三.再会
三百年前、人類は「暗黒の三日間」を最後に「青き星」から宇宙に旅立った。
極限にまで発達した人類文明の生活が、太陽と生命の大地「青き星」の恵みを越えた。そうして、宇宙移民計画の要、巨大バイオスフィア宇宙船「ノアの箱舟」の定員をめぐる奪い合いが勃発したのはある意味必然だったのかもしれない。人類は強力な兵器を手に取り、他者を蹴落とし、刻一刻とその数を減らした。次第にわかりやすい「敵」に矛先を向けていれば、いいなんて生易しい時代は終わりをむかえた。
ついに、暗黒の三日間を最後にかつての母星は人類に捨てられた。
たった七十二時間で、世界の総人口は千分の一まで激変したのだ。その数は、『ノアの箱舟』の定員よりはるかに下回るほどだった。生き残った者たちは、二度と人殺しの争いをしないことを母星に誓い星の海を渡った。
それから、三百年の月日が流れた宙歴三二七年。人類は自給自足が可能な七つの天体都市と星の海を渡る大小三百隻以上の宇宙船を中心に宇宙に散らばって生活している。
リコリスの暮らすこの宇宙船「竜宮城」全長三十㎦の自給自足が可能な大型宇宙船だ。娯楽施設や浴場、個室は当たり前、自給自足ができるように食糧生産機能や、発電等の設備や各種医療設備も整っていて補給無しに運航が可能な希少な船なのだ。
――――――宇宙船「竜宮城」常春の間。
「くっちゅん」
フェネストラに表示される時刻が、約束の時間一分前を知らせる。むずむずと鼻がして、リコリスはくしゃみを繰り返した。
「リコちゃん、風邪? 上弦先生に診てもらいにいく?」
「いや。いいよ。これくらいは、オーストコピーが何とかするだろうし。上弦って基本、忙しそうだしさ。それに妙に心配性だから、大げさに入院とか解剖とかさせられそうで……ちょっと」
心花は、リコリスの苦手な注射針を構えながら、楽しそうに腕をだせと催促してくる姿を思い浮かべ、鈴が鳴るように笑った。
「あはは。あの人、悪気はないんだよ。診察を逃げまくる、リコちゃんが悪いね。うーん。そろそろ来てもいい頃だよね」
ふと人のざわめきが強くなり、ようやく来たかと艶感のあるアンティークチェアから腰を上げる。
青龍の扉の向こうからその騎士の姿が、露わになった時、反射的に身を正しながらも、半ば呆然と相手を見つめていた。常人より整った容貌に雪のような白髪に、星連合火星騎士団の黒を基調とした軍服のコントラストは、たいそう人目を吸い寄せた。リコリスもまた、幻想的なその男性騎士の姿に瞳を揺らす一人だった。
「嘘でしょう」
フェネストラ上を滑る目線がある一点でくぎ付けになる。皮膚が泡立ち全身に鳥肌が立つ。こんなことってあるのだろうか。≪個別識別番号≫、AM9098N31。忘れもしない彼の番号。頭の中にふわふわとした酩酊感が襲う。レグルス・獅子・リアファル。遅れて心臓の鼓動が増してくる。ふらふらと足を前に出す。
「リコちゃん?」
心花の困惑した声がどこか遠くに聞こえる。理知的でいて、どこか人を陶酔させるような青年の銀色の瞳が、吸い寄せられるようにしてリコリスの視線と混じり合う。リコリスは唇をわなわなと震わせて彼の名前を紡ぐ。
「レオくん」
衝動のままに軍服を纏うレグルスの胸に向かって飛び込む。四方八方から、ぎょっとした視線が向けられている。他の人の視線が気にならないくらいリコリスの目には、この十年間一度も約束を忘れたことのない愛おしい幼馴染の姿しか映していなかった。肋骨から背骨のほうへと抱き着いた指先を進めていく。洗剤の匂いに混じり感じる確かな彼の体臭に、顔をうずめる。
「連絡できなくてごめんね。会いたかった。会えてよかったぁ」
生きていた。安堵して目じりに涙がたまる。うれしくても、人は泣けるなんて、嘘だと思っていたのに本当なんだ。自然に頬がにやける。職務中だと、言い聞かせるものの決壊した両眼から涙があふれてくるのを止めることができそうにない。
「あらまぁ、うちのエースは新天地でも人気者ですの? 抜けがけは禁止ですの」
レグルスとゼロ距離だった身体が後ろからいきなり強い力で引きはがされる。さらりと絹糸のような髪が、彼の美しい顔を隠していて、表情が見えない。次に顔を上げた時には、感情を押し殺した凍った目が注がれていた。
「え」
わけがわからなくて、ひどく瞳を揺れる。レグルスの視線に、リコリスは胸の痛みを耐えるような仕草をし、息苦しさをごまかすようにくしゃくしゃな笑顔を浮かべた。
―――約束したのに。忘れたの? わからないの?
レグルスに向けられる瞳に、そう一心に問いかけを宿す。感情が表に出やすいリコリスの考えていることなんてレグルスには手に取るようにわかるはずだ。レグルスの隣に知らない女がレグルスと同じ服を着て並ぶ。なんだかひどく醜い感情が春色の心を壊していく。
「初めまして、宇宙船『竜宮城』の姫様と魔女さん。わたくしは、火星騎士団所属のレグルス・リアファル中隊長の部下マリア・ハワードと申しますの。ふふふ……魔女さん。魔女と呼ばれるだけあって、殿方をたぶらかすのが本当に早いですね。ですが、あなたの毒牙も、リアファル隊長には通じませんことよ」
マリアと名乗った女の勝気なエメラルドの瞳には、燃えるような強い牽制と自信が色濃くある。リアファルの部分だけわざと強い語気で語るところからもうかがえた。心花は、胸元を抑えるリコリスに心配気な視線を投げかける。
「……ハワード副長。事前に顔合わせをしておりますが、改めまして。宇宙船『竜宮城』船長の娘、心花・飛と申します」
「よろしくお願い致しますわ。あなたの父君の武勇伝は火星でも有名ですわ。ああ、母君の紫薇様も、あの鬼才アマリリス博士と双璧と称されるほど、有能な技術官ですのよね。心花様は本当に優秀なご両親に恵まれましたのね」
体の線が出やすい火星の騎士服のスカートの下で艶めかしい脚を挑発的に組み替える。周囲の男性たちの熱い視線が豊満なボディを持つマリアに注がれる。
「ええ。まぁ」
心花は、耳にタコができるほど聞いても、両親を褒められると嬉しくなる。でも、マリアがリコリスを見る時に浮かべる嫌悪の色に眉を寄せる。心花は、普段の温厚さが鳴りを潜め、父親譲りの顔を盛大にしかめた。リコリスは心花の手にそっと触れながら、静かに首を振る。
「はじめまして。本日から数日間、宇宙船竜宮城の警邏の任を任されておりますレグルス・リアファルと申します。所属は火星騎士団です」
レグルスは、定型文のような名乗りを交わすと、優美な所作でリコリスの前で膝をつく。目の前でさも当然と言わんばかりに、今ではほとんど儀礼の場でしか使わぬ最上位の礼をとる上司の姿にマリアが目を見開く。
「ハワード副長」
マリアは今まで見た中で一番険しいレグルスの視線に気押され、取り繕った所作で膝を折り曲げ、頭を垂らす。リコリスは、竜宮城に来てから久しくこのように畏まられる機会がなかったため、ビクンと一瞬肩をこわばらせる。
「神子様、お久しぶりです」
レグルスの蠱惑的な唇から、あまりにも聞き覚えのある呼び名が吐息のように零れる。周囲からの刺さる様な好奇の視線を、心花がはっとしたように二人を見比べる。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。神子様の無事を心からお喜び申し上げます」
衝撃的すぎて、作り笑いすら間に合わない珍しいリコリスの表情を目に留め、心花は唇の端をほころばす。リコリスはぽっかり開いたカーネリアンの瞳に徐々に驚愕をはじめとして複雑な色が滲ませる。数呼吸の後、リコリスは苦い口調で自己開示した。
「顔をあげて。ここでのあたしは、宇宙船『竜宮城』の船長の養子で、ただの所属特務技術士です。リコリス・ラディアータ・飛。それが今のあたしの名前」
間違っても、神子と呼んでさっきのように敬うなとくぎを刺す。どこかで、古い扉が風できしんだ音を立てている気がした。困惑しながら顔をあげたレグルスは、真っ直ぐな眼光に射すくめられた。
「はい。リコリスさま、よろしくお願い致します」