六.独りの夜
真夜中に目を覚ますとここは自分の居場所ではないと感じてしまう。それは昼間とても幸せだったときに強く感じる。
「心花? 書置き。友達とナイトハロウィン楽しんできます……か。邪魔するのは悪いわね」
こういう夜は、不思議と感傷的になってしまう。窓の向こうで、色とりどりの水晶を模した照明器具から、艶やかな電飾が点灯している。人工的な明かりが強いほど闇を濃く感じてしまう。
「半年か。覚悟決めたはずなのに、やっぱ死ぬのは怖いや」
力なく寄りかかった窓ガラスが、ぐにゃりと意思を持ち曲がっていくようなめまいに襲われた。忘れようとしていた得体の知れぬ状況に再び恐怖や不安がよみがえってくる。ドッドッドと、心音が速くなる。
リコリスは、心臓をわしづかみにされているような圧迫感に呻く。内側から外へ、血管を食い破ろうと暴れ回る苦痛に額を床に押し付ける。
「どうしてっ。どうして、あたし、ばかりこんなつらい目に合わないといけないの」
誰のせいにもしきれない痛みに、鼻の奥がツーンとなる。こぼれた透明な滴がネオンに反射し、ちかちかとする。体内の血液が沸騰しているかのようで、意識をもうろうとさせる。頭の片隅で、誰かを呼ばなければと思うものの、指先一つ動かすのも苦しい。
タンジェリンクオーツを模した照明からこぼれる橙色の光が、研究棟で不吉に明滅していたあの赤いランプの記憶を呼び起こした。
「ようやくやつらが特殊なナノマシーンを主体とした疑似生命体だっていうところまで突き詰めたのよ。あの化け物へ対抗するための特殊ナノマシーンは完成したわ。武器化の理論はカンナ・カムイ様が完成してくれたわ。あとは、武器加工だけなのよ。あと、もう少しだったのに」
アマリリスと数人の信者とともにシンプルで長いアーチ型の廊下を必死に駆け抜けた。だんだん遠ざかる悲鳴に、リコリスの膝小僧が笑いだす。大理石を模した床材を右足がけり出し、一歩一歩を無理やりひねり出すように走る。
この角を曲がった先に、脱出用のボートが残されているのだ。アマリリスは、だんだん近づいてくる爆裂音に耳を傍立て、後ろを振り返る。紅の髪を豪快に掻き毟ったアマリリスは、試験薬を片手に怒鳴り散らす。
「こんな時までわがままを言わないでくださいよ。チーフ。やつらには、通常の、銃撃も光線も毒薬も、刃による通常攻撃は聞かないんですよ。こんなものが、宇宙自由にあふれかえったら人類は滅亡します。覚悟を決めてくださいっ」
「シミュレーション結果では、神子である彼女だけが唯一適合できる可能性があるんです。神子様、カンナ・カムイ様が指示した化け物に対抗する武器の理論を覚えているでしょう」
だんだん近づいてくる爆裂音に皆のいら立ちがピークに達していた。肩を思い切り掴まれて、びくつきながら首肯する。リコリスを背中に隠しながら、アマリリスは常識を盾に噛みつくように言葉を重ねる。
「たしかに、この子なら武器化理論を一言一句間違わずに運べるわ。でも、これは直接人体に投与することは、考えられてはいなかったわ。試験もしていない。それに、重大な副作用があることだって、あなたもわかっているはずよ」
ニライカナイの叡智が詰まった希望そのものである赤い液体の入ったアンプルを割らんばかりに、アマリリスは握りしめる。それを部屋中の人間たちが、咎めるような鋭い視線をアマリリスに向ける。
「えぇ、わかっています。アポイタカラ病という副作用でしょう。ですが、五年から六年の猶予がある。別に今すぐ死ぬわけではない。私たちと違って、彼女はしばらく生きられるんですよ! あなたにできないというのなら、われわれがやります」
「やめてっ! ケンカは止めてくださいっ。もうこれ以上は、やめて」
リコリスは両目いっぱいに涙を浮かべ、足を踏み鳴らす。険悪な気配にこれ以上は耐えられなかったのだ。子どものように泣き叫んでも、アマリリス以外の大人たちは、使命のためなら、リコリスに無理を強いるであろうことは容易に想像がついた。
「かあさま」
リコリスは、アマリリスの手にあるアンプルに手を伸ばす。試験も行われていない理論上だけの薬物への恐怖に瞳に涙が自然とたまる。ごくりと、誰かが息をのむ音が響く。
「何かしら」
怖い。たまらなく怖くて、声も指先も震えが止まらない。心臓が口から出てしまいそうだ。丈夫な特殊チタンの床が、波打っているように感じる。
「あた、あたし……神子である前に、かあさまの娘だよね」
険しい表情をしたアマリリスがリコリスを守るために強く抱きしめる。柔らかな感触と白衣にしみ込んだ薬品のにおいがした。
「えぇ。あなたは、あたしの自慢の娘よ。何物にも代えられない大切な。あなたのためになら、かあさまの命なんて惜しくないわ」
リコリスは一番鮮明に残るように、アマリリスの臭いを深く吸い込む。命の猶予が消えるその時まで覚えていられるように、記憶に刻みこむために。
「ありがとう。かあさま。だいすき……かあさま、あたしの最期のおねがいを聞いて」
気力で、全身の震えを押さえつける。両手を伸ばして、泣き笑いでリコリスは、生まれてはじめてのおねだりをする。
「あたしに……リコリス・ラディアータに、かあさまの最期の作品をちょうだい」
アマリリスは、泣き崩れた。泣きながら、頷いた。何度も、何度も、繰り返し頷いて、注射針をリコリスの体内へ挿入した。
「リコリスっ。あたしの娘としてうまれてきてくれてありがとう。親らしいことは何にもしてあげられなくてごめん。かあさまをかあさまにしてくれて、ありがとう」
この異物感は、何度経験しても怖気が立った。浅く息を繰り返す。カムイケムという名前の特殊なナノマシーンが注射器の中から目減りしていく。一秒でも早くその針を引き抜いて欲しいという衝動を、抑え込み歯を食いしばった。
「少し早いけれど、お誕生日おめでとう―――最期に、あなたが望んで止まなかった外の世界をかあさまがプレゼントしてあげる」
だれかと永遠の別れに等しいさよならをするのはこれで二度目だ。一度目はレグルス。二度目は、母親とそしてニライカナイのすべての人。それから先の記憶は、痛みのあまりひどくあいまいで、気がついた時には、かあさまがむくろへ変り果てる姿を脱出用ボートのガラス越しに見たものが最後だった。