一.はじまりの朝
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「……ください。起きて……さい」
甘い空腹を誘う臭いが鼻孔をくすぐる。誰かが身体を優しく揺り動かしながら、耳元で何かを言っている。ふわふわとしたまどろみの中にもう少しだけいたくて、リコリスは寝返りを打った。深紅の髪が枕の上にさらりと肩から落ちていく。
「リコちゃん。もう! 起きてってば! もう時間がないんです。ああああ、もう。こうなったらこうです!」
リコリスの寝室へ侵入したはちみつ色の髪の少女―――心花は迫りくる時間を前にして、ごくりと生唾を飲み込んで、シーツへ手を伸ばした。
―――緊急速報。
突然の甲高い警告音に、びっくんと半覚醒だったリコリスの身体が大きく痙攣した。驚いて勢いよく起き上がった拍子に、屈んでいた心花の額と衝突した。ぶつけた方もぶつかった方もスパークした痛みに蹲った。
『痛っ』
両者の声と重なる。
ずきずきと痛む額を手で抑えながら、リコリスは、仮想ウィンドウに、ポップアップしていた文章を流し読む。どうやら、ここ最近すっかり日常となってしまっているお騒がせ天体都市「ユークロニア」が、今度は、周辺諸国の宇宙船を次々と撃沈させているらしい。ベッドの下では、同じく頭を打ち付けた 心花が奇声を発しながらたいそう愉快に転げ回っている。
「っう。痛いです。おでこがゴツンって。もう何なんですか、リコちゃん。あー、なんか新着が入ってる。またユークロニアが何かやらかしたみたいですね。もぉ、どうしておとなしくしてくれないんだろう。また、誰か亡くなっちゃったのかな……今日の議会も荒模様だね」
「そうみたいね。死者行方不明者数が、これで三ケタに跳ね上がったわ」
目を数秒間だけ伏せる。人の死もこうしてみるとただのデータ上の数字の増減に思えてしまう。本当はそんな単純なものではないというのに、死の瞬間から遠ざかっていると、ただ当たり前の現象の一つとしてしかとらえられなくなるのが恐ろしいと思う。
「三百年の平和が壊れちゃうのかな。また、ここでも『青き星』にいたころと同じことを人間は繰り返すのかな。いやだな。わたしは、みんなが笑って暮らせる明日が欲しいよ。流れ星に、『竜宮城』のみんなでお願いしたら叶えてもらえるかな?」
カーテンを開ける。その先に広がる天の川が流れている。流れていると感じさせるのは、それだけの速度でこの宇宙船が運航しているからだろう。
「そうね。きっと、この宇宙に散らばったみんなが同じお願い事をしたら叶うかもしれないわ。でも、あたしは叶えてもらうなんていう、他力本願だけなんてごめんよ。願いをかなえてもらうにはそれ相応の対価を支払わなきゃ」
口では偉そうなことをいいながら、電脳ネット―――フェネストラを操作し、一番近い彗星を調べてみる。パンドーラ彗星が数日後には見えるようだ。
「そうだよね。自分が動かないと、何も変わらないよね。はじめの一歩をユークロニアが踏み出しちゃったから、他の国も大慌てで軍事産業に着手しちゃうのかもって、議会に顔を出すと怖くなるよ」
ユークロニアの威嚇行動により、ここ最近はゆっくりと眠ることすらできずにいて不機嫌だった。でも、そんな気持ちも、尻尾をぶんぶん振り回すおかしな心花を見ていると、きれいさっぱりとどこかに飛んで行ってしまった。心花がこうして傍にいる限りリコリスの日常は続いていく。なんだかおかしくなって、くすりと笑う。
「まったく、人間ってやつは本当に学習能力がないわよね。三百年前、自分たちの手で生まれ故郷の地球を壊しといて、まだ足りないっていうの?」
手をぐいと伸ばしながら、愛娘には甘々な船長と相談して、彗星が綺麗に見える位置に船を停泊してもらおうと考える。最近、議会関連で気疲れが多い心花には、いいプレゼントになるに違いない。
「娘に最高レベルに準ずる権限を簡単に与えるとか、本当に先が思いやられるわよね……まぁ、心花が悪用しないって信じてるからこそできるんだろうなぁ……」
「? 父さんがどうかしましたか?」
「船長は、娘に甘々だなって思って」
心花に与えた権限が、リコリスの寝室に侵入するために使われているのをログで知りながら、放置しているんだろうなとため息をこぼす。
「あ―、それより、早く着替えてください。リコちゃん。今日は、任務ある日です。火星のイケメン騎士さんとデートの日ですってば」
心花は、イケメンという部分に語気を強め、装着した猫耳をぴんと立てる。そういえば、カレンダーに、いつの間にか、ハロウィンイベント会場の周辺警邏と書き込まれていた気がする。タップして確認してみる。ようするに、共に行動し、外から来た火星の騎士二名と内側の人との親睦を深めたり緩衝材になったりしろということだろうか。
「んあ、今日からハロウィンウィークか」
リコリスは、カーネリアンの瞳を眠そうにとろんとさせながら、指を虚空にスライドさせ、予定表を収納する。
「心花ぁ、その猫耳って紫薇さん作?」
ゆっくりと室内を見渡す。ハンガーにかけられていた趣味ではないかわいらしい黒魔女服を見つけ、まばたきを繰り返す。心花の方を見るといい笑顔で頷かれた。
「お母さんの力作、獣耳シリーズです。オーストコピーが観測した身体反応から感情を予測して、連動するようにできています。リコちゃんが魔女役で、わたしが使い魔って設定です」
遊びの中にふんだんに最高技術を盛り込むところがなんとも紫薇らしい。電源が入れたままのテレビから、ユークロニア帝国が、近海の宇宙船を手あたり次第撃沈したという物騒極まりないニュース速報が聞こえる。心花の猫耳を見て、深くため息を零す。
「毎年のことだけどさ、ハロウィンって収穫祭でしょう。箱庭栽培で収穫時期なんて存在しないのによくやるわよね」
この船員のみんなは、本当にお祭り騒ぎが大好きだ。楽しむためになら金も労力も惜しまない人種が集まったせいか、今やこの宇宙船「竜宮城」の目玉は、年四回行われる四季の塗り替えによる船内内装の変更だ。
ウェアラブル端末フェネストラを起動させ、オーストコピーが観測した健康データを確認し、軽く操作し医務室にいる上弦へ転送する。
「確かにそうなんですけどね。でも、今年はいいガス抜きになりそうです。みんなどこか、ピリピリしてますからね。人が密集すればするだけ問題ごとも増えてきますから、リコちゃんたちに頑張ってもらわないとですけど」
それとなく、心花がテレビに視線を向けたのであろうことが、長年の勘でわかってしまう。画面の向こうにいる権威ある人や人気アナウンサーたちが、口々に他の天体都市が協力体制して鎮圧に向かえば圧勝できるなんていう根拠のない戯言を口にしている。皆どこか不安でそれでいて、遠い星の出来事だとニライカナイの惨劇の時のように達観しているのだろう。