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三.アポイタカラ病

 鐘の音が、響き渡る。シンデレラに欠けられた魔法が、聖なる鐘の音が払うように幻想がかき消されていく。みんなどこかで、人を食らう化け物を幻影だと思っていたかった。仮想が消え、簡素な服にもどされると、お祭り気分だった浮ついたものが消えて行く。その代りに抱えきれないほどの死の恐怖に打ちのめされた。


「リコ?」

「リコリスさん?」


 夢が覚めるように、玉ねぎのように何重もの皮に包まれていた嘘がはぎ取られていく。リコリスは、長い髪をふわりと宙に舞わせて、もう終わりだとしゃがみ込んだ。


「いや、いやよ。お願いだから見ないでっ。かわいくないあたしを見ないで」


 リコリスの黒いフリルの服は、簡素なバトルドレスに代り果て、雪のような白かった肌には、びっしりと赤い石が覆い尽くしていた。髪と手で必死に覆い隠そうとしても隠し切れない緋色に、嫌でも視線が吸い寄せられる。


「だれも、来ないで。誰もリコちゃんに近づかないで」


 心花は、脈動し、ぼこりぼこりと蠢めく緋石に覆われたリコリスを、拾ってきてしまった子猫を守るように強く抱きしめる。


「アポイタカラ」


 マリアは、リコリスの肌のありさまから見て一つの不治の病の名前を思い出し、天を仰ぐ。不治の病とは名ばかりで、患者から作り出される希少な鉱石を得たいがために、患者を増やす研究すらされている魔性の病。


「しかも、末期ではありませんの……これじゃあ、もうリコリスさん。あなたはっ」


マリアの妹は、多大な苦痛を伴うその病の治療法が確立されていなかったことに目をつけ、数年前から研究していた。その根本には、アマリリス博士にすくわれた命というところが多いのだとマリアは知っていた。だが、火星の上層部は妹の研究を良しとせず、医学学会から追放処分した。


マリアの呟いたその病名にピクリと耳ざとい数人が反応し、目に危険な光を灯す。


「アポイタカラ病患者の血が、ヒヒイロガネというのは本当かい!?」


 蹲って動けなくなったリコリスはすぐに腹の出た中年の男性に両肩を掴まれた。目の前の黒い肋骨服を着た男が記憶と重なった。幽鬼を見たような目をして後退る。


「セドリック・カシュ常駐理事! リコちゃんにブレインプロテクトをかけた挙句に、ニライカナイの真相を握りつぶした人たちがいまさら何の用ですか」


 心花は目の前の人間を睨みつける。ニライカナイの惨劇について詳しくは知らないけれど、惨劇の後の事なら大抵のことは知っている。だからこそ、心花は絶対にこの人を許すことができなかった。目に焼き付いた悲惨な死体の山とリコリスの過去を思い出し烈火のごとく怒った。


「おや、君は、竜宮城の次期後継者殿じゃないか。今は君に用はないんだ。どいてくれ。そっちのアポイタカラの子に用があるんだ」

「あなたはっ、リコちゃんにまたひどいことをしようとしているんですかっ」


 大声でかき消すように怒鳴ったせいで、余計にこちらへ視線が集まった。呆然としていたリコリスは、身体に巻きついてきた温もりに、はっとした。泣きそうになりながらも毅然として叫ぶ心花の腕を、セドリック常駐理事は、片手で掴んでリコリスから引き離した。


「おや、あの時の神子じゃないか。あははは、何たる偶然かねぇ……ふははは、ふははは。私はとても運がいい」


 異様な眼の光にたじろぐ。セドリック常駐理事は舌なめずりして周囲を見渡し、声を張り上げる。リコリスは、大きな手で両腕を掴み引き起こされた。あまりの力と速さに息が詰まった。


「あっ」

「リコちゃんに触れるな」

「皆の者、聞け。こいつの血を持っていると鬼に襲われないぞ。鬼を殺せるぞ」


 そういってセドリック常駐理事は、醜く顔を引きつらせて、リコリスの腕から生えていたヒヒイロカネを皮膚から強引にむしり取る。毛が引き抜かれる痛みを何倍にも増した激しい痛みが流れ、リコリスの身体は体をのけぞらせる。


「おい、あんたやりすぎじゃないか」

「やめてください。理事ともあろう方が、何を考えているんです」

「こいつは、あのニライカナイの惨劇のだ! あの化け物どもはこの女が連れ込んだ。厄災さぁ」


 そう言ってリコリスの腕を掴み、言葉通りその身体を引きずるようにして、人々の群れの中に突き飛ばした。それから先は、正直なところ何が起こっているのか、わかりたくなかった。熱い、体が熱い。しまりなくにやにやした男、怒鳴り散らす女……綺麗な服、きれいな指先が、リコリスを傷つけるためだけに伸ばされる。


「神の石だ。やった。これは助かる」

「ちょっと、採ったのならどけ」

「通してくれ。ヒヒイロカネを家内の分も欲しいのだ」


 人間とはかくも愚かだ。手が伸ばされた。五本の指がリコリスに向かって伸ばされて、ひさしのように光を遮る。目の前が闇に呑まれた。


「やめて、たすけて、やめて、ちがうの」


 いくら叫んでも誰にも届かない。聞く気がないのだ。理由が悪ではないなら、やることも悪にはならない、皆がやっているから罪にはならないと。リコリスは叫び続けた。気持ちを吐露するだけでは誰も動かない。相手の興奮を助長するだけだとわかっているのに止められない。こうして死ぬのだろうか。もう何も見たくないし、何も聞きたくない。


「やめてっ……離してっ」


「リコちゃん、リコちゃんに何をするの」


 これだけ騒がしいのに、心花の絶叫に近い声だけがやけにはっきりと聞こえる。 心花の綺麗な眼に、人間の醜悪な部分を映させたくなかった。将来、人の上に立つ心花がいつか知らなければならないことだとわかっていても、あの綺麗な心と陽だまりの笑顔をただ守りたかった。


「ごめんね。あたしも、ボスのこととやかく言えないわ」


 リコリスもどうやらそうとうに、心花が好きらしい。怒号が飛び交う中で、渇いた笑い声が、こぼれる。

「何しているんですの。お前たち。お前たちの敵は、あっちですの」


「みんな、やめてっ。やめてよぉ」


 体中が痛くて、痛くてたまらない。むしり取られた肌が、空気に触れるだけでも死にたくなるくらい痛かった。痛みにはもう慣れたと思ったのに、どうしてこんなに痛いのだろう。何かがこみあげる。手を伸ばす。


「生きたかった」


 伸ばした手の先から緋色が、飛んで熱が走る。散って地に落ちた赤い鉱石に、飢えた蟻のように人が群がる。不治の病に冒されていると知りながら、それでも生きたかった。最期は、ベッドの上で、心花や飛家の人たちに看取られて逝くというちっぽけな夢すらもかなわない。


「……もう、いやだよ」


 人を狂わせるほど甘美で甘い蜜のようだ。こんなことなら、生まれてこなきゃよかった。世界から色が消えうせる。黒白の世界で、赤だけが色づいている。

 悲しい願いを絞り出した瞬間、一陣の風がリコリスを襲った。皮膚を切り刻んでいた人々は、何が起こったかわからないまま悲鳴を上げてのけぞった。


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