記憶の洪水に飲み込まれかけ、胃のなかがむかむかして、何かがせりあがりそうになり、慌てて口元を手で覆う。
「ちょっと、あなた顔が真っ青ですわ」
「リコ! 言いたくないなら言わなくていいから。ごめん。大丈夫?」
五年たった今でも、がれきや特殊な磁場の影響で、ニライカナイにはだれ一人近づけはしない。惨劇で何があったか全部わかっているくせにいつまでたっても、まともにあの時のことを語れない自分が情けなかった。
「あの日、ニライカナイは襲わ」
リコリスは、上唇と下唇の隙間から呼気交じりに言葉を紡ぎ出そうとして、前触れなくリコリスの身体が前のめりに傾いた。
―――<Brain Protect> :prohibited matter.
全身の毛が総立ちしてしまうような嫌悪感が駆け巡る。リコリスの目の前がほんの数秒間、真っ暗になった。
「え?」
「リコッ」
レグルスの悲鳴に近い声が、大理石の柱に吸い込まれる。
「リコちゃん!」
間の抜けた二人の騎士をよそに、心花は、飛び出した。前方に倒れていく、華奢な身体を受け止める。
「リコちゃん。リコちゃん、聞こえる」
リコリスは、のろのろと顔を待ちあげシャンデリアのまばゆい光に片目を細くする。すぐそばにあったピンクサファイアの瞳の不安を振り払うように、笑ってみせる。
「リコちゃん。こんな時まで無理して、誰かのために笑おうとしないでよっ」
「ごめん。心花」
「リコちゃんのバカ」
心花の陽だまりのような暖かな手に、抱き寄せられて不覚にも瞳が潤んだ。真紅の髪が視界を覆い隠す。今どんな顔をしているのか見られたくなかった。