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七.吸血鬼

 そうしてレグルスが心花を背負い、帰ろうと踵を返したその時、リコリスはちらりと視界の端に白カビのような物体が映って足を止めた。体を斜め横に逸らして、階段上を覗き込む。


「っ!?」


 ドクリ。


 鼓動が跳ねる。ぞわりと全身の産毛が逆立つ。視線の先でもぞもぞと五センチほどの小さな丸い物体が階段の下で犇めく合うように蠢いていた。視線の先でゆらゆらと体を揺らす黒い物体に悲鳴を上げて飛びのく。

「気持ち悪っ」


 まとめて掃除機の中に吸い込んでしまいたくなるほどのおぞましいコウモリの群生に体中を掻き毟りたい衝動にかられた。それでもなぜか、目が離せない。そのコウモリの頭部にらせんを描く黄金の角を見つけ叫ぶ。


「鬼っ」


 リコリスの叫びに、反応したレグルスが鯉口を切り、抜刀の備えをとる。心花はとっさに、右の指に視線を走らせ、リコリスは背負っていた斧の使を握る。にったりとわらうように、コウモリが一斉にして口を開き、真っ赤な口腔内をあらわにする。



 ――――――キーン。


 耳の奥がガンガンして、平衡感覚が狂う。ふらつきに、膝から力が抜ける。血まみれの絨毯の上に頭をこすりつけるようにして、ぐるぐるとする回転性眩暈をやり過ごそうとこらえる。


「目が回りますわ。レオ様、みなさん、無事ですか」

「何だこれ、気持ちわるっ。心花っ、心花はだいじょぶっ」


 ぐるぐると、身体が回転させられている感覚に、目を瞑る。激しい吐き気をこらえながら、大切な心花を手探りで探す。


「心花っ、無事」


 心花の声だけが聞こえなくて、慌てて目を見開いて、視線を走らせる。目を開けていられないほどの光の洪水に、斧を強く握りしめ生理的な涙を浮かべる。指向性をもった不快な音波の発生源を睨みつける。


「レオくん、マリアさん。心花は! ねぇ、返事して。心花っ」


 レグルスは、腕に力を入れて、身体を持ち上げるものの平衡感覚が著しく狂っているせいで、身体を上げるのでさえひどく億劫で呻く。リコリスは、二階の窓ガラスからわずかにこぼれる陽光に胃がひっくり返る様な衝動に襲われ、あおむけに倒れる。


「心花さんっ、心花さん」


 マリアが声を張り上げる。ぐるぐると天井が万華鏡のように回る。白いラッパの形をした花が、ゆらゆらと二階の廊下で揺れている。あの列をなす白百合のような花は、照明器具だろうか。肩で息をする。遠近感覚すらくるってしまったせいか、さっきまで二階にあった白い花がすぐ目の前にあるように感じる。どこかで嗅いだような濃密な花の匂いに、どくんと心臓が波打つ。


「あ」


 視線が吸い寄せられる。全身に冷や汗がこぼれる。白い花がぞわぞわと蠢く。気のせいか花が膨らんではいないだろうか。


「……みんな、今すぐ息を止めて」


 叫んだ。のどを裂くように、慟哭が二人の耳を打つ。リコリスの気迫に、頭で考えるより先に二人の身体は口をふさいでいた。獲物を見つけた白花鬼は花冠を跳ね上げるような仕草を見せたあと、爆弾雨のように、花粉の塊を吐き出した。クラッカーを鳴らすような破裂音とともに、館中の屋根と壁がものの見事に吹き飛んだ。部屋に風が吹き込み荒れ狂う。ばたばたという羽ばたき音とともに、超音波が消えうせコウモリが一斉に飛び回る。


「きゃあ」


 マリアが悲鳴を上げ、とっさに裂傷の走った腕で顔を庇う。受け身とりながら吹っ飛ばされる。鋭いかぎ爪が、すぐには動けないマリアへと狙いを定め伸ばされる。レグルスは、飛ばされた勢いを利用するようにして立ち上がると刀に手を掛けてから抜き出す。


「マリアッ」


 赤い刀身が鞘から走り、ネズミのような顔をしたコウモリの首を落とす。返す刀で、別のコウモリの翼を切断する。冷や汗を浮かべながら、レグルスはマリアをかばい小さくすばしっこいコウモリを切り捨てる。リコリスは心花の姿が見つけられずじっとりと背中に汗を垂らす。


「心花」


 切り捨てられたコウモリは体をけいれんさせて、絨毯の上に青緑の滴を垂らす。リコリスは、迷子の子どものように視線さまよわせる。柄を握りしめる。


「邪魔しないで」


 無防備なリコリスを喰らおうと、頭を階段の上から垂らした()()。いらいらとした気持ちで、鬼花の首元に、「消えて」と力任せに斧を振り下ろす。どろっとした青緑色の液体が、降り注ぎリコリスを汚す。


「心花っ、どこ。ねぇ」


 両の手に重たい痺れが、喝采のように走る。五年前、手も足も出ずにニラカナイの住人を貪り食らった怪物を滅したという熱の奔流が胸のうちで渦巻く。


「心花……心花っ」


 重たいつぼみが、ごろりと、転がり落ちてどすんという似合わない地響きを轟かせ落ちる。人一人軽々と飲み込めるほどの花だ。じわじわと、赤い絨毯の上に藍鉄色となった鬼の血が染みを広げてゆく。

 肩を背後からとんとつかまれる。その手は、ひどく冷たくて、でも、とても人の手に似た形をしていて、恐々と後ろの正面を見る。


「やはり未熟も未熟、相も変わらずツメが甘い」


 その言葉に頭に冷水を浴びせられたような衝撃を受ける。


「ひぃっ……オ、鬼」


 金色の目がこちらを舌なめずりして見ていた。全身をかきむしりたくなるような怖気が走る。異形の化け物が、心花の髪を持ち上げて嗤っていた。芸術のように整った容姿は、性別を超越した魅力を放っている。心花の顔が苦痛に歪む。


「リコ、ちゃん。にげて」


 吸血鬼の手に心花が噛みつき、一瞬離れた隙に血を吐くように叫んだ。絶え絶えの息で、言葉を紡ぐ心花を、たたきつけるように床に落とした。その拍子に鬼と手からぱらぱらとはちみつ色の毛髪がこぼれる。


「っあああああ」


 心花がその細い喉から絶叫を上げる。心が引き裂かれそうな気持になった。どうして、どうして心花ばかり執拗に狙うのだろう。まるで、リコリスの絶望した顔が見たいとばかりに、心花の腹を、思いっきりそれ―――吸血鬼は、上から踏みぬく。どこも怪我をしていないのにまるでリコリスが攻撃を受けたかのような痛みが、内で暴れる。


「心花っ。心花を返せっ。その汚らわしい足を心花からどけなさいっ」


 一気に加速して接近する。振り降ろした斧が運良く鬼の腕を切り落とす。


「ほぉ。それは切れるのか。食糧の分際で、余計なことをしてくれるではないか。一体どこの誰だ、我を殺そうなんて、不遜なことを考えたのは! 百年早いぞ。人間」

「不遜で結構! 鬼っていうのは人間に殺される運命なのよ」


 邪悪な笑みを浮かべる鬼に、当たると確信して二撃目を振り降ろす。手ごたえが消えた。鬼の姿が見えているのに霞のように、一部分だけ霧となっている。


「ちっ。避けるな」


 霧化するせいで、攻撃が当たらないのか。顔を歪めながら、レグルスに視線を送るとしっかりと頷き返された。がんばれとでもいうその視線に活力が湧き上がる。


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